2009年7月 9日 (木)

私の前史と、こうの史代「この世界の片隅に」双葉社、2009

「夕凪の街 桜の国」のこうの史代が、またまた画期的な作品を発表した。

しんぶん赤旗でも本人へのインタビューがあり、紙屋研究所が熱弁をふるい、同郷の哲学者川本隆史氏(東大・教育)まで図書新聞2009年上半期の3冊に取り上げている。

実は数か月前、JR浜松町の駅中の本屋で平積みされていたのを買わないで帰ったのであるが、失敗だった。結局、宇部市に上中下3冊1セットだけ残っていたのを私が買うことになった。おかげでこの本の宇部での普及はこれで止まったかもしれない。

簡単に何かを書くにはやや長すぎるこの作品に触れる前に、私はなぜか、自分の生まれるまでの歴史を記録してみたくなった。

私の祖先は島根県(石見地方)南部から広島県北部を移動して、何代にもわたって医者をしていたらしい。当時の医者は誰でもなれるもので、香具師かばくち打ちに近いものではなかっただろうか。正式?の医者は曽祖父 玄策だけである。

彼は、村の貧乏寺から私の家に婿養子に入り、尼子さんという当時は珍しい大学出の医学士の家で数年書生をしていた(*検索によると尼子四郎 1891年ー1893年 戸河内村で開業、後に山口県下松市、ついで東京、やがて医学中央雑誌の創刊に関わり、夏目漱石とも交流、か?)。その経歴だけで、明治政府から西洋医としての開業医免許をせしめたのである。

それから公職としての村医になり、昭和17年(1942)に88歳で死亡するまで医者を続けた。薬代の払えぬ患者から田畑を取り上げたので、子供を京都帝大に進学させているような村の大地主K家に次ぐ村の中小地主になりあがった。

ただし、彼の名誉のためにいうと、彼が丹念に作り続けた何十年かの村民の死亡診断書は資料的に評価されて、広島県医師会の発足100年を記念する何かを作る際に提供を求められて、そこに収録されているらしい(というのは私は実物を見ていないからである)。死亡診断書の束自体は私も見たことがあり、自殺例や他殺例もある多彩なものだった。

さて彼は、長男と甥を東京の医学校にやり、二人とも後藤新平から開業前期試験合格証をもらっているが、20歳前後に結核で相次いで死亡している。

長男の名前は輝夫といい、彼の自筆の作文集が祖父の手元に残っていた(というのは祖父の死の前後のどさくさで紛失したからである)。当時盛んだった少年向けの投稿雑誌に何篇か掲載されたらしく、原稿の題名の横にそのことが書かれていた。最後の作品は、発病して東京を去る直前に書かれたものらしく、「帝都の夜に病身の自分を想う」という風の書き出しで、明治43年(1910)の日付があった。石川啄木と同時期に東京にいたのだと後で私は考えたものである。彼は帆をかけた船で太田川を加計まで帰り、その後の山道は背負われて八幡高原まで行き着き、まもなく自宅で死んだ。

曽祖父の次男 不二仁(筆名 富二仁)が私の祖父である。彼は早世した兄の代わりに医学校に行くのを断って、気ままに生きた。村の助役になったりしながら、父の貯めた金をあてに、郷土山県郡を紹介する定期刊行の写真雑誌を発刊し(これは現在貴重な郷土史の資料になっている)、三段峡周辺にバスを走らせるバス会社を作った。

その後、このバス会社が広島電鉄に吸収されたため、彼は広島電鉄の一営業所長のポストを与えられ、一時期広島で勤め人生活をする。それ以前の山村風景を写した写真と合わせて、このとき撮った写真も原爆前の広島の庶民生活を写しているというので評価されている。

そんな生活をしながらも祖父は徴兵検査で成績が悪く、徴兵されることはなかった。そのためか、父 耕作は早くから戦争に出たがり、満蒙開拓団少年特別義勇兵になって茨城県内原で訓練を受けたり、その途中で海軍特別少年兵(航空兵)採用の知らせが入りそちらに転じている。終戦は山口県防府市の海軍基地で迎えた。

戦争が終わって、曽祖父は公職に就けなくなり、村に帰った父は助教諭として村の中学に雇われて、体育の時間に生徒をむりやり臥龍山(標高1223m)に駆けあがらせるなどという乱暴な教育をする青年教師になった。慶応の通信教育で中学理科の教員資格を得たのはその数年後である。

その途中で生まれたのが私だが、幼いときから、なぜか「輝夫さんの生まれ変わり」と言われていた。

それは小学校1年の時、広島大学の八幡高原総合調査団が私の村に入り、方言や民俗風習の採取、植生の調査、児童の知能検査などを行ったことによる。小学1年生の中にIQが147という(調査団からみるととんでもない)数値を出した子供がいて、おそらくへき地を蔑視していただろう調査団を驚かせたのが私だった。

今から考えるとただ早熟であったにすぎないが、父からその結果を漏れ聞いた周囲は私が輝夫さんの遺志を継いでついに本物の正式の医者になるものと決めてしまい、幼い私も素直にそれを受け入れたのである。

話が横にそれた。

問題は祖父が撮りためていた写真である。二千枚の写真乾板は保存が非常に悪い状態で私の家の蔵に放置されていたが、村に別荘を構えた元中国新聞写真部長の紺野さんに退職校長の父が相談したところ、中国新聞の好意で約2年の歳月をかけて修復現像された。

「芸北、カメラが語る昭和初期」と題されて、広島市の中国新聞ホールと村の公民館で公開され、その後芸北町教育委員会から出版もされた。

その写真集にも数枚収録されているが、戦前の広島市の商店街を写した写真もあり、原爆前の広島の珍しい写真として中国新聞にも掲載され、そこに写っている商店の(原爆を経て生き残った)子孫も見つかり、父が新聞に談話を寄せたりした。

その写真が「この世界の片隅に」の8ページの広島の絵によく似ている。

戦前の広島の写真は相当数残っているはずで、全く別ものかもしれないが、同じ時代の同じような光景を祖父も写真家の目で見ていたはずだ。

それだけが言いたくて、長々と書いてしまった。

こうの史代の作品そのものは、静かに胸に迫るもので、戦争を知らない世代がどう戦争の記憶に向かい合うかを考えるとき、今後必ず思い出されるものになっていると思う。

「うちはその記憶の器としてこの世界に在り続けるしかない」 終り近くで記される「記憶の器」という言葉は、雑誌「世界」1995年1月号での大江健三郎特別インタビューを思い出させる。大江は、ミラン・クンデラの「記憶することは権力に対する弱い人間の武器だ」という言葉を引用し「記憶によって私たちは生きている」と言い切った。こうの史代は正しくそれを実践しているのだ。

彼女こそ広島人の誇りである。

(附録)

この作品を読んだ人のためにいくつかクイズを出しておこう。⑥を除けば、どれも本質的な問題ではないが・・・そして、このような質問を出すこと自体、マンガが読めない人だと判断される恐れもあるのだが・・・。

①すずの夫周作は、すずとずっと昔に会ったことがあると言っているが、その場面はどこに描かれているか
②その場所はそっくり同じ構図で2度登場するが、2度目はどの章か
③すずをさらおうとする化け物も2度登場するが、2度目はどの章か
④りんさんはアイスクリームに固執するが、それはなぜなのか
⑤「この世界の片隅に」という題名は、あるセリフから来ているものと思えるが、そのセリフはどこに書かれているか 。また、そのセリフをあなたは当時の女性が発するものと思えるか。
⑥最終章の「幸福の手紙」は、誰がだれに書いたものなのか

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