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2025年4月30日 (水)

「福祉都市圏連邦オブ日本」UWJ

定常型経済、脱成長コミュニズムなど、従来の生産力増大、経済成長至上主義からの脱却を目指すものに、鶴見和子、内橋克人、保母武彦らの唱えた「内発的発展論」も加えられることに気づいた。
それに関連して、宇部市はもとより北九州市などの企業城下町において、かっての繁華な中心地区の衰退が著しいが、それはむしろ当然だし、圧倒的な「城主」の不在はある意味歓迎すべきもので、そこからケア中心の福祉都市圏が始まる出発点としたほうがいいのだろう、ということを考えた。
国のあり方も、中央政府の支配が地方自治体に行き渡る今の形より、福祉都市圏の連邦制になったらいいように思う。そうなれば国名も「福祉都市圏連邦オブ日本」UWJか、単なる「福祉連邦」にして日本という由来不明の名称を消してしまうことも可能である。
思ったらそうなるものではないが、理想形が明瞭なほど、運動が持続するだろう。

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2025年4月25日 (金)

当面する変革の主体の発見

4月24日はは「働くもののいのちと健康を守る山口センター」の会議に出たが、労働組合の組織率低下を反映して意気上がらないこと甚だしい。
この組織が存在し続けることはもちろん大切だが、地方でエッセンシャル・ワーカーを広く組織することは、そのまま脱成長型社会を作ることと同じなので、切り口を変えて大攻勢に出ることは可能なのではないか。







労働者階級が社会主義革命を担うように、脱成長型社会への変革は、歴史的使命としてエッセンシャル・ワーカーの肩にかかっている。
ようやく当面する変革の主体を発見した。








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2025年4月23日 (水)

2025.4.23県連理事会あいさつ

桜も散って新緑の季節になりました。

常盤通りのハナミズキもきれいに咲いているのだろうと病院の中から想像しているところです。しかし、一青窈の「ハナミズキ」という歌の歌詞は謎です。2001年の同時多発テロのなかで死んでいく人が恋人か子どもの幸せを願ったものとされているようですが。

そういう季節なので、今日は3点だけ、もっと大きな志を持って前進しようというお話をさせてもらおうと思います。

 

第一は、このあとすぐ、祝島の清水町会議員に、原発・核燃料中間貯蔵施設計画をめぐる現地上関町の模様を話していただくことに関連します。

中間貯蔵施設を巡っては、今年2月の田布施町議会選挙で反対派議員が半数を占め3月には誘致反対決議を挙げたことが大ニュースでした。

これについては今日特別参加していただいた、宇部市の環境活動家 安藤公門さんから教えられたことなのですが、私たちとしては、それを喜ぶだけで、結局は田布施町を孤立させていいのかということが大事と思います。

 

原発・中間貯蔵施設の予定地である長島、そしてその正面にある祝島も宇部から見えるところにあるのです。田布施町の出来事を喜んで、足元の宇部市議会が全く動かない、動かないどころか、夫婦別姓にはいち早く反対決議を挙げるられてしまうという状態にみんな平気なのかということです。僕ら自身が大きな志を持つことが大事です。

 

2点目は、いま全国で県単位に検討が進められている「地域医療構想」についての私達の態度です。ネットを検索すると各県の審議の模様がよくわかりますが、どの県でも共通しているのは「2040年には就業者数が大きく減少する中で、医療・福祉職種の人材は現在より多く必要となる」ということです。

これがすごく難問になっているように見えますが、就業者数の多くを医療福祉に向かわせれば簡単に解決することではないですか。むしろ、そのチャンスだと捉えられませんか。

 

全日本民医連が今年2月に80/80パンフというのを作りました。各県の地域医療構想の根っこには、医師はすでに過剰になっており、問題は偏在をどうか解決するかだけだという政府の情勢認識があります。

しかし、それは病院勤務医の月の残業時間は80時間、開業医の引退は80歳という2つの80があるということを鋭く指摘しているパンフです。そんな状態の医師に診てもらおうという患者や国民がどこにいるかと問いただしたいと思います。

 

医師を増やすということは、ただ医師の労働条件改善の問題ではなく、医療・介護・保育・教育、交通、住宅、食糧生産など人間のケアを中心にする社会構造にしていくかどうかの別れ目を問う大問題なのです。そういう意味では診療報酬改定もケア中心の社会への歩みの一歩です。

山口県医師会勤務医部会の「勤務医ニュース」2025年3月号には「救急医療の医師の負担軽減について」という生々しい座談会が載っています。

これも全部を資料として添付しています。

基幹の大病院からの出席で、中小病院は無視されているとは言え、それなりにリアルな悩みが述べられていま。この悩みも思い切った医師増員でしか解決できないと思います。

 

3点目は、僕ら自身の仲間作りです。

それには医学生、医療系学生対策と将来の職場作りを一体化して考えることが今こそ必要だと申し上げておきます。

一人一人が職場作りの目標を持ったとき、初めて学生にも職場を見せ共に働くことを語る事ができるのではないでしょうか。

それを推進する仕組みを作りたいと思います。入り口は小さく「医系学生実習実行委員会」として提案します。病院の何を見せるかを考えることが、実は病院を変えることになるのを狙います。

数年前、入り口を大きく構えて「未来構想会議」として作ってうまく行かなかった経験もあるのですが、今年は形を変えて改めて再挑戦したいとき思います。

資料につけたのは、美祢市立病院の下川先生の投稿です。地域に密着したコミュニティ・ホスピタルについては私たちも相当以前から意識していましたが、病院の方針としては美祢市立病院の後塵を拝することになりました。こういう言語化が職場作りの方向も決めるし医系学生実習のあり方も一変するのではないでしょうか。

 

以上で挨拶を終わります。

今月も熱心なご議論をお願いします。

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2025年4月21日 (月)

ローカル政治新聞への寄稿

ローカル政治新聞への寄稿

今日は人口に膾炙する3つの数字について触れたい。8020,8050、8080である。それぞれハチ・マル・二イ・マル、ハチ・マル・ゴォ・マル、ハチ・マル・ハチ・マルと読む。なんとなく旧日本軍や自衛隊の時刻の呼び方に似ているのが気になるが。

「8020運動」は1989年に厚生省と日本歯科医師会が始めたもので、80歳になっても永久歯32本のうち20本が残る人を50%にしようというものだった。運動開始時は達成率わずかに7%だったのが、2022年には51.6%になり、次の目標が80%となると同時に、口腔機能の老化オーラル・フレイル防止が次の課題に浮上してきたという成功談である。しかし、最新の雑誌「月刊保団連」2025年4月号の特集は「追い詰められる歯科医師たち」となっている。相次ぐ診療報酬改悪で保険診療の枠内では必要な最低限の歯科医療が不可能となっているのだ。輝く8020の将来は実は暗いのである。

「8050問題」も深刻である。80代の親が50代の子どもの生活を支える状況を言う言葉だが、1980年代以降の青年の孤立、精神状態の危機、雇用の悪化、低賃金の蔓延、介護保険と年金制度の後退など、日本の社会保障の困難が全てここに流れ込んでいる。医療生協健文会の地域福祉室「メロス」が日々苦闘している事案の多くがこれに関連する。その意味ではこの言葉は表面的で軽すぎる気がする。

 最後の「8080前提」は大半の人が知らないだろう。「前提」をくっつけたのが僕のとっさの命名だからである。厚生労働省は2029年以降に医師が過剰になるとして、今後の医師数削減を計画し、問題は「医師の偏在」のみとしている。そして、この政策における前提こそ、病院勤務医の「月80時間の時間外労働」と、開業医80歳引退なのである。つまり、これが「8080前提」なのである。どこにそんな医師によるケアを望む患者・国民がいるのかを訊きたい。
 思うに、医師数の飛躍的充足は医師の労働条件だけの問題ではない。実は人類の切迫した未来にかかることだ。医療・介護・保育などのケアをはじめとして、教育、交通、住宅、食糧生産などが、単位となる地域経済の主力に位置づけられる時代こそ「資本主義の次に来る世界」(ジェイソン・ヒッケル)そのものなのではないか。そしてその実現はゆっくり待ってはいられない。到来が必至の大災害時代に間に合わせなければならない火急のことなのである。

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2025年4月17日 (木)

不幸の人として

自分を客観的に見ると、いろいろ不利・不運なことが重なっている。
大学を卒業してゆっくり取ろうと思っていた運転免許が、仕事をうまく休めなくて、ついに取得しないままになり、公共交通の不備な地方生活にあっては致命的に近い弱点になっているのもその一つである。これでは緊急時に駆けつけたり、とっさに誰かを病院にも運べない。
また、色々機能の落ちる高齢になってまでレギュラーメンバーとしてフルに働かなければならない状況に置かれていることも自他共に良いこととは言えない。
しかし、それらは一番軽いレベルで、その他に深く打ちひしがれることも多いのである。

それらを当然あるべきととして受け入れ、もとより迷いが多くて不完全な人生だと思いなしてみると、急に落ち着いてくる。
高い完成度、高い到達点などははなから縁のない環境だったのである。
目の前の患者や同僚職員からの評価を気にして、焦ることもしないことにした。弱点の多い医師に関わった彼らの不運と思ってもらうほかはないというべきである。それでも致命的な結果には大半なっていないのだからそれで良しと言うものだろう。

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玉手慎太郎:他者から逃れるための自由か、他者とともにあるための自由か

今朝のNHKーBS ワールドニュースのトップ記事はこれだった。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20250417/k10014781531000.html
雑誌『現代思想』3月号の玉手慎太郎のロールズとノージックの比較の論考から考えると、トランス女性については、外部である女性への離脱でなく、男性の中の正義・公正の問題として議論されるべきである。

玉手慎太郎 「ロールズとノージックの対立 他者から逃れるための自由か、他者とともにあるための自由か」によると
今いる場所から離脱して新天地を開拓する自由をリバリタニアリズムや新自由主義は絶対視するが、離脱する先がどこにあるのかと、ロールズは考えていたに違いない。新天地アメリカ、新天地西部と言っても、そこには先住民が住み、そこを「新天地」にするのは彼らを絶滅させる以外にはなかったのである。それが新自由主義の言う自由だったなかで、ロールズはそういう自由を検討の対象に含まなかった

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2025年4月11日 (金)

民主主義の起源

中学生の時、奴隷制の上に立つギリシャの民主主義は民主主義とは言えないのではないかと質問したことがあるが、歴史の先生は、今の価値観で古代を裁断することはできないとはなから相手にしてくれなかった。

いまは違うらしい。女性の地位が低く、奴隷制が土台にあったギリシャの男性貴族間の民主主義を民主主義とは認めず、とうぜん民主主義の起源とも考えない立場が台頭している。

民主主義の非西洋的起源というのがその主張の名前である。

そして、それは新たな起源を別の地点に定めるというのではなく、相互に交流し合う中で何が生まれてきたかを明らかにしようとする。
アメリカ先住民と入植ヨーロッパ人との交流の中で、「アメリカ人」が出来上がっていったというふうに。




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深夜の遭遇

深夜に自転車で帰宅していると、数メートル先の歩道の暗い中に何かが平べったく蹲(うず)くまっている。
車道ではねられた動物が置かれていたら嫌だなぁと迂回するように横を通り過ぎるとうつ伏せに寝ている小柄な女性だった。中学生に見えた。驚いて声が出る。通り過ぎて自転車を降り、少し遠くから声をかけると「うっ」と唸る。声をかけるたびに「うっ」というだけ。
近づきライトを当ててみると中学生ではなく成人だった。寒の戻りで寒く、震えている。「どこに行く途中ですか」と訊くと「あの世」というのが聞こえた。外傷はない。
警察に電話すると警官が着くまで一緒にいてくれという。
まもなく2台パトカーが来て数人の警官が降りる。一人は顔なじみだったようだ。「なんでここに」と言っている。
そこまで付き合って帰宅した。
その後の問い合わせもなく事件にはならなかったようだが、深夜の国道沿いの歩道は怖いものである。

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年越し、花見、入院

まだ十円硬貨を積み上げて公衆電話で長い話をしていた頃の年末、坂道を自転車で登っていると、坂の中ほどにある商店の一角にある公衆電話で話している人の話が聞こえてきた。
「今年も正月がなんとか迎えられた。ゴマメも炊くことができたんよ。安心して」と言っているのは60歳代と思える女性だった。十円玉がなくなって、女性は、店先から奥の小路に消えた。
その電話をそばで聞いてしまうと、年末の風景が急に奥行きが深くなった気がした。

4.6の日曜の夕方、自転車で散歩していると、炭鉱住宅街が残ったような古い町なかにある小さな公園で花見をしている人たちを見た。夕日の中に座ってる手話の二人組みを見ると同じような気がした。

4.7の午後、障害のある妻の入院に際して、若い夫が介護の仕方を微細に病棟の看護師に伝えようとしていたその熱心さにも似た気持ちがした。



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トランプ関税とアメリカの医療

京都橘大学の高山一夫先生の書かれたもの(『いのちとくらし 研究所報90号 2025.3..31)によると.アメリカはジェネリック薬や注射針などディスボーザル製品を中国輸入に依存しているとのことである。
関税戦争で、これらの流通に混乱が起これば、アメリカの医療も危機に陥ると思える。
これが平気なのは、医療不要論、あるいはそもそも医療は有害なだけという陰謀論的立場の人だけだろう。
ディスボーザル製品ばかりの医療の高い環境負荷が減るとのは良いという立場もないではないが。
それはそれとして、なるべく自国で生産しておいた方が良い、エッセンシャルな物品というのは確定できるのではないか。

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非営利・協同総合研究所 いのちとくらし の研究所報 第90号

非営利・協同総合研究所 いのちとくらし の研究所報 第90号(2025.3.31)は2024.10.5に85歳で亡くなられた、民医連の大先輩 高柳新先生の追悼特集号だった。
合計27人が寄稿している。僕は少し率直に書きすぎた部分があったかと心配だったのだが、実は多くの人がもっと自由に故人について書いていた。

後藤道夫先生などは「高柳さんと酒を飲んでいると、どの程度酔っているのかということがわからず、いろいろ戸惑ったこともありました」と書いている。
酒と議論を同じくらい好んだ高柳先生の面目が、追悼号でも躍如としているというべきである。

こういう追悼号が作られるのは高柳先生が最初で最後だろう。

ところで、この号では、僕は「民医連と脱成長論」というテーマの助走のような文章を書いている。それを深めるためにはまだ相当時間が必要のようだ。

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