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2025年6月27日 (金)

今日の健康相談

第4金曜日の午後は、宇部から山口市・「道場門前」商店街の空き店舗利用のコミュニティ・スペースに出かけて、コーヒーを飲みながら健康相談。


10年前、突然の左片麻痺で基幹病院を夜間受診すると、「しっかりしているし、かかりつけがあるのだったら明日そこに相談しなさい」と当直の医者から帰宅を促された。

同様の症状だった友人の話を思い出して粘ったら、MRI検査が始まって、血栓溶解剤投与に行き着いた話。今は麻痺はない。

この話は拡散しなさい、というと、とっくにみんなに話しているとのこと。こういうのは大事だなぁ。


逆に、これまで人に話したことはなかったと、14歳のときの被爆の話を突然聴く。僕と同じ広島県山県郡の出身の人。広島市立第一高女に行っていたと。ここは確か1歳下の13歳は200人以上が全滅していたはず。手帳はもらったが、山口に来てからは被爆者組織とは無縁に生きてきた、ゆだ苑にも行ったことはないということで、ちょっと慌てる。


*下はおそらく同学年の人の手記

https://www.global-peace.go.jp/taikenki/taikenki_syousai.php?gbID=1568&dt=200602232930

突然の真夏の来襲で誰も来ないだろうと思っていたのだが、そんなことはなかった。

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2025年6月24日 (火)

2025.6.25 県連理事会挨拶 

梅雨らしい雨の日が続いていますが、会議参加ご苦労さまです。 

6月13日 イスラエルが突然イランを攻撃し始め、21日にはアメリカが参戦し大規模な空爆を行ない、イランに無条件降伏を迫りました。その後、無条件降伏に等しい停戦にイランが応じて、一応は決着がついたようですが、2022年からのウクライナ、ガザ、イランと続く不条理な侵略戦争拡大に、私自身は立っている足場が失われたような浮動感を覚えます。 

この経過で注目すべきは、イスラエルはもとよりアメリカがもはや国連憲章の条文でこの戦争行為を正当化すらしようとしていないことです。

アメリカは2003年のイラク戦争までは、集団的自衛権によるものだと建前上は言っていましたが、いまは国際法などは存在しないかのように振る舞っています。

これは、第一次、第二次の世界大戦が残した教訓が世の中から消えてしまったことを意味します。その教訓が国連憲章や日本国憲法、国際人権規約などであったわけですが、それを背景に世界の警察官として振る舞っていたアメリカの世界支配、つまりある程度自由で寛容さもあった「覇権」はここで完全に終わったと思えます。 

残っているのは大きな国を中心にした勢力圏の群雄割拠です。勢力圏同士は牽制しあい、勢力圏内部はむき出しの暴力が横行する無法な世界が私達の前に広がっていることを、私達はよく認識しておかなければならないと思います。 

なぜ人類のパールとも言うべき国連憲章をはじめとする国際規範が消えてしまうような世界になるのかということは考えてみないといけません。

戦争の体験者が死に絶え、記憶が薄れたというのが第一でしょうが、もう一つ気候危機による大災害時代の進行の中で、今の富裕層、支配層がその力を永続化させ、生き残ろうとしているということも挙げられると思います。

そこでは資本や貨幣の力でなく暴力が支配の道具です。

そんなことは、人道主義的な規範があればできることではないので、規範から破壊されるのです。

というわけで、今日は三浦房紀山大名誉教授をお迎えして、災害について考えてみたいと思います。大災害時代を、規範を掲げて乗り越える、あるいは、新しい規範を災害対策の中で作り上げるという気概を養いたいと思います。熱心なご参加をお願いして、私の挨拶とします。

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2025年6月21日 (土)

勢力圏思想・構想から抜け出す国際的協力、つまり新しいインターが必要だ

いのちとくらし研究所の総会に出席しながら考えたこと

実際の総会とはリンクしない。

トランプ政治を理解するにはアメリカの国内問題の理解が不可欠だということ。それは少子高齢化・人口減少に直面している日本の類推では不可能だ。移民流入により、この問題はアメリカにはないに等しい。

世界の変化は、資本や利潤を介した間接的支配から、もっとむき出しの、現在の富裕者・支配層の権力の永続化にあるのではないか。それを「封建制」への変化と感じ取る人もいる。

背景には気候変動による人類の生存困難に対する彼らなりの生き残り戦略がある。

アメリカの世界覇権と国内支配政策の矛盾が大きくなり、覇権が消え、勢力圏=ブロックが割拠する状態になる。そのとき、ブロック間はかっての米ソ冷戦・代理戦争のような擬制的な対立が演出されるが、その演出は勢力圏内の支配の強化が本来の目的である。

勢力圏の内外で、強国に従わないものへの一方的な抑圧や侵略は頻発する。

日本の軍事力強化はその一環で、アメリカへの従属の深化にほかならない。

少子高齢化・人口減少に直面するEUはアメリカの勢力圏に留まるか、独自の勢力圏を新たに形成するかまだ見えて来ない。

勢力圏思想・構想から抜け出す国際的協力、つまり新しいインターが必要だ。

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2025年6月19日 (木)

無力であるという自由

ガザ、ウクライナ、イラン。
突然攻撃してきた奴らが「無条件降伏しろ」と喚く。
はぁ、1925年の日本なのか、お前は。
それにしても2025年の日本で誰一人、これらをコントロールできるものはいない。
どんなに優秀で、複雑な国際情勢を立板に水で語れる人も何もできない。TVの前で怒りを抑えられない僕は輪をかけて無力だ。
視点を変えて、
こういう状態に無限の自由を感じる人がいることを、白石正明「ケアと編集」(岩波新書)で知る。
それでいいのだ。本当に大事なことの前では、誰も無力で自由なのだ。
そこから始めていく。

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2025年6月13日 (金)

「ケアの倫理」は「医療の倫理」や「正義の倫理」と対になる言葉だった

いまごろこんな事を言うのはナンなのであるが、「ケアの倫理」は「医療の倫理」や「正義の倫理」と対になる言葉だった。

20世紀後半、「医療の持つ有害性」がイヴァン・イリイチらによって鋭く指摘されたことへの対応として、「医療の質」「医療の安全」が意識され、EBM、疾患別ガイドライン、医療の質インジケーター、病院機能評価、インフォームド・コンセント、(医療消費者としての)患者の権利章典、医療安全委員会などの概念が次次と導入された。医療倫理もその一環である。
20年以上も前に白浜雅司先生に臨床倫理4分割表を教えてもらったことなどを懐かしく思い出すのだが、しかし、これは近代産業としての医療ののなかの話で、やはり医師が主体となり、医師が患者のより良いQOLを発見する手段だった。

その後、社会疫学の影響で医師中心性を脱したとしても、なお人間を「自律し社会参加(社会と契約)する」個人として捉える人間観に立ったものだった。この場合の医療の倫理は「公正としての正義」論である。


しかし、ケアを人間同士の交通として考えれば、別の倫理が存在するというのが「ケアの倫理」の発見だった。一緒に居る、語り合う、触れ合うことを何より大切にして、そこに発生する権力や支配をいかに排除していくかを探ったのだった。それは、人間は相互依存と互助を本質として存在し、単純な個人というものはないという人間観に立っているのである。

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「ケアの倫理」の位置づけ

整理してみると、医療介護をめぐっては三つの倫理形態があると言える。
産業としての医療介護の「臨床倫理」
政治の一環である医療介護の「公正・正義の倫理」
人間の交流としての医療介護の「ケアの倫理」
この三つは柄谷行人がよく使う資本・国家・ネーションに対応していると言ってよい。
こう位置付けると、やや座りの悪い「ケアの倫理」ががぜん分かりやすくなる気がする。
いずれも、そこに発生する権力や支配に抵抗することに本質がある。

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2025年6月 5日 (木)

民医連におけるカンファレンスの分類

野田耕世君の提唱を参考に

民医連におけるカンファレンスの分類を試みた。
もちろん整然と分けられるものではないが

1:「近代医療は結局有害物だったのではないか?」という問いに対するカンファレンス
(つまり医療の質と安全)
 ー①疾患中心の病態/臨床倫理(その場限りの意思決定)のカンファレンス
 ー②アクシデント・インシデントカンファレンス

2:「近代医療からは、『人』への関心が脱落していないか?」という問いに対するカンファレンス
(つまり患者の長い人生/幸福への関わり=患者中心性の拡張)

  ー③「ケアの倫理」カンファレンス

3:「近代医療には、健康を破壊/生産する社会的要因への視点がないのではないか」という問いに対するカンファレンス
(つまりSDH)
 ー④ソーシャルワークカンファレンス

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2025年6月 2日 (月)

遅咲きの花

「せっかく治した患者を、その病気の原因になった家にそのまま帰すなんてどうかしているよ」というSDHの原点となったセリフを説明したくてマイケル・マーモット『健康格差』(日本評論社2015年)の序章を読み直したが、つくづく訳が拙すぎる。

マーモットさんの文章の面白さをことごとく消している。

その例はいくらでも挙げられる。
たとえば、どの民族も健康に一番悪い飲み物を飲みながら「君の健康に!」と言って乾杯する、英国人も「Here's looking at you, kid.」(映画訳なら「君の瞳に乾杯」)なんて洒落たことを言わないときは「Good Health」だ、という話。
これが映画『カサブランカ』のセリフだと全く考えていない訳し方になっている。
有名な公衆衛生学者ロバート・カラセックが、マーモットの1970年の論文を適当にアレンジして卵のパックのなかに入れられていた宣伝パンフを読んで、職業性ストレス学説を思いつく場面も、原文は「エウレカ!」(ーアルキメデス)と書いてあるのに、平凡に「大発見だ」と訳している。

10年目の後悔、先に立たずだが、10年前はあまりにものを知らなった。

つくづく自分が遅咲きの花だと思う、しかも大輪の。

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