山口民医連会長の野田浩夫です。
韓国社会医療連合会の皆さんを心から歓迎します。
日本の中枢ではなく、どちらかといえば、中枢に支配される辺縁である山口県における、地域の自治を目指す医療運動の実態に触れていただきたいと思います。
医療を良くしようとする運動が、必然的に患者の生活全体を支援し、さらに社会や国家のあり方に関わっていく運動に発展する理由は、皆さんには特に説明の必要もないと思います。
その将来のあり方について、日本の民医連と韓国社会医療連合とは今後も交流を続け、長い時間をかけて相互の理解を深めていくことを期待します。
お話の最初は、山口民医連の活動の主な舞台となっている山口県宇部市という人口15万人の地方都市の歴史と、山口民医連の歴史、そしてそれに基づく今後の展望ということになります。
第1章を「宇部の資本主義」としていますが、宇部の歴史は日本の資本主義の歴史の縮図で、日本の歴史を知るにはよい教材となります。
日本の開国は1860年頃ですが、資本主義が本格的に発達するのは1914年の第一次世界大戦からです。その直前に朝鮮支配をめぐっての清国・ロシアとの戦争、韓国強占(併合)がありました。
その中で宇部は石炭産地として急に人口が増え、人口6000人の小さな海辺の村から1921年には人口4万くらいの産業都市に変貌しました。
石炭は17世紀末には垂直な立坑で家庭用燃料に用いられ、わずかな量が売られていました。
19世紀末には石炭採掘に機械が導入され、炭鉱は斜めの坑道で海底に伸びていきました。海岸の松はすべて伐採され、東西に坑夫の小屋が並ぶ粗末な町ができました。
20世紀に入ると沖に作られた人工の小島が採掘拠点となり、その間を採掘時の土砂が埋め立て、その結果、人工島は地続きとなり、市街地が広がりました。
炭鉱資本家や地主たちは海岸から離れた北の丘陵地帯に大きな屋敷を構えて、彼らと炭鉱労働者は別の世界を生きていました。
その貧富の差は大きく、もし宇部にフリードリヒ・エンゲルスがいれば「日本の労働者階級の状態」という本を書いたかもかもしれません。
宇部の資本主義の特色は、早くも1880年代に地元の炭鉱資本家と地主が結託して、メンバーの重なる政治的結社経済的結社を作って集団指導による支配体制を固めたことです。
これが1897年に組合立の形で大規模炭鉱をスタートさせ、様々な製造業をはじめます。
1914年宇部鉄工所、1923年宇部セメント製造株式会社、1933年宇部窒素工業株式会社(空気中の窒素を石炭燃焼の高温下において、肥料の原料となるアンモニアをハーバー・ボッシュ法で製造)が同じ母体から設立され、1942年にこれらを統合した宇部興産株式会社となります。これが今日まで宇部市を支配する大企業になります。
太平洋戦争中は1945年7月2日に米軍の大規模空襲を受けましたが、被害は市街地に大きく、工場群はまもなく再操業をはじめました。
1950年の朝鮮戦争による戦争景気で1951年に石炭算出はピークとなりました。1951年には降下煤塵量世界一という不名誉な記録を作ります。
その後、石炭から石油へというエネルギー源の転換が起こり、炭鉱は1967年に閉鎖されますが、その影響もほとんどなく宇部興産は石油を原料にする重化学工業企業に変身します。
1955年に石油からナイロンを作る原料のカプロラクタムを製造する工場を作りますが、宇部興産は現在もカプロラクタム供給の最大手です。
石炭から石油へのエネルギー切り替えと集塵装置の開発で1960年には煤塵量は激減しました。他の工業地帯で生じた公害喘息もさほど問題にならないままでした。
宇部興産は日本国内各地や、タイ、中国、韓国、ブラジル、インド、メキシコにも進出し、2022年には社名をUBE株式会社としました。
また、石炭を扱う技術は今でも国内でもトップクラスで、オーストラリア・インドネシアから大量の石炭輸入と販売を行ない、CO2排出に最も大きく寄与している日本の石炭火力発電を支える主役です。
資本から見ると日本の大財閥グループ(三菱、三井、住友)とは当然に深い提携がありますが、相対的に独立した素材生産の中規模財閥としてのユニークな立場を保っています。
地域支配も巧みでした。一例としては大きな企業病院を作り、それを2次大戦中の1944年に附属病院として山口県に寄付することで山口県立の医師養成専門校ができ、後に国立山口大学の医学部になったことが挙げられます。その他、のちに山口大学工学部になる学校の創立、大規模な市民館の寄付などで市民生活に浸透してゆきました。
1970年代には典型的な企業城下町が完成し、宇部興産社員の6割が宇部工場勤務、子会社・関連会社110社・社員8000人含めて宇部市民の5人に一人が宇部興産と関係を持つと言われるようになりました。
宇部興産(UBE)は現在でも、宇部市内の主要な雇用主であり、宇部の財政力を支える重要な企業です。しかし、上記のような国内、国外展開が拡大した結果、かつてのような宇部市一極集中構造は消え、「グローバル展開する製造業の一拠点」に位置づけが変わって来て、地元自治体への影響力も次第に低下しています。
第2章 宇部の労働者運動と民医連
宇部興産の発展に対して、労働者側の運動は、いくつかの例外を除いて1945年まではほぼ完全におさえこまれたままでした。その例外として1918年の炭鉱夫の暴動があります。1万人の住民が加わり、最後には日本軍が出動、炭鉱夫13人が銃撃されて死亡するというものでした。1917年のロシア革命が遠因になっていると思えますが、自然発生的なものですぐに終わります。ただ、その後の荒廃した市民感情を慰撫するために、上記に述べた大きな企業病院が作られ、市民にも開放され、山口大学医学部に変わって行きますから、この騒動が、宇部に近代医療をいち早く導入したということはできます。
労働者の運動が本格化するのは1945年の敗戦の後からです。労働組合は1946年に結成されます。労働者の生活改善運動は多岐にわたり、購買生協や中小・零細企業団体の創立、音楽鑑賞、登山、スポーツ、文芸雑誌発行など生活全般に関わる活動が繰り広げられます。
この労働者の生活を豊かにするという運動は、当時の農村から都市へという人口の大移動で農村コミュニティを失った人々に新しい都市でのコミュニティを提供する意味を持ち、多数の人を組織しました。全国的には、経済急成長に伴う公害反対運動と合流して、1970年代前半には「革新自治体」のもとに住む人の人口が、日本の総人口の半数以上に達します。日本の歴史の中で左派が最も強力であったのはこのころです。
全日本民医連はそういう労働者の運動の大きな波の時代よりだいぶ早く1953年に結成されていますが、宇部でははるかに遅れて1974年に民家を借りた粗末な診療所を発足させたところから始まります。
出発の姿だけは20年前の姿にそっくりでした。民医連はどこでも粗末な小屋のような診療所から始まったのです。
その後、1982年に50床の小病院を建設し、1989年には建て替えで159床に拡大しています。今、見えている病院は、2003年にさらに建て替えたものです。その他2箇所の医科診療所、3箇所の歯科診療所、その他介護施設を建設しました。いずれも立派な本格的な建設です。今考えると1982年以降は、実に急ピッチで、病院と診療所の建設を繰り返したものだったと痛感されます。いつも何かを建設していないでは落ち着かないという気分にみんながいたと言ってもいいでしょう。
宇部における民医連の出発点は、医療の届かない貧困層の要求に応えたり、公害と闘ってきた大都市部の民医連の歴史と比べると、民医連の空白地域をなくす、労働者側の陣地を増やすという、ある意味抽象的、政治的意味合いが大きかったと思えます。
またベッドのない古民家診療所から159床の病院+医科・歯科診療所+介護施設群への僅かな期間での拡大も、全国的に1970年代から急速に近代的な医療機器を備えた病院が拡大し、それによって国民の中に医療需要が呼び起こされたという一般的な情勢によるところが大きかったと思えます。それは健康保険の適用を拡大させ、高齢者の窓口負担がゼロの時代も生み出すものでした。日本の病院の8割が私立病院ですが、強力な健康保険制度のもとで公共的な意味合いを強めました。民医連の病院も私立病院に属しますが、堂々と自らの公共性、平等性を訴えることができました。
しかし、それは1980年代から「福祉国家路線」を敵視する新自由主義によって崩されていきます。病床数は削減方向に向かい、医療費の負担割合も増やされていきました。2000年以降は病院の拡大はなくなり「病院の世紀」も終わります。
とはいえ、そういう外部環境だけが民医連の病院を発展させたわけではありません。わけではないのです。大事なことは2点あります。
一つは「いのちの平等」を共通理念にした市民と医療従事者の同盟が生まれたことです。
宇部の地元の住民の多数の皆さんは、けっして医療機関の不足に悩んでいたわけではないのに「いのちの平等」を掲げる民医連の理念に賛成してくれて出資金を出し続けてくれました。そこには当時や現在の権威主義的かつ経営主義的な医療への批判が込められていたと思います。
それに応えて、「いのちの平等」の具体化を私達も手探りで進めてきました。
現在の日本の病院では5割のベッドに差額を設定することが許されていますが「差額ベッドのない病院」は最初からの約束でした。また、敗戦直後に設けられた救貧的な慈善事業である「無料低額診療」を復活させて実施しました。
さらにマイケル・マーモットやイチロー・カワチの提唱した「健康の社会的決定要因SDH学説」に着目して、診療現場にその視点を導入することに努力しました。病気だけを相手にするのでなく、病気になった原因にも目を向けました。「アウトリーチ」を大事にして、ソーシャル・ワーカーを街の中に向かわせました。に徹し、これまでの枠組みを超えた支援を実現するソーシャル・ワークとソーシャル・アクション」に挑戦しました。地域福祉室」という部署がその典型です。
もう一つは、宇部での民医連建設に決定的だったのは他県の民医連の連帯だったことです。福岡、山梨、北海道、東京は直接、オルガナイザー、医師、歯科医師を長期間派遣してくれました。その御蔭で、宇部に最初の診療所が生まれ、若い医師や看護師が病院建設のための民医連内部で長期に研修することが可能になったのです
見返りを求められることは全くありませんでした。
第3章 人口減、経済縮小、気候崩壊時代の地域社会と地域医療
これからは、私たちの現在と将来について述べます。
東京一極集中の中で、地方の人口と経済は次第に急速に縮小しています。
同時に少子高齢化も進み、インフラも社会関連資源も欠乏し始め、特に独居高齢者やシングルマザー家庭の孤立・貧困が深まっています。
私自身は一旦ピークに達した人口が減るのは自然なことだし、都市の盛衰は歴史の上では何度も繰り返されたことに過ぎないと考えています。自分が住んでいる街だから衰退させてはならないというのは利己的な感傷だと思います
しかし、問題はそういうことではなく、いくら衰退してもここに住む人、住みたい人は残るし、その人たちが放置されることはあってはならないことです。彼らに最後まで責任を持つことに国家や自治体や医療人たる私達の責任があるのだと考えています。
したがって宇部の民医連が、本当に市民の要求に向かい合い、自分の頭で考えた方針に沿って発展するのは実はこれからだと思えます。
これから宇部の民医連の本当の歴史が始まります。
その際、決定的になるのは、若い医師や看護師、医療技術者、ソーシャル・ワーカー、事務職員の量と質です。
民医連を求める社会的な需要は高まる一方なのに、民医連のメンバーになる青年が集まらないというのが私達の最大の悩みです。
生産人口全体の減少のなかで、量と質の揃った職員集団をつくり、それを地域の意欲のある市民層(多くは医療生協組合員)と固く結びつけ、両者間の同盟を発展させるのは並大抵のことではないと思います。
実は、私達の世界情勢の認識が大きく変わらないと、この難しさは突破できないと思っています。
新しい情勢認識は、気候危機を通り越した「気候崩壊」がかならず来る、あるいはもう到達している、もはや引き返すことは不可能だという認識です。そして止むことなく続く大災害にどう立ち向かうのかを共有して、初めて青年層の結集が起こるのではないかと思います。
日本の経済哲学者 齋藤幸平の最近の主張などから学ぶと、「気候危機は解決不能だ」という認識は1%側のグローバル・エリートも共通して持っていて、彼らはそこで自分たちだけが生き残ることは技術の進歩で可能であり、さらにこの自体は富の独占の一層の好機だとみなしているといいます。それに抵抗する勢力は容赦なく抹殺するつもりでいることは言うまでもありません。彼らは聖書の最後にある「ヨハネの黙示録」を身勝手に解釈し、いまこそ自分たちが神に選ばれるときだという信仰さえ強めていりわけです。ここで起こることを斎藤幸平は「気候ファシズム」「終末ファシズム」と呼んでいます。
ここできちんと「気候ファシズム反対」「1%の人たちによる生存環境独占反対」の旗を立てると若い人が集まってくる展望を持つことができると言えます。
実際には地域の参加型民主主義による自治の前進と、地域循環経済・協同組合型の生産による地域自給体制への挑戦に尽きると思います。
ヨーロッパのミュニシパリズムにも共通する課題です。
中枢ではなく辺縁から発信する運動が、国と世界を揺り動かしていくことを期待するのです。
宇部の民医連も、地域に住み続ける人を守りながら、宇部という地方都市を「自治と自給」の典型に育てていく展望を作らなければなりません。
そのためには民医連の組織そのものが、職員と住民が協力する「一つの自治の単位」であることを実現することが必要です。その一例は、スペインのモン・ドラゴンにある労働者協同組合だと思いますが、どこにもモデルを求めず自分の頭で考えて作り出すことこそが、この人類的危機の中では何よりも大切だと思います。
そうではありませんか?
以上で私の話は大体終わりますが、明日みなさんが見学される長生炭鉱跡に関連して「戦争下の宇部炭鉱の外国人」についてごく短く付け足しておきます。 戦時下の宇部炭鉱の暗黒面の一つは戦争捕虜の虐待です。1942年日本軍がシンガポールを陥落させたとき、シンガポールにいたイギリス兵の一部は宇部炭鉱に連れて来られました。総数は分かりませんが虐待により42人が死亡し、敗戦直後 急いで市内の墓地に埋葬して、進駐してくる連合国への体面を整えました。
中国戦線の中国人捕虜のなかで日本国内で使役に回された人は3万9千人と言われています。秋田県花岡鉱山での560人死亡がよく知られていますが、宇部でも100人は死亡しています。遺骨は民間の寺院に放置されていました。その返還が問題になるのは中華人民共和国成立後のことになります。
外国人労働者全体を見ると、1945年時点で1万2千人の朝鮮人労働者、1万4千人の中国人他の捕虜労働者がいたという記述もあります。朝鮮人労働者は捕虜ではありませんでしたが、強制連行されてきた人が多かったと思えます。彼らへの暴行事件は日常茶飯事であり、そのため朝鮮人坑夫の逃亡率も21%と高いものでした。
宇部市内東部の長生炭鉱は、1914年に始まり1940年に最後の経営者の手に渡った新興の炭鉱で、海底から坑道までの深さの短い特に危険な炭鉱でした。常時の労働者数は1000人くらいでしたが、他の炭鉱に比べて朝鮮人労働者集めに熱心でした。朝鮮総督府の役人だったものを炭鉱夫集めにに雇っていまし。海岸近くの坑夫小屋に半ば監禁し逃亡を防ぎ、暴行を加えていました。
1942年2月3日に危険だった坑道が崩れて海水が侵入し183人が死亡しましたが、7割136人は朝鮮人でした。犠牲者の遺体全部が炭鉱内に放置され、1945年には閉山しました。
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