2016年5月16日 (月)

映画「かぞくのくに」

安藤サクラ主演の映画「かぞくのくに」2012年 をDVDで見た。

http://realtime.wsj.com/japan/2013/03/18/自伝的映画「かぞくのくに」─梁英姫監督インタ/

痛切な物語であり、北朝鮮と帰国運動への告発としても成功していると思うが、そのことはすでに周知の事実となっており、テーマが日本社会に持つ意味は意外に小さいのではないか。

超越的な絶対者の命令の不条理に直面する人間の悲劇とより普遍的に捉えるとしても、想像が及ぶ範囲は戦前の軍国主義日本、スターリン主義国家や政党、マッカシーズム下の反共アメリカに止まる。キリスト教の信仰も含まれるかもしれない。

それらは現代の最重要課題とは言えない。

2015年の「百円の恋」のほうが今の社会の問題に取り組んでいると評価される。

ただし、分裂国家を半島に生んだ原因が日本帝国主義にあるということまでに視点を広げると、この映画に描かれた悲劇を他人事としてみている日本への告発でもありうる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年5月12日 (木)

映画「百円の恋」

函館を舞台にした映画「そこのみにて光輝く」も良かったが、最近DVDで見た安藤サクラ主演「百円の恋」もそれに匹敵するものだった。

山口県周南市周辺でロケされたものらしく、この映画は山口県の新しい誇りかもしれない。

どちらの映画も台詞は少ないが、「百円の恋」はセリフが少ない上に聞き取りにくく、言葉ではないメッセージが特に強い。

社会の最下層にいて一度も勝つことのない人々の生活にどのように豊かな感情や思考が渦巻くのかを描こうとすればこうであるしかないだろう。

主人公を突き動かすのは、戦い抜いたあと肩を叩きあって友人になるフェアな精神、いわば正義への憧れである。

マイケル・マーモットの「the Health Gap」を読んで健康の平等について考える際は、ぜひこういう映画も同時に見て、貧困や格差で容易に押しつぶされることのない人間の可能性も確かめておいた方が良いと思える。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年3月13日 (日)

3・11のTVドラマ「わたしを離さないで」

3・11のTVドラマ「わたしを離さないで」は出張のため見逃したので、今日ティーバーでみなおしたが、ここにも注目されるセリフがあった。

「人間はあるはずのものがない世界には戻れない」

「便利なものは手離さない」

「その不都合は見ないことにする」

「それが人間であれば、人間だと認めなければよい」

これは架空の臓器提供用のクローン人間のことを言っているとは思えない。

ここでいう人間とはあくまで支配層のこと。

その存続のため、見て見ないことにされるのは、原発、沖縄を初めとする米軍基地、派遣労働、などなど。

今の民放としてはギリギリの主張なのではないか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年3月 8日 (火)

2015「母と暮らせば」と1960「おとうと」の類似点

今朝おきて何気なくケーブルTVの日本映画チャンネルを見ると、
山田洋二監督が2010年にリメイクした映画の先行作品である市川昆監督「おとうと」1960が放映されていたので、途中からではあったが見入ってしまった。
 
おかげで遅刻しそうになった。
 
原作は幸田文の小説で、幸田露伴一家がモデルになっているようだ。
 
山田作品では吉永小百合ー笑福亭鶴瓶で演じられた賢姉愚弟の組み合わせは、市川作品では岸惠子ー川口浩が演じている。
 
岸惠子の表情がなんとも魅力的だし、時代設定の大正時代の雰囲気もよく伝わる。
 
山田作品では弟は癌で死んだが、市川作品では弟が17歳で結核死を遂げる。
 
死が家族の和解の場になるのは両作品共通しているがどちらも印象深い。
 
川口浩の舌足らずの甘えた口調をどこかで聞いたことがあるとしばらく考えていて思い出した。
 
「母と暮らせば」の息子役の二宮和也だ。
 
山田監督が意図的にそういう演出をしたことは間違いない。
まだ誰もそういう指摘をしていないので書き込んでおく気になった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年2月20日 (土)

ドラマ「わたしを離さないで」と現実の交差 憲法13条をめぐって

政治性に欠けるカズオ・イシグロのこの小説を現代の日本に移し替えていったい何を主張できるのかと訝しく思っていたのだが、2月19日のTVドラマ「わたしを離さないで」第6話は、極めて鮮やかに原作とは全く違う主題を提示して見せた。

それは個人の尊厳を謳う憲法13条を殺そうとする日本の告発である。

臓器提供のためのクローン人間を「天使」だとする語りは「戦士」についての語りに聞こえ、生命の提供を求められる兵士の存在と憲法13条が絶対に両立しないという主張を見事に物語の中に織り込んだ。

おそらくこのドラマと日本の現実の交点は第6話のこのエピソードだけに終わると思うが、その放送が、安保法制に反対する歴史的な野党5党合意の日に重なったのも、決して偶然ではないのだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年2月 6日 (土)

映画「ヴィオレット」

会議が早く終わったので、一番手近な岩波ホールに行くことにした。

東京のタクシーは苦手なのだが、相当高齢な運転手さんの車を見つけたので乗り込んだ。しかし「神保町交叉点」がうまく伝わらず遠回り。降りるときに100円安くしてくれた。

上映中だったのは「ヴィオッレットー ある作家の肖像」。
ボーヴォワールに見出された異色の女流作家の伝記。

物語はここで要約するほど面白いものではないがボーヴォワール役の女優と作家の住んだ南フランスのフォコンという村の風景が良かったので眠らないで済んだ。

悲惨なスタートながらも自分が書くべきものを苦闘しながら見出して行くという結局はハッピーエンドの話だったので、映画館を出た時はこちらも何か希望のようなものを感じていた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年1月 5日 (火)

「坊っちゃん」も相当暗い話だ

昨夜、TVをつけたら、「母と暮らせば」に出ていた二宮和也の主演で「坊っちゃん」をやっていたのでつい見てしまった。 そこでふと気づいたこと。この作品の時点でも、ロンドン時代に始まっていた漱石のスパイ被害妄想があったのではないかということ。 教室の黒板に前日食べた団子や蕎麦の詳細が生徒によって暴露されるというのは、田舎町ではそういうこともあるかもしれないと思って見逃しやすいが、スパイされているという漱石の妄想だった可能性が大きい。 恋愛の形式にしても妨害がなければ成立しないという、「こころ」「それから」「門」を貫く漱石の原則はこの作品でも現れている。 けっしてカラッとした青春ドラマなどではない。 そして清との関係こそ、幼少期に養子に出され孤児感覚を持ち続けた漱石が女性に求めたものの原型だということも明らかで、ある意味坊っちゃんと清の恋愛物語だということになり、思い切って清を坊っちゃんと同年齢に設定してみたらそれが分かっておもしろいのに、と思った。 *その後、思い出すと2014年の年末も漱石の「坊ちゃん」のことを僕は書いている。これが、今日の感想の下敷きになっている。 『・・・・・小森陽一「漱石を読みなおす」ちくま新書1995 http://www.amazon.co.jp/%E6%BC%B1%E7%9F%B3%E3%…/…/4480056378 を開くと、漱石の文学的出発が失意の中で死んだ文学上の盟友・子規を見捨てた罪悪感によるものであることが強調されていて感慨深かった。 それはなんだか年末の今日にふさわしいような気がした。 漱石=(徴兵逃れのための外地・北海道岩内町への)「送籍」という筆名の由来にしろ日清戦争の中に死地を求めるように従軍記者として赴いた子規への負い目の表現だし、「坊つちゃん」を書いた動機もまた子規に強く関連している。 「坊つちゃん」の最後に「気の毒な事に肺炎に罹って死んでしまった」とのべられる女中・清は実は子規のことだった。』 子規は漱石のロンドン留学中に死んでいるのだが、漱石と子規の友情物語の舞台は松山でしかありえないのだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年12月28日 (月)

映画 「母と暮らせば」山田洋次監督 2015

山田洋次監督の「母と暮らせば」の政治的訴えの真っ直ぐさは間違いないが、映画の作りはそれ以外にも多面的多層的だったので、それを違和感や構成の濁りと感じた人も多いようだ。

それはやはり面白さと感じた方がよい。

緻密さも極まった細部の描写は言うまでもない。

それ以外に僕が特に印象に残ったのは、黒木華を撮る性的な視点だった。

カメラを低く構えた小津安二郎監督の視点についてそれを指摘する人もあるが、それに似ている。

ブラウス姿で木戸から入ってくるところ、汗を光らせながらオルガンを弾くところ、靴を脱いで上がり框から上がるところ、小豆を洗う後姿などは何を意図して写しているか明らかである。

その意味では、全体が古い因習を破って開いていく女性と、それが破れないままに閉じて行く女性の残酷な交差の物語とも言える。後者から「嫉妬」という言葉が終わり近くに発せられるのも自然である。

それに加えて、「父と暮らせば」の娘が同じく最後に恋人と結ばれつつなお原爆症発症の暗い予感が濃いのに対して、こちらの場合はその可能性は暗示もされておらず、その後について想像が働きにくいのは、見終わっての余韻を浅くしているかもしれない。「丹波哲郎の大霊界」に似た終わりは別にしても、である。

また、1967年のべ平連機関紙「声なき声」に掲載された杉山龍丸の文章「二つの悲しみ」後半のエピソードの採用は、子役が達者すぎて、狙いどおりの効果を得ていないのではないか。

*杉山龍丸という人で、作家夢野久作の子供で、後にインドでの植林で有名になった人。「ふたつの悲しみ」はネットで検索すれば容易に探し出せる。

http://tanizokolion.fc2web.com/futatunokanasimi.html

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年11月24日 (火)

「女は二度生まれる」1961と 「夢を売るふたり」2012 の同じ終わり方

最近、ケーブルTVで見た映画がそっくりのエンディングなのに気がついた。

1本は若尾文子主演の「女は二度生まれる」1961
もう1本は松たか子主演の「夢売るふたり」2012

どちらも印象深いエンディングなのだが、不幸な主人公がこちらを向いて「あら」というふうな表情に変わると唐突に終わるのである。

偶然のこととは思えない。

後者について、主人公が最後に発見するのは見ている私たちだという解釈を示す人がいた。ならば前者もそうだろう。

おそらく、主人公の不幸さがその「あら」という表情で救われている気がするのは、何かしらのコミュニケーションがそこにあるからだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年10月 5日 (月)

シンガポール映画「イロイロ」

シンガポール映画なんてジャンルがあるのかと半信半疑だったが、「イロイロ」という低コスト映画は、様々な情報に満ちながら、情感もあるいい映画だった。

2013年に31歳の監督が1997年のアジア金融危機に喘ぐシンガポールの庶民生活の中で子どもだった自分を回顧するというものである。

イロイロというのはフィリピンに多くある島の中の人口30万人程度地方都市の名前だが、ウサギ小屋のようなシンガポールの共稼ぎ夫婦の家庭に雇われた28歳のメードの出身地であることから映画の題名になった。

高度経済成長途中のシンガポールにはこんな家庭でもインドネシア人やフィリピン人のメードが雇えたのである。それほどにインドネシアやフィリピンがアジア金融危機で貧困に突き落とされたいう背景がある。

物語の中心はメードと少年の交流だが、父親の株の失敗や解雇、母親の仕事が会社の首切りであることや自己啓発セミナーの詐欺被害などが次々起こってくる。

結局、メードを雇えなくなってメードは帰らなくてはならない。彼女が辛い生活で唯一楽しみにしていたウォークマンを貰った少年は、父親とイアフォンを分け合って音楽を聞く。その歌が始まってエンドロールが流れるという終わり方は少し洒落ている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧