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2025年5月27日 (火)

2025.5.28 県連理事会挨拶

1日の寒暖差が大きい日が続いて、体調を崩しがちな5月になりましたが、720日あたりに予想される参議院選挙を控えて、米問題ほかの政策関連の動きが慌ただしくなってきました。この機会に私達も政治に何を望み、どう行動するか改めて考える機会にしたいと思います。いってみれば山口民医連としての「政策活動」に取り組もうという話かと思います。

それに関連しますが、523日に医療生協の山口市事務所主催で山口県からの出前講座「第8次山口県保健医療計画」の説明会を開きました。

5疾病と6事業および在宅医療」に重点を置いた施策が並べられており、事業については新型コロナの経験を踏まえて「新興感染症医療」が新たな重点事業に加えられています。

それらを実際に担う医療従事者として、一見無味乾燥な各項目を具体的に検討

する責任が自分たちにあるなと思って聞きました。

例えば新型コロナで療養病棟や高齢者施設がほとんど荒野に放り出されたような孤立無援の状況になったことが計画にどう反映しているかと思って読むと、それはまったくないのです。

 そのほかの従来課題においても、健康の社会的決定要因SDHの視点はほとんど見られません。

そもそも医療政策を論じるとき、ぜひ思い出してほしいのは、マイケル・マーモット『健康格差 不平等な世界への挑戦』(日本評論社)の冒頭です。資料として添付しましたが、

「せっかく治療した患者を、なぜ病気の原因となった環境に戻してしまうのか」

という言葉からそれは始まります。

その場しのぎの、当面を糊塗するだけの医療になってはいけない、病気の社会的要因には医療の現場からこそ手を伸ばせとマーモットさんが言っていると私は読みます

困難を抱える人が集中する医療機関にこそ貧困・格差に専門的に関わる部署を設置しなくてならないのです。実は医療生協健文会の地域福祉室「メロス」はそのために開設したのですが、これはすべての病院に適用されなければならないことではないでしょうか。各病院がそのために雇用するソーシャルワーカーの人件費を助成するくらいの大胆な気概が県には望ましいと思います。
 
それから、医療機関や医師のの配置についてもグランドデザインが必要だと思います。
基幹大病院の医師集積を強めれば大都市部の大病院との競争にも勝って山口県を去る若手医師を県内に引き止められるというのは、失敗することが試され済みの愚策です。
どうしたら山口県の医療に魅力を感じる若手医師を増やせるかというと、公的・民間の別を問わない、ヒューマンで個性に富んだ中小病院の強化以外にありません。美祢市立病院が一定の家庭医を備えて「コミュニティ・ホスピタル」を目指すとしていますが、これを例外にすることなく、いろんな中小病院が公共性を高めて活躍できるような政策を立てれば、救急医療も潤滑さが復活します。先日の「山口県医師会 勤務医部会報」の座談会では、大病院で救急医療にあたっている医師が疲弊のあまり、救急車利用を有料制にしたい、有料かどうかは自分たちに判断を任せてほしいとまで言っていますが、そうした意識の後退もなくなります。

実は中小病院の活性化は県の産業戦略としても大きな幹になるはずのものです。いろんな市町で比較的最近制定「中小企業振興基本条例」というものが制定され、自立した地域経済づくりの大方針になっていますが、それを実現する手がかりがここにあるといってよいと思います。
南海トラフ地震での山口県の被害は、私たちがいま漠然と思っているものより、遥かに激甚なものになると実は予想されています。これは来月の宇部学で正面か学ぶ予定ですが、そのときも中小病院が復興の柱となるはずです。
災害からの復興策としてBCP(災害時の事業継続計画)がありますが、単一の病院だけで策定しても無意味で、面として、つまり中小病院同士、中小病院と大病院、中小病院と開業医群との連携として構想しなければならないと思います。
以上、今年の最も重要な政治的局面を直前にしての挨拶といたします。熱心なご論議をよろしくお願いします。

 

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2025年5月26日 (月)

(「僕は希望を持たない」ということを、とても下手な戦後詩風に書いてみよう)

救済は向こうから不連続にやって来る。戦前を生きていた人に9条や人権がやってきたときのように。
いま目の前で踏みにじられ縊られても、それらはもう一度やってくる。新たな戦後に、新たな災害後に。
そして更に予想もつかない新たな戦後に、新たな災害後に。
とはいえ望む人がいなければ、そのような繰り返しもない、のっぺらぼうの歴史。

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ローカル政治新聞への寄稿

5月23日の朝は藤津章智さんの死亡を知ることから始まった。新卒で就職した医療生協を退職して日置町の町会議員に当選、晩年の長期療養期間の一部では僕が主治医となった。『山口民報』を病床で編集していた姿を思い出しても寂しい。

 午後は、診療を休んで医療生協の山口市事務所に行き、山口県からの出前講座「第8次山口県保健医療計画」の説明を聞いた。思ったのは、「保健医療計画」も大目的は県民の幸福のためにあり、国の方針の具体化に終始してはならないということだった。面積にして県の6割に及ぶ僻地も、県人口の8割以上が住む瀬戸内側の工場地帯も区別なく進行する貧困と格差こそが県民の幸福と健康を破壊する最大の元凶なのだから、それに対決しない「計画」はありない。

 ならば、困難を抱える人の集中する医療機関にこそ積極的に貧困・格差に専門的に関わる部署を設置するのがいい。実は医療生協の地域福祉室「メロス」はそのために開設したのだった。それにならって多くの病院が福祉部門を備えれば状況は大きく変わるはずである。各病院が雇用するソーシャルワーカーの人件費を助成するくらいの大胆な気概が県には望ましい。

 そのさい、病院群全体への県の支援デザインが重要である。今はやはり基幹大病院への支援が突出している。地域枠で採用する医学生の卒後の勤務先も僻地診療所を除けば、それら公的大病院に限られている。公的病院の中には病院家庭医療や慢性期医療を特徴にし始めた中小病院もあるが、例外に過ぎない。県内の基幹大病院への医師集積を強めれば大都市部の大病院との競争にも勝って山口県を去る若手医師を県内に引き止められるという意図だろうが、それは成功して来なかったし今後も可能性は低い。

 どうしたら山口県の医療に魅力を感じる若手医師を増やせるかというと、公的・民間の別を問わない、ヒューマンで個性に富んだ中小病院の強化以外にない。多数の中小病院が公共性を強め、公的大病院と同等の支援を受ければ、救急医療も潤滑さが復活する。救急車利用を有料制にしたいと思うまでに至っている大病院救急医の疲弊も消える。県の決意次第だ。

 実は中小病院の支援は産業戦略として普遍的なものである。いろんな市町で比較的最近制定された「中小企業振興基本条例」は自立した地域経済づくりの大黒柱であるが、中小病院支援こそその主要な一環であり、その実現の鍵でもある。 ローカル政治新聞への寄稿

5月23日の朝は藤津章智さんの死亡を知ることから始まった。新卒で就職した医療生協を退職して日置町の町会議員に当選、晩年の長期療養期間の一部では僕が主治医となった。『山口民報』を病床で編集していた姿を思い出しても寂しい。

 午後は、診療を休んで医療生協の山口市事務所に行き、山口県からの出前講座「第8次山口県保健医療計画」の説明を聞いた。思ったのは、「保健医療計画」も大目的は県民の幸福のためにあり、国の方針の具体化に終始してはならないということだった。面積にして県の6割に及ぶ僻地も、県人口の8割以上が住む瀬戸内側の工場地帯も区別なく進行する貧困と格差こそが県民の幸福と健康を破壊する最大の元凶なのだから、それに対決しない「計画」はありない。

 ならば、困難を抱える人の集中する医療機関にこそ積極的に貧困・格差に専門的に関わる部署を設置するのがいい。実は医療生協の地域福祉室「メロス」はそのために開設したのだった。それにならって多くの病院が福祉部門を備えれば状況は大きく変わるはずである。各病院が雇用するソーシャルワーカーの人件費を助成するくらいの大胆な気概が県には望ましい。

 そのさい、病院群全体への県の支援デザインが重要である。今はやはり基幹大病院への支援が突出している。地域枠で採用する医学生の卒後の勤務先も僻地診療所を除けば、それら公的大病院に限られている。公的病院の中には病院家庭医療や慢性期医療を特徴にし始めた中小病院もあるが、例外に過ぎない。県内の基幹大病院への医師集積を強めれば大都市部の大病院との競争にも勝って山口県を去る若手医師を県内に引き止められるという意図だろうが、それは成功して来なかったし今後も可能性は低い。

 どうしたら山口県の医療に魅力を感じる若手医師を増やせるかというと、公的・民間の別を問わない、ヒューマンで個性に富んだ中小病院の強化以外にない。多数の中小病院が公共性を強め、公的大病院と同等の支援を受ければ、救急医療も潤滑さが復活する。救急車利用を有料制にしたいと思うまでに至っている大病院救急医の疲弊も消える。県の決意次第だ。

 実は中小病院の支援は産業戦略として普遍的なものである。いろんな市町で比較的最近制定された「中小企業振興基本条例」は自立した地域経済づくりの大黒柱であるが、中小病院支援こそその主要な一環であり、その実現の鍵でもある。 
 実は中小病院の支援は産業戦略として普遍的なものである。いろんな市町で比較的最近制定された「中小企業振興基本条例」は自立した地域経済づくりの大黒柱であるが、中小病院支援こそその主要な一環であり、その実現の鍵でもある。

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2025年5月23日 (金)

今日ー藤津章智市の死去と 山口県保健医療計画

今日は、大学卒業後に僕らの医療生協に就職し、退職して(安倍晋三氏の実家のある)日置町の町会議員になり、ずっと後には僕が彼の担当医を務めた長期療養時期もある藤津章智さんが、僕より10歳も若く亡くなったというのをFBで知ることから始まった。亡くなった病院に転院するための紹介状を書いたのも僕である。


僕が定期的に寄稿している『山口民報』を病床上で編集していた姿を思い出す。今月の締切が迫っているが、彼が編集してくれることはないと思うと、何を書こうかと思う。


午後は、医療生協の山口市事務所に行き、山口県からの出前講座として「第8次山口県保健医療計画」の概要を講義してもらう。

山口市事務所から見ると定期開催の「山口学」の一環である。


そこで思ったのは、「保健医療計画」と言っても、大目的は県民の幸福のためにあるのであって、「予防と医療」にとどまってはいられないということである。貧困と格差こそ健康破壊の最大の元凶なのだから、それと戦うことなしに県民の健康と幸福は獲得できないのである。

そのためには医療側に積極的に福祉に関わるセクションを実装する必要がある。


実は地域福祉室「メロス」設置はそれを示すための壮大な構想だった。


つまりは、多くの病院が、医療+保健(予防)に携わるだけでなく、貧困・格差との戦いの先頭に立つ福祉セクションを設置すると県民の安心が質的に変わるので、県はそれに援助を惜しんではならないことを示したかった。

例えば、各病院の雇用するソーシャルワーカーの人件費は助成するくらいの気概が望ましい。


そのさい、つくづく思うのは、県がどのように病院に支援を振り向けるかという戦略的課題である。


いまはやはり高度急性期を担う大病院への支援が突出している。地域枠で優遇する医学生の卒後の勤務先も公的病院に限られている。公的病院の中には美祢市立病院のような病院家庭医療を特徴にし始めた中小病院や僻地診療所も含まれているが、それは例外に過ぎない。

多くの人が考えるのは、大病院への医師集積を強めれば病院の競争力・医師吸引力もついて、山口県を去る傾向の顕著な若手医師を県内に引き止められるということだろうが、結局は大都市部の急性期大病院に勝てるわけがないので、残念な傾向は変えられない。


ではどうしたら山口県の医療の全体像に魅力を感じる若手医師を増やせるかというと、ヒューマンで個性に富んだ中小病院を育てることである。地域福祉室「メロス」が「自ら壁や限界を作らない住民支援」をしている宇部協立病院をその先駆けの一つと思ってほしい。


いまひたすら落日の途上にある中小病院が再び強くなれば、救急医療も潤滑さを取りもどす。疲弊のあまり「救急車、救急室利用」を自分たちの判断による有料制にしたいと考える大病院勤務医の気持ちも変わるはずである。

県は思い切ってそこを支援する必要がある。


そのためには山口県独自に「公的病院」の枠を広げつつ、意図的に中小病院の公共的な性格を高めて、それを積極的に「公的病院」に取り込み、若手医師配置の対象とするのがいい。公共的な性格の強い医療生協立の健文会の病院診療所はその時真っ先に上がる対象である。


中小病院の支援に格段の力を注ぐというスタイルは実は、県の戦略として普遍的なものである。


いろんな市町で比較的最近制定された「中小企業振興基本条例」は知る人は少ないかもしれないが、自立した地域経済づくりの大黒柱である。

中小病院振興はその主要な一環であり、次に制定されるべき「生活保障基本条例」を生んでいくものでもある。


以上のことを理解してもらえれば、深刻な貧困・格差と気候危機に直面している山口県において、先進的に「ケアの倫理」に貫かれた地方自治・住民自治を作って行く第一歩は、心の通う・個性ある中小病院育成にあることが見えてくるのではないかと思う。


そういうことを、1時間半考えた山口市事務所企画となった。


もちろん、病院に帰ってくると、留守の間に思いがけないことが生じていて、先程までその処理に追われるというおまけのあったのであるが。

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2025年5月20日 (火)

「資本論」への向かいあい方

一昨日の新聞に ある政党の党首が若い人向けにマルクス「資本論」の解説をしたという記事が大きく載っていた。
しかし資本主義の根本的な矛盾をどう規定するかについて前党首が熱心にエンゲルスの誤りを指摘していたことなどなかったかのような話になっている。
これについて誰も何も言わないのだろうか。
もちろん、前党首のアプローチが正しかったのかどうかはまた別問題である。そもそも誰か一人が決めてしまうという問題ではない。
しかし、本当に重大な気候危機、晩年のマルクスが資本論の完成も放置して取り組んだ課題については、あれこれの一つに挙げられているにおわっている。これは「資本論」への向き合い方としてもだめな部類だろう。

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非営利・協同 の将来

非営利・協同総合研究所「いのちとくらし」の理事会にリモート参加して思ったこと。
いま必要なのは、一般的な非営利・協同論を高齢の自分たちが素人研究して外部に普及することではなく、外部の社会科学専門の若手研究者が民医連をフィールドにし、民医連運動の持つ具体的な非営利・協同の可能性を明らかにするよう誘導すること、研究所がそれを意識的に組織することである。
それができれば、民医連の若い職員は争って研究所会報を読むだろう。
というのは、運動や研究などを通じて自ら外部に示す民医連の存在意義は文句なく明らかで、他の医療機関よりもずっとずっと複雑なケースをたくさん引き受け、チームで解決を図っている、それにもかかわらず、内部に目を向けた途端、それらは過去の遺産というにすぎず、現在を支配するものは圧倒的な医師その他の後継者不足と、それを直視しない惰性的な管理の横行でしかないという現実があるからである。
そういう時は、外部の研究者の民医連内部のリサーチから、われわれがヒントを得ることが必要だろう。
それはつまり、
民医連が自分を鏡で見る
ということである。
研究所がその鏡の役割をいま果たさないと民医連はご大層な存在意義を抱えながら終焉を迎えるということになるのではないか。
それは医療人類学でも、介護民俗学でもいいのだ。民医連職員が見る職場の幽霊の話の収集でもいい。
エッセンシャル・ワーカーの自画像を手にした時、民医連の再定義が動き始める。

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2025年5月13日 (火)

知事の2類型

雑誌「世界」5月号で、元鳥取県知事 片山善博さんが、兵庫県の斎藤知事について書いている。

呆れるのを通し越して哀れみと痛々しさする感じさせる所まで来ているが、最初の段階で公益通報だとして第三者委員会を設置して調査を委ねていたら、10件くらいのパワハラは認定されたとしても、そこで真摯な謝罪を行っておけば、違法とされたり、議会から不信任されるというところまでは行かなかったのではないか。贈答品をやたら欲しがったのは確かでも、社交儀礼を大幅に超えるものではなかった。

なるほどそういう整理もあるかと思ったが、二人の知事を比べると、知事には2類型あるなと思った。
県職員をピラミッド型に率いて、つまり県職員を自らの忠実な道具として、権威的に・自己顕示的に自らの目標を追求するのが一方である。
他方は、県職員を、それぞれが自己実現を目指す個人の集合であるとして尊重すると同時に、県知事の支援によって県民の幸福のリソースとして力を引き出されるものと考える。
その姿勢の違いは県民に向かい合うときも同様な違いを見せるだろう。

そこまで考えて、さてと、自分がある組織の理事長だった16年を振り返る。職員を個人として尊重し、その力を十二分に引き出して、その結果として成果を出すということよりも、「方針」と称する号令を振りかざして「前進しよう」と叫ぶばかりだったなと思う。

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2025年5月 9日 (金)

北九州市八幡西区の吉祥寺の藤棚

30歳になるかならないの頃、北九州市八幡西区の吉祥寺の藤棚を見に行った記憶が鮮烈である。

寺の庭を覆い尽くすような藤棚の下は暗く、吊るされた何個かの電球で花が照らされている様子は時間を忘れるほどだった。

今年、ふと思い出して訪ねてみると、45年の歳月は恐ろしいもので、樹勢は弱まり、印象とは遠くかけ離れたものになっていた。もう庭が明るい。

しかし、地元の町の「藤祭り」は盛大になり、露店もたくさんあり、警備の人も汗だくだった。

実態はもはや輝きを失っているのに、もてはやす声だけが大きくなるのは、色んな場面で目にする光景ではある。









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