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2024年11月20日 (水)

民医連の先行者  鎌倉・極楽寺の忍性と 太平洋食堂の大石誠之助

連載4回目)


民医連が、戦前に誕生した無産者診療所を源にして戦後に展開された医療の民主化運動であるだけに留まらず、もっと長期にわたる日本の「いのちの平等」思想の継承者であるとすれば、民医連の先行者として具体的にどのような人物を挙げることができるのだろうか?
 このテーマは僕の中に長く存在したが、それは研修医の頃に三枝博音(さいぐさ・ひろと、1892-1963)の『日本の唯物論者』(英宝社、1956年)を読んで、より長い歴史から、自分の加わったばかりである民医連を位置づけたいと思ったからである。三枝は僕と同郷の哲学者で思想史や科学史の専門家である。
『日本の唯物論者』の中に現れる医師としては、江戸時代の貝原益軒、三浦梅園、安藤昌益がいる。唯物論者でくくられてはいるが、彼らの魅力はそれよりも平等志向にある。
貝原益軒の『養生訓』は岩波文庫で読むことができる。一般向けの医療保健書であるが、その最初のほうに「人の生命はきわめて貴く重く世界全体とも交換できない」旨の一節があり、その平等思想は江戸時代にあっては貴重なものに思える。「医は仁術なり」というフレーズは134ページにある。生活に根ざした健康教育の先駆者としても記憶しておきたい人である。
三浦梅園は、僕の住んでいる宇部から周防灘を隔てた先に毎日その山並みが見える国東半島の人で、「あの辺りに梅園がいたのだ」と思うことがよくある。独自に到達した「反観合一」という弁証法を生かした哲学者として評価されるだけではない。寒村の医師として凶作に備える互助組織「無尽」、今で言えば生活協同組合にあたるものを先駆的に経営した(池田敬正『三浦梅園の慈悲無尽をめぐって』社会福祉学25巻1(1984)1号p109-130)。貧窮の原因を人生の不運にのみ求めず、社会構造から生み出されるものと考えた点できわめて重要なである。民医連としてその真価をもっと知っておくべき人だろう。
安藤昌益は、ハーバート・ノーマンが書いた『忘れられた思想家―安藤昌益のこと―』(岩波新書、1950年)で有名となった。ハーバート・ノーマンはカナダの外交官で日本と関わりが深く加藤周一などとも交流があったが、アメリカの赤狩りの中で追い詰められ自死した悲劇の人である。その後、安藤昌益について多くの人が語っている。民医連に関わりが深いところでは日野秀逸先生の『経済・社会と医師たちの交差-ペティ、ケネー、マルクス、エンゲルス、安藤昌益、後藤新平』(本の泉社2017年)がある。そこでも詳しく述べられているが、農民=生産者主権論に立った徳川身分制批判の鋭さに驚かされる。しかし、実際の医業についてはほとんど記録がないため、民医連の先行者というのは難しい気がする。
しかし、以上はみな江戸時代の人で、それより前や後には誰かいないのだろうかというのが今回のテーマである。
江戸時代以前で真っ先に思いつく人に、鎌倉時代の極楽寺の僧、忍性(にんしょう、1217-1303)がいる。自分がいつどこでその名前を初めて知ったのかは憶えていないが、例えば日高洋子『忍性と福祉の領域に関する一考察』(埼玉学園大学紀要(人間学部篇)第9号2017年)ではその生涯に行き届いた説明がなされている。
奈良に生まれ西大寺で叡尊から真言律宗を学んだ後、1250年頃布教のため関東に下り、1267年頃から鎌倉・極楽寺を拠点にハ ンセン病患者をはじめ、身寄りのない困窮者・囚人・孤児・疲弊した牛馬に至るまで路傍に棄てられているすべての者に、 差別なく救いの手を差し伸べた。そのため獣医学の歴史にも登場する。医療・福祉拠点の経営のみならず、道や橋の建設、港湾修理、井戸掘削などの土木事業にも携わり、日本の中世における注目すべき社会活動家とされる。2014年頃この人のことを少し調べて、その頃創刊されたばかりの韓国の人道主義実践医師協議会の雑誌「医療と社会」に寄稿し、韓国語に翻訳されて掲載されたことがある。
その後のある東京出張の空いた時間に、まだ行ったことのない鎌倉に行き極楽寺で忍性の活動の一端にでも触れようと思って検索していると、東京医科歯科大公衆衛生学教授 高野健人さんの忍性を紹介するエッセイを見つけた。高野さんはマイケル・マーモットさんたちのパンフレット『ザ・ソリッド・ファクツ 健康の社会的決定要因 確かな事実の追求 第2版』(WHO、2003年)を翻訳・公開(WHO健康都市研究協力センター・日本健康都市学会、2004年)してくれた人である。このパンフレットこそ民医連がはじめて健康の社会的決定要因SDHを知った文献だった。そのため2008年頃まで民医連の僕達はSDHのことを「ソリッド・ファクト」と呼んでいた。実にローカル感がある思い出である。高野さんのエッセイも忍性と極楽寺の関係を詳しく述べていた。同好の士をみつけた嬉しさに励まされて江ノ電に初めて乗って極楽寺に行ったのは、日記を確かめると、熊本地震の前震の翌日2016年4月15日である。晴れた良い日だったが、寺に忍性ゆかりのものは何もなく、裏山の墓は閉鎖されており収穫ゼロに近かった。しかも、この日は熊本の後震の大被害の報で暗転した。

その後しばらく忍性のことは忘れていた。思い出したのは、デヴィッド・グレーバー/デヴィッド・ウェングローの大冊「万物の黎明」(酒井隆史訳、光文社、2023年)を読んだ後である。僕達がいま西欧起源と思っている民主主義が本当は北アメリカ先住民社会の優れた政治思想家カンディアロンク由来であったことや、北アメリカにおける専制的王権社会と無支配・平等社会の隣り合う併存の証明など最新の人類学と考古学の成果に基づいた考察が展開される、真に驚きに満ちた本である。人気のジャレド・ダイアモンドやユヴァル・ノア・ハラリの本が玩具じみて見える。現代のように階級支配と家父長制に窒息させられることは人類史の必然ではなく、人類は常にケアし合う平等な社会関係を創造する自由を育んできたというのがその結論である。
しかし、それよりも興味深かったのは、訳者酒井隆史さんの解説本(「『万物の黎明』を読む」河出書房新社、2024年)のなかで日本でも同様な考古学の実証的な革新が起こっていると知ったことである。今年惜しくも62歳で亡くなってしまった松木武彦さんを代表とするグループが目覚ましい成果を挙げている。
松木武彦『はじめての考古学』(ちくまプリマー新書、2021年)には考古学の近年の長足の進歩が簡潔にまとめられている。進歩は二つある。第一は南北アメリカ大陸の考古学研究が進み、旧大陸との比較ができるようになったこと。第二次大戦後、アメリカでは国家の成立についての研究が先住民社会を対象に、エンゲルス「家族・私有財産および国家の起源」を下敷きにして盛んになった。反共主義が強い環境でエンゲルスの名前は伏せられたが、エンゲルスの図式をはるかに超える知見が得られた。松木さん側から見れば『万物の黎明』もその一端に位置づけられるのだろう。そして日本でも弥生時代に北九州に現れた初期の専制的な王権はやがて消え、大和王権の伸長で滅びるまでは平等主義的なクニがしばらく続いたことがわかった。第二は強力な検査法を考古学が手に入れたことである。古い人類の骨の細胞核のゲノム解析が可能になって、私達のゲノムの数%がネアンデルタール人由来とわかった。また樹木の「標準年輪曲線」が定められ、遺跡に木材が残っていれば、その年代とそのころの気候が精密に分かるようになった。これは中塚 武(なかつか・たけし)『気候適応の日本史 人新世をのりこえる視点』(吉川弘文館、2024年)に詳しい。

話題が遠くに行き過ぎた。なぜ忍性を思い出したかに帰らないといけない。以上に関連して気候変化と歴史の関係について読んでいると、温暖で戦争の少なかった平安時代と、小氷期が何度も出現して寒冷化し戦争の増えた鎌倉・室町・戦国時代という大まかな時代把握にたどり着いたからである。親鸞や日蓮などの鎌倉新仏教の興隆もこれに関係があるようだ。
実際に忍性が生きた1217年から1303年の間は災害があいついだ。先述の日高洋子によると、1232年寒冷・大雨による大飢饉、1248年6月の降雪、1256年の赤痢、麻疹の大流行、1274年の大飢饉が挙げられる。まさに小氷期だった。それによる飢餓や貧窮の広がりが、類例のない忍性の医療・福祉・建設活動を生み出したといってよい。それは日本中世における平等志向の最も強い輝きであり、特に医療において活動したということから、いま未曾有の気候危機の中にある民医連の像に重なってみえるのではないだろうか。
また忍性の医療活動については、僧、医師でもあった梶原性全(かじわら・しょうぜん 1266-1337)の協力を忘れることができない。彼は当時の最新知識だった南宋の医学にも通じており、日本初の仮名まじりかつ人体解剖図付きの医書『頓医抄』を著している。梶原性全自身が医療の目的を差別のない救済だと述べており、彼らの協働の姿も民医連と通じるものを感じる。

民医連の先行者として、鎌倉時代の一、二の僧を紹介することにどれほどの意味があるのかと思うと心もとない気もするが、どの時代にも私たちと同じような人がいたということはやはり励まされることではないだろうか。

次に、もう一度先述の三枝博音『日本の唯物論者』に戻って明治以降を見ておきたい。そこには中江兆民や河上肇らが挙げられており、医師は一人も現れないが、1911年大逆事件で処刑された幸徳秋水(こうとく・しゅうすい)の名前がある。これに関連して彼の同盟者で、やはり同年処刑された医師 大石誠之助を取り上げたい。大逆事件という明治時代最大の政治的冤罪事件で処刑された唯一の医師である。
実は大逆事件100年の2010年前後、大石誠之助に関心が集まり小さなブームが起きていた。2007年に毎日新聞は芥川賞作家で芸術院会員の辻原登の大石をモデルにした小説『許されざる者』を連載した。地元の和歌山県新宮市では大石を名誉市民にという運動も起きた。その運動は2018年に実っている。最近でも柳広司(やなぎ・こうじ)の「太平洋食堂」が出版されている(小学館、2020)。柳には瀬長亀次郎を描いた作品(『南風(まぜ)に乗る』小学館、2023年)もあり、最近話題となった。

したがって、大石誠之助はすでによく知られている人物なのかもしれないが、経歴を簡単に書いておくと次のようなものである。
1867年熊野新宮の生まれ。1890年渡米。オレゴン州で働きながら勉学。1891—95年オレゴン州立大学医科に在学。卒業後カナダで外科学士号取得後95年11月帰国し、新宮で開業。1899-1900 閉院してシンガポールとボンベイで感染学を学び1901年帰国。医院再開。この頃から社会主義に関心を深め1904年新宮キリスト教会で非戦論演説。同年、医院の向かい側に「太平洋食堂」開設。1908年東京に幸徳秋水を訪問。これを理由に1910年6月大逆罪で逮捕され、1911年1月24日 43歳で処刑された。(熊野新聞社『大逆事件と大石誠之助』2011年から)

この経歴の中でも興味深いのが太平洋食堂である。いま大石の著述3篇を青空文庫で容易に読むことができるが、その中に1904年の『家庭雑誌』10月号に掲載された文章「太平洋食堂」がある。わかりやすく書き直すとこんな事が書いてある。
「急に思い立ち、当地に太平洋食堂という一つのレストランを作ろうと思い、家屋を新築、器具や装飾品の買入に非常に忙しく働いています。本業の医業を捨てて専念という勇気はまだありませんが、薬売りに似た今日の医者の仕事があまりに面白くないのに嫌気がさし、何とかしてもっと地域の人に役立ちたいと思い計画したのです。普通の西洋料理店と違い、中に新聞雑誌が自由に読めるコーナーを作り、楽器や室内遊戯器具も置きます。
また日を定めて貧しい人たちに食事を提供したり、料理を教えることも仕事の一つとする予定です。そのためには自分がカウンターに立ち、テーブルサービスし、又レンジの前で働こうと思っています」
120年前、こんなに快活でアイデアと実行力に富んだ青年医師がいて、こんなレストランがわずかな期間とは言え実在したと思うだけで楽しくなる。どうしてこれまで彼を明治時代に輝く民医連の先行者として捉えてこなかったか不思議になるのではないだろうか?彼に与えられた人生が短すぎたからだろうか。

以上、鎌倉時代の忍性と明治時代の大石誠之助を民医連の先行者として取り上げてみた。先行者という言葉が奇妙かもしれない。歴史が決まった一方向に発展した果てに今日の僕たちがいるというよりも、歴史のあちこちに同じベクトルを共有する同時代人(ホモ・サピエンス)がいるという気がしてくる。日本固有のベクトルというものはないが、人類固有のベクトルはおそらくある。それが平等への志向であり、民医連にいる僕たちが現代においてどこか特徴を持った存在であるとすれば、そのことに自覚的だということだけなのだろう。

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コメント

民医連前史にかかわるご紹介、興味深くお読みしました。熊野の大石誠之助について恥ずかしながら浅学にて存じませんでしたが、民医連運動史は日本共産党史と密接に語られることが多いので、「日本の社会主義運動の未熟さ」(日本共産党の六十年)と評されたアナーキスト幸徳らの大逆事件に関連して処刑された大石についての記憶は、ネアンデルタールやデニソワ人といった傍系旧人類の如く、今日の共産党につながる社会主義運動の歴史のなかで上書きされて、消えてしまったのでしょうか。ちなみに「百年」史には、日本社会主義前史については冒頭に「人民の解放闘争の高まり」云々とだけ触れられていますが、もはや大逆事件も「社会党」も削られて跡形もありません。もちろん、「正史」は幸徳ら直接行動派の系譜と日本共産党は相容れない立場でしょうから、もとより大石誠之助さんが行なった事業や理念を民医連が掘り起こすとも考えられません。まず同氏についての知識を持ち言及できるのは、民医連内でも先生くらいしかいないのでしょう。また勉強させてください。

投稿: Y山 | 2024年11月24日 (日) 03時03分

コメントありがとうございました。綱領にしろ、歴史にしろ、共産党の枠内にいれば安心という気風はまだ民医連内にあるのでしょうが、その枠が解消されることが民医連にとっても共産党にとっても未来の発展の上で大切だと思っています。民医連を自由に語ることが一方の閉塞を破るというような。

投稿: 野田浩夫 | 2024年11月25日 (月) 11時42分

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