ローカル政治新聞への寄稿
1年前、「読書会のある病院」を作りたいという長年の夢を宇部協立病院で実現させるために選んだ小説がハン・ガン『少年が来る』だった。予想通り、彼女は今年ノーベル文学賞を受賞した。
その読書会も続けながら、今年後半に始めたのは、地域福祉室メロス主催の自由学習会のなかの部分企画。椅子を丸く並べて職員相互が顔を見合わせ、日頃無意識にやっている医療行為の意味を問い直している。
最近第5回目を終えて思うのは、医師としての晩年を迎えている自分がなお希望を持つのは、この病院を『宙(そら)わたる教室』に変えていけるかもしれないということ。NHKで放送中のこのドラマは1993年の山田洋次監督の映画『学校』の現代版のようなものだが。
そういう場を求めているのは僕だけではない。ある朝、「先生、勉強会始めたんだって」と大学で同級生だった同僚が話しかけてきた。てっきり彼が僕の話を聞きたいのかと思って「ベテラン医師向きではない」と断ると、「いや自分が話したいんだ」と言う。在宅緩和ケアの有名な専門家である彼は癌末期の鎮痛剤の使い方を話してくれたが、これが第4回目だった。
第5回目に僕は全く新しい話題を選んだ。「プライマリ・ケアとは病気でなく『個人』を診ること」。「病気より病人を診よ」とはよく言うが、病人ではなく「個人」だ。自民党の憲法改悪草案が13条「個人として尊重される」を抽象的な「人として尊重される」に書き換えようとしていることへの批判にも通じることである。まさに「個人」とは「かけがえのないその人らしさ」に裏付けられたものだ。その視点なしには医療も看護も介護もありえない。
しかし、言いたいのはその先のことである。室蘭工業大学教授の清末愛砂さんが主張していることだが、13条「個人の尊重」は強い個人の自己決定権のことでしかなく、自己決定できない弱さの中にあってもけっして失われない「個人の尊厳」を保障するのは24条の2項なのである。婚姻にとどまらず、生活に関わるすべての法律は個人の尊厳と男女平等に立脚して制定されるというその趣旨は「ケアの倫理」を憲法に変えたもののようだ。これは僕にとって、憲法の全く新しい解釈を示してくれる話だったが、この憲法とケアの倫理の重なりあいが、僕らのプライマリ・ケアの革新につながっている。
ここで字数も尽きたが、いつか機会があれば詳しく述べてみたい。みなさん、良いお年を。
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