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2025年3月13日 (木)

徳とか共通善とか

人間は平等であるべきだ、というのが人間の社会が行き着いた、証明不要の公理なのだろう。

そういう約束事のような公理を認めず、個人の認識の精緻さを徹底して正義の原則を抽出しようという試みはあったが、結局は平等を公理とせざるをえなかった。
(それを徹底できなかったところから、新自由主義の跋扈を許す、最後にはトランプの出現を許すという敗北に陥った)
個人を超越する共通善や徳というものは、平等以外にはないのではないか。逆に言えば、平等だけが超越的で普遍的な徳や共通善ということになる。

平等をどのような経路で達成しようとしたか、あるいは排除しようとしたかが、その社会の特性である。

もし日本社会の歴史というものが考えられるのであれば、それも平等がどう現れて消えたかによって表現されるのではないか。

民医連の歴史も、日本社会の平等志向の一端である。平等志向はずっと歴史をさかのぼっていけるから、民医連の先行者もどこまでもさかのぼって発見することができるはずだ。

そのとき、見つけるのは、直線的な発展ではなくて、繰り返される類似の試みなのではないか。

明治時代の末期にいた大石誠之助には家庭医療学を見つけるし、
江戸時代の三浦梅園や、鎌倉時代の忍性には、「住み続けられるまちづくり」「住民自治」への挑戦を見つけるだろう。

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