宇部の歴史と民医連
30年くらい前になるだろうか、雑誌「月刊保団連」のリレーエッセイ「わが街の歴史」に「宇部の歴史」を書いたことがある。
その後、山口県保険医協会の役員懇親会で、ある役員から「お前なんぞが宇部の歴史を書いていいと思っているのか」と恫喝された。「どこが間違っていますか」というと「宇部第一の名家〇〇家のことが書かれていない」とのこと。実に彼の母親はその〇〇家の出身だった。宇部は、炭鉱資本家に土地を貸して地代(レント)を得ることで、海辺の僻村のつまらない地主が続々と大成金になったところである。反吐が出る思いだった。
つまらない思い出を書いたが、時代は回って、また宇部の歴史を書くことになった。
長文で申しわけないが興味のある方はご一読ください。
宇部の歴史と民医連
第1章 宇部の資本主義
宇部の歴史は「日本資本主義発達史」の縮図というべきものです。
石炭の発見は早く、1688年には家庭用燃料に用いられ、瀬戸内海沿岸の塩田や山陽道の宿場町にも売られていました。しかし山側の竪坑での小規模な採掘で、生産量もそう多くはありませんでした。その頃は美しい海岸の松原が広がっていたそうです。
しかし、1910年頃には、石炭採掘に機械が導入され、炭鉱は海底に伸びていきました。海岸の松はすべて伐採され、東西に坑夫の小屋が並ぶ粗末な町ができました。
沖に作られた人工の小島が採掘拠点となり、その間を採掘時の土砂が埋め立て、その結果、人工島は地続きとなり、市街地が広がりました。幹線鉄道から市街中心部に軽便鉄道が敷かれたのもこの頃です。
炭鉱資本家や地主たちは海岸から離れた北の丘陵地帯に大きな屋敷を構えて、彼らと炭鉱労働者は別の世界を生きていました。
宇部にエンゲルスがいれば「日本の労働者階級の状態」を書いたかもかもしれません。
宇部の急速な発展の背景は、明治維新後の日本の近代化、朝鮮支配をめぐっての清国、ついでロシアとの戦争、韓国強占(併合)、第一次世界大戦でした。
宇部の資本主義の特色は、早くも1880年代に炭鉱資本家と地主が結託して、政治的結社「達聡会」、経済的結社「共同義会」を作って集団指導による支配体制を固めたことです。
これが1897年に組合立の形で大炭鉱をスタートさせ、やがて宇部興産株式会社の結成に至ります。
その過程は 1914年宇部鉄工所、1923年宇部セメント製造株式会社、1933年宇部窒素工業株式会社、1942年これらを統合した宇部興産株式会社となります。
太平洋戦争中、1945年7月2日に米軍の大規模空襲を受けましたが、被害は市街地に大きく、工場群はまもなく再操業をはじめました。
1955年に石油からナイロンを作る原料のカプロラクタムを製造する工場が作られます。その後、全国に工場網を広げ現在もカプロラクタム供給の最大手です。
このころ工場のエネルギー源は石炭燃焼であったため、1951年には降下煤塵量世界一という不名誉な記録を作りますが、煙突の集塵装置の開発と、石炭から石油へのエネルギー切り替えで1960年には煤塵量は激減しました。他の工業地帯で生じた公害喘息もさほど問題にならないままでした。
炭鉱は1967年に閉山しますが、その影響もほとんどなく宇部興産は石油化学工業の多角化をすすめ、タイ、中国、韓国、ブラジル、インド、メキシコにも進出し、2022年には社名をUBE株式会社としました。
日本の大財閥グループ(三菱、三井、住友)とは当然に深い関わりがありますが、相対的に独立した素材生産の大企業としてのユニークな立場を保っています。
地域支配も巧みで、大規模な企業病院と、それを附属病院とする医科大学、のちに大学工学部や工業高校になる学校の創立、大規模な市民館の寄付などで市民生活に浸透してゆきました。
1970年代には典型的な企業城下町が完成し、宇部興産社員の6割が宇部工場勤務、、子会社・関連会社110社・社員8000人含めて宇部市民の5人に一人が宇部興産と関係を持つと言われるようになりました。
宇部興産(UBE)は現在でも、宇部市内の主要な雇用主であり、宇部の財政力を支える重要な企業です。しかし、上記のような国内、国外展開が拡大した結果、かつてのような宇部市一極集中構造は消え、「グローバル展開する製造業の一拠点」に位置づけが変わって来て、地元自治体への影響力も次第に低下しています。
このような、宇部興産の発展に対して、労働者側の運動は、いくつかの例外を除いて1945年まではほぼ完全におさえこまれたままでした。その例外は1918年の炭鉱夫の暴動で、1万人の住民が加わり、最後には日本軍が出動、13人が銃撃されて死亡するというものでした。1917年のロシア革命が遠因になっていると思えますが、自然発生的なものでそれで終わります。その後の荒廃した市民感情を慰撫するために、上記に述べた大きな炭鉱病院が作られ、市民にも開放されます。
第2章 宇部の労働者運動と民医連
労働者の運動が本格化するのは1945年の敗戦からで、労働組合は1946年に結成されます。朝鮮戦争直前に全朝鮮統一促進の山口県決起集会も宇部で開かれています。
労働者側の運動は多岐にわたり、音楽鑑賞、登山・スポーツ、文芸雑誌発行、零細商店の組織など、生活全般に関わる活動が繰り広げられます。
全国的にも1970年代前半には革新自治体が日本の総人口の半数以上に及びます。日本の歴史の中で左派が最も強力であったのはこのころです。
全日本民医連はそれよりだいぶ早く1953年に結成されていますが、宇部でははるかに遅れて1974年に民家を借りた粗末な診療所を発足させたところから始まります。1982年に50床の小病院を建設し、1989年には157床に拡大しています。今、そこにあるのは、2003年に建て替えたものです。今考えると1982年以降は、実に急ピッチで、建設を繰り返したものだったと痛感されます。いつも何かを建設していないでは落ち着かないという気分にみんなが囚われていたと言ってもいいでしょう。
宇部における民医連の出発点においては、医療の届かない貧困層の要求に応えたり、公害と戦わざるをえなかった他県の先行経験と比べると、より政治的に、労働者側の陣地をもう一つ拡大するという意味合いが大きかったと思えます。
またベッドのない診療所から157床の病院+診療所群への僅かな期間での拡大も、貧困や公害という地域の切実な医療要求を発見したというより、1970年代から急速に発展した病院型の医療技術(CT、MRIを筆頭とするそれは「病院の世紀」を生み出します)、それによって引き起こされた大衆の中の医療需要の増大、加えて、戦後憲法の生存権理念の深まり(朝日訴訟)によって崩れず拡大した皆保険制度こそが、全国的な病院の急成長、病床拡大の駆動力でした。
ある時まで、健康保険本人のみならず70歳以上の高齢者の自己負担は無料でした。
しかし、それは1980年代から新自由主義政治が主流になるにつれて崩されていきます。政府によって病床数は規制され、健康保険本人の負担割合も3割になり、高齢者の自己負担も少しづつ拡大されました。
とはいえ、付け加えておかなければならないことがあります。
政治的な動機だけで診療者や病院ができたわけではないのです。その証拠は2点あります。
一つは「いのちの平等」を共通理念にした市民と医療従事者の同盟です。
地元の住民の多数の皆さんは、けっして医療機関の不足に悩んでいたわけではないのに「いのちの平等」を掲げる民医連の理念に賛成してくれて出資金を出し続けてくれました。そこには当時や現在の権威主義的かつ経営主義的な医療への批判が込められていたと思います。
それに応えて、「いのちの平等」の具体化を私達も手探りで進めてきました。
現在の日本の病院では5割のベッドに差額を設定することが許されていますが「差額ベッドのない病院」は最初からの約束でした。
ついで 戦争直後の救貧的な慈善事業である「無料低額診療」を復活させて実施しました。
またマイケル・マーモットやイチロー・カワチの提唱した「健康の社会的決定要因SDH学説」に着目して、公衆衛生学の中にとどまらないで診療現場にその視点を導入することに努力しました。そして「アウトリーチに徹し、これまでの枠組みを超えた支援を実現するソーシャル・ワークとソーシャル・アクション」に挑戦しました。「地域福祉室」という部署や、民医連のない隣の山口市にソーシャル・ワークの拠点となる事務所を作ったことなどがその実践例として挙げられます。この部署や事務所は「いのちの平等」を前進させる、創意あふれる砦になっています。
もう一つは、宇部での民医連建設に決定的だった他県の民医連の支援です。福岡、山梨、北海道、東京は直接、オルガナイザー、医師、歯科医師を長期間派遣してくれました。その御蔭で宇部側からも医師や看護師の長期研修に出せたのです。
ここには全く見返りを求めない民医連の同志的な連帯がありました。それもまた「いのちの平等」を広げたいという純粋な気持ちから発していたものです。
第3章 人口減、経済縮小、気候崩壊時代の地域社会と地域医療
これからは、私たちの現在と将来について述べます。
東京一極集中の中で、地方の人口と経済は次第に急速に縮小しています。
同時に少子高齢化も進み、インフラも社会リソースもなくなり、特に独居高齢者、配偶者あるいは一人の子どもと二人暮らしの孤立・貧困が深まり生活は破綻していきます。
私自身は一旦ピークに達した人口が減るのは自然なことだし、都市の盛衰は歴史の上では何度も繰り返されたことに過ぎないと考えています。自分が住んでいる街だから衰退させてはならないというのは利己的な感傷です。
しかし、問題はそういうことではなく、いくら衰退してもここに住む人、住みたい人は残るし、その人たちが放置されることはあってはならないことです。彼らに最後まで責任を持つことに私達の責任があるのだと考えています。
したがって民医連が、本当に市民の要求に向かい合い、自分の頭で考えた方針に沿って発展するのは実はこれからだと思えます。これから宇部の民医連の本当の歴史が始まります。
その際、決定的になるのは、若い医師や看護師、医療技術者、ソーシャル・ワーカーなどの地域組織者、事務職員の結集とその質の向上です。
民医連を求める社会的な需要は高まっているのに、民医連のメンバーになる青年が集まらないというのが私達の最大の悩みです。
生産人口全体の減少のなかで、ボリュームのあるレベルの高い職員集団をつくり、それを地域の維持・改良に意欲のある市民層(多くは医療生協組合員)と固く結びつけ、同盟を発展させるのは並大抵のことではないと思います。
実は、これまでの世界情勢認識の踏襲では無理だと思います。
この現状を打破するのは、世界情勢認識の大きな転換だと思います。
気候危機、気候崩壊の決定的な局面という認識を導入して初めて、青年層の結集が起こるのではないか、これだけが今の私の希望です。
ここで、個人的な考えを述べると、大学医学部を卒業して50年間地方の小病院で働き、まちづくり、地域の生存環境保全を生涯のテーマにしてきた者として、気候崩壊に至った気候危機の解決はもう無理で、今後自分にできることは、今後拡大する一方の大災害による人口激減地域の被害をいかに少なくするかだけだと思うようになっていました。
それすら一介の町医者の出る幕はなさそうな気がしました。
しかし、日本の経済哲学者 齋藤幸平さんの最近の主張などから学ぶと、「気候危機解決不能」という認識は1%側のグローバル・エリートも共通して持っていて、彼らはそこで自分たちだけが生き残り、さらに富を増やす好機だとみなしているといいます。それに抵抗する勢力は容赦なく抹殺するつもりであることは言うまでもありません。彼らはヨハネの黙示録を身勝手に解釈し、いまこそ自分たちが神に選ばれるときだという信仰さえ強めてわけです。ここで起こることを斎藤さんは「気候ファシズム」「終末ファシズム」と呼んでいます。
だとすれば、気候危機の事後処理だけが自分の仕事と言って済ませておけないというものではないし、ここできちんと「気候ファシズム反対」「1%の人たちによる生存環境独占反対」の旗を立てると若い人が集まってくる展望を持つことができます。
実際には地域の直接参加型民主主義による自治と、地域循環経済・協同組合型の生産による自給体制への接近に尽きると思います。ヨーロッパのミュニシパリズムにも共通する課題です。
付
第4章 戦争と宇部炭鉱 長生炭鉱にもふれて
戦時下の宇部炭鉱の暗黒面の一つは戦争捕虜の虐待です。
日本軍がシンガポールを陥落させたとき、シンガポールにいたイギリス兵の一部は宇部炭鉱で働かされました。総数は分かりませんが虐待により42人が死亡し、敗戦直後 急遽市内の墓地に埋葬して、進駐してくる連合国への体面を整えました。
中国戦線の中国人捕虜のなかで日本国内で使役に回された人は3万9千人と言われています。秋田県花岡鉱山での560人死亡がよく知られていますが、宇部でも100人は死亡しています。遺骨は民間の寺院に放置されていました。その返還が問題になるのは中華人民共和国成立後のことになります。
外国人労働者全体を見ると、1945年時点で1万2千人の朝鮮人労働者、1万4千人の中国人他の捕虜労働者がいたという記述もあります。彼らへの暴行事件は頻発しており、朝鮮人坑夫の逃亡率も21%と高いものでした。
宇部市内東部の長生炭鉱は1914年に始まり、1940年に最後の経営者の手に渡った新興の炭鉱で、海底から坑道までの深さの短い特に危険な炭鉱でした。常時の労働者数は1000人くらいでしたが、他の炭鉱に比べて朝鮮人労働者集めに熱心でした。海岸近くの坑夫小屋に半ば監禁し逃亡を防ぎ、暴行も日常的でした。
1942年2月3日に坑道が崩れて海水が侵入し183人が死亡しましたが、7割136人は朝鮮人でした。犠牲者の遺体は炭鉱内に放置され、1945年には閉山しました。
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