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2025年6月13日 (金)

「ケアの倫理」は「医療の倫理」や「正義の倫理」と対になる言葉だった

いまごろこんな事を言うのはナンなのであるが、「ケアの倫理」は「医療の倫理」や「正義の倫理」と対になる言葉だった。

20世紀後半、「医療の持つ有害性」がイヴァン・イリイチらによって鋭く指摘されたことへの対応として、「医療の質」「医療の安全」が意識され、EBM、疾患別ガイドライン、医療の質インジケーター、病院機能評価、インフォームド・コンセント、(医療消費者としての)患者の権利章典、医療安全委員会などの概念が次次と導入された。医療倫理もその一環である。
20年以上も前に白浜雅司先生に臨床倫理4分割表を教えてもらったことなどを懐かしく思い出すのだが、しかし、これは近代産業としての医療ののなかの話で、やはり医師が主体となり、医師が患者のより良いQOLを発見する手段だった。

その後、社会疫学の影響で医師中心性を脱したとしても、なお人間を「自律し社会参加(社会と契約)する」個人として捉える人間観に立ったものだった。この場合の医療の倫理は「公正としての正義」論である。


しかし、ケアを人間同士の交通として考えれば、別の倫理が存在するというのが「ケアの倫理」の発見だった。一緒に居る、語り合う、触れ合うことを何より大切にして、そこに発生する権力や支配をいかに排除していくかを探ったのだった。それは、人間は相互依存と互助を本質として存在し、単純な個人というものはないという人間観に立っているのである。

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