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2024年11月27日 (水)

2024.11.27 山口民医連県連理事会挨拶

夏が突然冬になるというような気候の激変ですが、皆さん秋を満喫されているでしょうか。
今月は挨拶でお知らせしておきたいことが多数あるので、順不同の箇条書き風になりますがご了承ください。

①経営困難が病院界全体に広がっています。全日本病院協会は10月に病院の経営悪化に関して政府に緊急要望を出しています。資料1
 民医連も例外ではなく、健文会も年末の賞与を引き下げるとしていますが、長野中央病院では昨年の半分以下となったのでストライキが行われ、これは全国ニュースになりました。資料2

このほか宮城などストライキをするところは増えそうです。このままでは医療界そのものが経営的に壊滅するというのは決して大げさではないので、政府の支援が切実に求められていくと思います。

②しかし、病院側の自己点検が不要というわけではありません。この間、他県の看護職場の事実上の崩壊に遭遇して、山口県からも支援を出しましたが、そこで知ったこの病院の看護労働の常識外の過酷さと、その県の看護幹部の発言を照らし合わせてみると、その県の医療・経営活動方針に問題があるのではないかという思いが湧き、率直にその県連に伝えました。それなりに反響はあったようです。

全国的に、困難は宇部協立病院より一回り大きい300床前後の急性期病院に集中しているようです。それは自分たちに本当に必要な技術体系、つまり医師の技能というだけでなく、病院の設備、法人の組織形態にまで及ぶものですが、それを今一度、地域の実情に照らし合わせて見直す必要を強く迫っているものです。

③そしてそれは山口民医連も他人事ではありません。資料3は昨日の県内重大ニュースです。山口県、山口大学、山口県立総合医療センター、山口県内の自治医科大学医師が連携し、山口県全域で総合診療医を育成する協定が締結されたということなのですが、これが山口県に若手医師を残すことの決め手になるのか、それを山口民医連としてどう受け止めるか議論が必要です。

また同時に、宇部山陽小野田二次医療圏での二次救急が大きく変わります。宇部中央病院と山口労災病院がセンターとなり、それ以外の中小病院がそれぞれの立地地域に責任を持った、まさに20年前はそうだった状態に形式上はもどります。むしろ、僕としては、今の2次救急当番持ち回り型にはずっと反対してきたので、その推進者である当局抗議したいくらい ですが、しかし20年前の状態が復活・発展できるのかということについては、医師態勢も大きく変わった今、とてもうまくいくとも思えず、今後も長い議論が必要なことだと思います。

④ところで『宙わたる教室』というNHKのドラマを知っている人はいますか。写真はその原作の一節です。ドラマでも最も反響を呼んだディスレクシアという障害について語っているところです。
病院の技術体系、つまり病院機能建設の魂となるところは、やはり職員の学ぶ気持ちだと思います。それなしに高額機器を導入しても、経営危機に直結するだけです。

僕自身は病院を『宙わたる教室』にするつもりで、メロス主催の看護師学習会をはじめました。輸液や酸素療法など、最も基礎的な話ですが、それは、夜間高校の科学部で、なぜ空は青いか、雲は白いか、夕焼けは赤いか、そして火星の空の色は、火星の夕焼けの色は?と考えていくのに似たことだと思います。
そうこうしているうちに立石先生が「自分にも話させろ」と言ってきて、緩和ケアの話をしてくれました。

自主的な勉強が広がる山口民医連になることの中に未来を見たいと思います。

それに関連して、冒頭の写真があります。2年半前に開設した山口市道場門前の健文会山口市事務所で医学部1年生5人と山口市在住の松林健文会理事が、森山さんが手作りしたクッキーを持って記念写真に収まっているところです。
単なる記念写真でなく、ようやく山口市事務所が、学生、組合員、職員の学び合いの場として、期待された本来の機能を発動しはじめた記念すべき写真としてご紹介しておきます

⑤なお今日は、今月目立った雑誌記事を資料に取り上げています。とくに非営利・協同総合研究所「いのちとくらし」研究所報の最近号に掲載された京大の岡田知弘先生の能登災害復興に関する講演会記録は、同様のものが「民医連医療」12月号にもありますが、どうぞ合わせて読んで理解を深めていただきたいと思います。
1995年阪神淡路大震災を契機にして強くなった「個人の住宅再建にも支援を」という声は1999年に「被災者生活再建支援法」の成立をうみ、その後、大災害のたびに拡充されていきました。

それを実現したのが、私達が作る全国災害対策連です。その歩みの先にあるのが、もう一つの資料としてつけた、「月間保団連」11月号特集にあった森川すいめい先生の「ハウジング・ファースト」運動です。

災害対策は、日常生活における人権を強化するうえで必須の跳躍板なのです。

その一方に、能登地震を契機に、能登の4つの病院を一つに集約してしまうというようなショック・ドクトリンが繰り返されている現実があります。

以上言いたいことがたくさんあって、今月は困っているのですが、挨拶はここまでとします。今日は能登支援で大変お世話になった庄見二三男さんの学習講演もあります。熱心な討議参加をお願いするものです。

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2024年11月25日 (月)

「美しい花がある、花の美しさというものはない」の馬鹿らしさ

「美しい花がある、花の美しさというものはない」というのは小林秀雄の有名な言葉だが、どうしてこんなふうに物事を一面的に言い捨ててしまうのか分からない。

最近読んだ解釈では、これは能に関するエッセイ(「当麻」)で述べられたもので、能の美しさは舞う人の鍛錬した身体に宿るものであり、身体と離れた抽象的な美はないのだということらしい。年をとって身体が思うように動かないとそれが切実になってわかってくるという。

そうだろうか?

そこでこう言い換えてみよう。
「正しい診断がある、診断の正しさというものはない」
つまり、診断は鍛え抜かれた医師の身体や、その拡張としての医療機器、病院組織に宿るもので、それらを離れた診断の正しさなんてない。

どうだろう、一見妥当なようで、一瞬騙されないだろうか。

しかし具体的な診断行為と、その抽象的な「省察」の間を無限に行き来することでしか診断はありえないのである。

「正しい診断と、診断の正しさはおなじことではない」と僕なら言う。

小林秀雄に感心するというのは、小林秀雄に騙されるということである。

具体的なことと抽象的なことの2面に限らないが、僕らは絶えず多面的に対話し、あえて結論を出さず、対話を維持するという中でしか正気を保てない生き物なのだ。




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2024年11月20日 (水)

民医連の先行者  鎌倉・極楽寺の忍性と 太平洋食堂の大石誠之助

連載4回目)


民医連が、戦前に誕生した無産者診療所を源にして戦後に展開された医療の民主化運動であるだけに留まらず、もっと長期にわたる日本の「いのちの平等」思想の継承者であるとすれば、民医連の先行者として具体的にどのような人物を挙げることができるのだろうか?
 このテーマは僕の中に長く存在したが、それは研修医の頃に三枝博音(さいぐさ・ひろと、1892-1963)の『日本の唯物論者』(英宝社、1956年)を読んで、より長い歴史から、自分の加わったばかりである民医連を位置づけたいと思ったからである。三枝は僕と同郷の哲学者で思想史や科学史の専門家である。
『日本の唯物論者』の中に現れる医師としては、江戸時代の貝原益軒、三浦梅園、安藤昌益がいる。唯物論者でくくられてはいるが、彼らの魅力はそれよりも平等志向にある。
貝原益軒の『養生訓』は岩波文庫で読むことができる。一般向けの医療保健書であるが、その最初のほうに「人の生命はきわめて貴く重く世界全体とも交換できない」旨の一節があり、その平等思想は江戸時代にあっては貴重なものに思える。「医は仁術なり」というフレーズは134ページにある。生活に根ざした健康教育の先駆者としても記憶しておきたい人である。
三浦梅園は、僕の住んでいる宇部から周防灘を隔てた先に毎日その山並みが見える国東半島の人で、「あの辺りに梅園がいたのだ」と思うことがよくある。独自に到達した「反観合一」という弁証法を生かした哲学者として評価されるだけではない。寒村の医師として凶作に備える互助組織「無尽」、今で言えば生活協同組合にあたるものを先駆的に経営した(池田敬正『三浦梅園の慈悲無尽をめぐって』社会福祉学25巻1(1984)1号p109-130)。貧窮の原因を人生の不運にのみ求めず、社会構造から生み出されるものと考えた点できわめて重要なである。民医連としてその真価をもっと知っておくべき人だろう。
安藤昌益は、ハーバート・ノーマンが書いた『忘れられた思想家―安藤昌益のこと―』(岩波新書、1950年)で有名となった。ハーバート・ノーマンはカナダの外交官で日本と関わりが深く加藤周一などとも交流があったが、アメリカの赤狩りの中で追い詰められ自死した悲劇の人である。その後、安藤昌益について多くの人が語っている。民医連に関わりが深いところでは日野秀逸先生の『経済・社会と医師たちの交差-ペティ、ケネー、マルクス、エンゲルス、安藤昌益、後藤新平』(本の泉社2017年)がある。そこでも詳しく述べられているが、農民=生産者主権論に立った徳川身分制批判の鋭さに驚かされる。しかし、実際の医業についてはほとんど記録がないため、民医連の先行者というのは難しい気がする。
しかし、以上はみな江戸時代の人で、それより前や後には誰かいないのだろうかというのが今回のテーマである。
江戸時代以前で真っ先に思いつく人に、鎌倉時代の極楽寺の僧、忍性(にんしょう、1217-1303)がいる。自分がいつどこでその名前を初めて知ったのかは憶えていないが、例えば日高洋子『忍性と福祉の領域に関する一考察』(埼玉学園大学紀要(人間学部篇)第9号2017年)ではその生涯に行き届いた説明がなされている。
奈良に生まれ西大寺で叡尊から真言律宗を学んだ後、1250年頃布教のため関東に下り、1267年頃から鎌倉・極楽寺を拠点にハ ンセン病患者をはじめ、身寄りのない困窮者・囚人・孤児・疲弊した牛馬に至るまで路傍に棄てられているすべての者に、 差別なく救いの手を差し伸べた。そのため獣医学の歴史にも登場する。医療・福祉拠点の経営のみならず、道や橋の建設、港湾修理、井戸掘削などの土木事業にも携わり、日本の中世における注目すべき社会活動家とされる。2014年頃この人のことを少し調べて、その頃創刊されたばかりの韓国の人道主義実践医師協議会の雑誌「医療と社会」に寄稿し、韓国語に翻訳されて掲載されたことがある。
その後のある東京出張の空いた時間に、まだ行ったことのない鎌倉に行き極楽寺で忍性の活動の一端にでも触れようと思って検索していると、東京医科歯科大公衆衛生学教授 高野健人さんの忍性を紹介するエッセイを見つけた。高野さんはマイケル・マーモットさんたちのパンフレット『ザ・ソリッド・ファクツ 健康の社会的決定要因 確かな事実の追求 第2版』(WHO、2003年)を翻訳・公開(WHO健康都市研究協力センター・日本健康都市学会、2004年)してくれた人である。このパンフレットこそ民医連がはじめて健康の社会的決定要因SDHを知った文献だった。そのため2008年頃まで民医連の僕達はSDHのことを「ソリッド・ファクト」と呼んでいた。実にローカル感がある思い出である。高野さんのエッセイも忍性と極楽寺の関係を詳しく述べていた。同好の士をみつけた嬉しさに励まされて江ノ電に初めて乗って極楽寺に行ったのは、日記を確かめると、熊本地震の前震の翌日2016年4月15日である。晴れた良い日だったが、寺に忍性ゆかりのものは何もなく、裏山の墓は閉鎖されており収穫ゼロに近かった。しかも、この日は熊本の後震の大被害の報で暗転した。

その後しばらく忍性のことは忘れていた。思い出したのは、デヴィッド・グレーバー/デヴィッド・ウェングローの大冊「万物の黎明」(酒井隆史訳、光文社、2023年)を読んだ後である。僕達がいま西欧起源と思っている民主主義が本当は北アメリカ先住民社会の優れた政治思想家カンディアロンク由来であったことや、北アメリカにおける専制的王権社会と無支配・平等社会の隣り合う併存の証明など最新の人類学と考古学の成果に基づいた考察が展開される、真に驚きに満ちた本である。人気のジャレド・ダイアモンドやユヴァル・ノア・ハラリの本が玩具じみて見える。現代のように階級支配と家父長制に窒息させられることは人類史の必然ではなく、人類は常にケアし合う平等な社会関係を創造する自由を育んできたというのがその結論である。
しかし、それよりも興味深かったのは、訳者酒井隆史さんの解説本(「『万物の黎明』を読む」河出書房新社、2024年)のなかで日本でも同様な考古学の実証的な革新が起こっていると知ったことである。今年惜しくも62歳で亡くなってしまった松木武彦さんを代表とするグループが目覚ましい成果を挙げている。
松木武彦『はじめての考古学』(ちくまプリマー新書、2021年)には考古学の近年の長足の進歩が簡潔にまとめられている。進歩は二つある。第一は南北アメリカ大陸の考古学研究が進み、旧大陸との比較ができるようになったこと。第二次大戦後、アメリカでは国家の成立についての研究が先住民社会を対象に、エンゲルス「家族・私有財産および国家の起源」を下敷きにして盛んになった。反共主義が強い環境でエンゲルスの名前は伏せられたが、エンゲルスの図式をはるかに超える知見が得られた。松木さん側から見れば『万物の黎明』もその一端に位置づけられるのだろう。そして日本でも弥生時代に北九州に現れた初期の専制的な王権はやがて消え、大和王権の伸長で滅びるまでは平等主義的なクニがしばらく続いたことがわかった。第二は強力な検査法を考古学が手に入れたことである。古い人類の骨の細胞核のゲノム解析が可能になって、私達のゲノムの数%がネアンデルタール人由来とわかった。また樹木の「標準年輪曲線」が定められ、遺跡に木材が残っていれば、その年代とそのころの気候が精密に分かるようになった。これは中塚 武(なかつか・たけし)『気候適応の日本史 人新世をのりこえる視点』(吉川弘文館、2024年)に詳しい。

話題が遠くに行き過ぎた。なぜ忍性を思い出したかに帰らないといけない。以上に関連して気候変化と歴史の関係について読んでいると、温暖で戦争の少なかった平安時代と、小氷期が何度も出現して寒冷化し戦争の増えた鎌倉・室町・戦国時代という大まかな時代把握にたどり着いたからである。親鸞や日蓮などの鎌倉新仏教の興隆もこれに関係があるようだ。
実際に忍性が生きた1217年から1303年の間は災害があいついだ。先述の日高洋子によると、1232年寒冷・大雨による大飢饉、1248年6月の降雪、1256年の赤痢、麻疹の大流行、1274年の大飢饉が挙げられる。まさに小氷期だった。それによる飢餓や貧窮の広がりが、類例のない忍性の医療・福祉・建設活動を生み出したといってよい。それは日本中世における平等志向の最も強い輝きであり、特に医療において活動したということから、いま未曾有の気候危機の中にある民医連の像に重なってみえるのではないだろうか。
また忍性の医療活動については、僧、医師でもあった梶原性全(かじわら・しょうぜん 1266-1337)の協力を忘れることができない。彼は当時の最新知識だった南宋の医学にも通じており、日本初の仮名まじりかつ人体解剖図付きの医書『頓医抄』を著している。梶原性全自身が医療の目的を差別のない救済だと述べており、彼らの協働の姿も民医連と通じるものを感じる。

民医連の先行者として、鎌倉時代の一、二の僧を紹介することにどれほどの意味があるのかと思うと心もとない気もするが、どの時代にも私たちと同じような人がいたということはやはり励まされることではないだろうか。

次に、もう一度先述の三枝博音『日本の唯物論者』に戻って明治以降を見ておきたい。そこには中江兆民や河上肇らが挙げられており、医師は一人も現れないが、1911年大逆事件で処刑された幸徳秋水(こうとく・しゅうすい)の名前がある。これに関連して彼の同盟者で、やはり同年処刑された医師 大石誠之助を取り上げたい。大逆事件という明治時代最大の政治的冤罪事件で処刑された唯一の医師である。
実は大逆事件100年の2010年前後、大石誠之助に関心が集まり小さなブームが起きていた。2007年に毎日新聞は芥川賞作家で芸術院会員の辻原登の大石をモデルにした小説『許されざる者』を連載した。地元の和歌山県新宮市では大石を名誉市民にという運動も起きた。その運動は2018年に実っている。最近でも柳広司(やなぎ・こうじ)の「太平洋食堂」が出版されている(小学館、2020)。柳には瀬長亀次郎を描いた作品(『南風(まぜ)に乗る』小学館、2023年)もあり、最近話題となった。

したがって、大石誠之助はすでによく知られている人物なのかもしれないが、経歴を簡単に書いておくと次のようなものである。
1867年熊野新宮の生まれ。1890年渡米。オレゴン州で働きながら勉学。1891—95年オレゴン州立大学医科に在学。卒業後カナダで外科学士号取得後95年11月帰国し、新宮で開業。1899-1900 閉院してシンガポールとボンベイで感染学を学び1901年帰国。医院再開。この頃から社会主義に関心を深め1904年新宮キリスト教会で非戦論演説。同年、医院の向かい側に「太平洋食堂」開設。1908年東京に幸徳秋水を訪問。これを理由に1910年6月大逆罪で逮捕され、1911年1月24日 43歳で処刑された。(熊野新聞社『大逆事件と大石誠之助』2011年から)

この経歴の中でも興味深いのが太平洋食堂である。いま大石の著述3篇を青空文庫で容易に読むことができるが、その中に1904年の『家庭雑誌』10月号に掲載された文章「太平洋食堂」がある。わかりやすく書き直すとこんな事が書いてある。
「急に思い立ち、当地に太平洋食堂という一つのレストランを作ろうと思い、家屋を新築、器具や装飾品の買入に非常に忙しく働いています。本業の医業を捨てて専念という勇気はまだありませんが、薬売りに似た今日の医者の仕事があまりに面白くないのに嫌気がさし、何とかしてもっと地域の人に役立ちたいと思い計画したのです。普通の西洋料理店と違い、中に新聞雑誌が自由に読めるコーナーを作り、楽器や室内遊戯器具も置きます。
また日を定めて貧しい人たちに食事を提供したり、料理を教えることも仕事の一つとする予定です。そのためには自分がカウンターに立ち、テーブルサービスし、又レンジの前で働こうと思っています」
120年前、こんなに快活でアイデアと実行力に富んだ青年医師がいて、こんなレストランがわずかな期間とは言え実在したと思うだけで楽しくなる。どうしてこれまで彼を明治時代に輝く民医連の先行者として捉えてこなかったか不思議になるのではないだろうか?彼に与えられた人生が短すぎたからだろうか。

以上、鎌倉時代の忍性と明治時代の大石誠之助を民医連の先行者として取り上げてみた。先行者という言葉が奇妙かもしれない。歴史が決まった一方向に発展した果てに今日の僕たちがいるというよりも、歴史のあちこちに同じベクトルを共有する同時代人(ホモ・サピエンス)がいるという気がしてくる。日本固有のベクトルというものはないが、人類固有のベクトルはおそらくある。それが平等への志向であり、民医連にいる僕たちが現代においてどこか特徴を持った存在であるとすれば、そのことに自覚的だということだけなのだろう。

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2024年11月17日 (日)

秋と石原裕次郎

秋になると、つい石原裕次郎の歌謡曲「夕陽の丘」を思い出してしまうので、僕は実年齢よりよほどお爺さんだと思う。

特に「かいなき命ある限り」のフレーズを思い出すと、生きていても仕方がないのに生き残ってしまった、いまは命という牢獄にとらわれているようなものだ、と感じていた戦後の青年の心象が、なんとなく今の自分に重なってしまうのである。

担任がなんかのテストから単純計算して、「だから野田君は12歳なのに心は18歳です」と誰かに言っていたのも思い出した。なんかの間違いだと思うけど、同じ計算をすると108歳。

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2024年11月15日 (金)

『少年が来る」の読書会と非営利・協同総合研究所「いのちとくらし」の理事会

今日の夕方はハン・ガン『少年が来る』の最終章 第6章の読書会。短いので一気に朗読するが、例によって泣きそうになって声が詰まってしまう。
トンホという主人公の少年の周辺から一人づつの物語が語られて、ついに光州事件から30年後のトンホの母親の語りに至ったのが6章である。
陽射しのある明るいところにトンホの幻影が母親を誘うところで物語は終わる。これはつまり母親に「死なないで」と言っているということだ。
12月に、作者の思いを語るエピローグを読んで、長かった読書会も終わる予定である。

その後は、非営利・協同総合研究所「いのちとくらし」の理事会にZoomで参加。
議論の噛み合わなさから、日本も民医連も大都市部と地方という2つに分断されている気がした。
それは歴史家 網野善彦が指摘する東日本と西日本くらいに違う。
「一国社会主義革命」ならぬ「一県民主主義革命」が地方には必要だという話をしたが、きっと「立憲民主主義革命」だと思われたに違いない。それは仕方ないけど。
それと地方の病院を襲っている深刻な危機、医師のやりたい医療を強行すれば看護部門が崩壊するというような話もした。
ともかく、政策の勉強がしたい。
「都市の反乱」でなく「地方の反乱」が僕には必要だ。

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2024年11月14日 (木)

ローカル政治新聞への寄稿

1年前、「読書会のある病院」を作りたいという長年の夢を宇部協立病院で実現させるために選んだ小説がハン・ガン『少年が来る』だった。予想通り、彼女は今年ノーベル文学賞を受賞した。

その読書会も続けながら、今年後半に始めたのは、地域福祉室メロス主催の自由学習会のなかの部分企画。椅子を丸く並べて職員相互が顔を見合わせ、日頃無意識にやっている医療行為の意味を問い直している。
最近第5回目を終えて思うのは、医師としての晩年を迎えている自分がなお希望を持つのは、この病院を『宙(そら)わたる教室』に変えていけるかもしれないということ。NHKで放送中のこのドラマは1993年の山田洋次監督の映画『学校』の現代版のようなものだが。

そういう場を求めているのは僕だけではない。ある朝、「先生、勉強会始めたんだって」と大学で同級生だった同僚が話しかけてきた。てっきり彼が僕の話を聞きたいのかと思って「ベテラン医師向きではない」と断ると、「いや自分が話したいんだ」と言う。在宅緩和ケアの有名な専門家である彼は癌末期の鎮痛剤の使い方を話してくれたが、これが第4回目だった。

5回目に僕は全く新しい話題を選んだ。「プライマリ・ケアとは病気でなく『個人』を診ること」。「病気より病人を診よ」とはよく言うが、病人ではなく「個人」だ。自民党の憲法改悪草案が13条「個人として尊重される」を抽象的な「人として尊重される」に書き換えようとしていることへの批判にも通じることである。まさに「個人」とは「かけがえのないその人らしさ」に裏付けられたものだ。その視点なしには医療も看護も介護もありえない。

しかし、言いたいのはその先のことである。室蘭工業大学教授の清末愛砂さんが主張していることだが、13条「個人の尊重」は強い個人の自己決定権のことでしかなく、自己決定できない弱さの中にあってもけっして失われない「個人の尊厳」を保障するのは24条の2項なのである。婚姻にとどまらず、生活に関わるすべての法律は個人の尊厳と男女平等に立脚して制定されるというその趣旨は「ケアの倫理」を憲法に変えたもののようだ。これは僕にとって、憲法の全く新しい解釈を示してくれる話だったが、この憲法とケアの倫理の重なりあいが、僕らのプライマリ・ケアの革新につながっている。

ここで字数も尽きたが、いつか機会があれば詳しく述べてみたい。みなさん、良いお年を。

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2024年11月11日 (月)

三菱重工下関造船所下請け工じん肺訴訟

今日、下関の臼井俊紀弁護士から電話があって初めて知ったのだが、三菱重工下関造船所下請け工じん肺訴訟が最高裁で勝利していた。本工でなく、下請け工の人のアスベスト被害を掘り起こしたのが画期的だった。故人となった原告が僕の外来に来てから約20年を経る長い経過だった。

https://www.sankei.com/article/20241016-D463PRL6CBOIHKQRPCYZWNQIPY/

1990年位から僕が手掛けている山口県のじん肺・アスベスト関連疾患診療も患者さんがすっかり減って、終わりが見えてきたが、ほぼ最後に記念すべき結果となった。

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どうせmiscellaneousだよ

昨日、zoomで視聴した県医師会の生涯教育で講演したSt.Lukes International Hospitalの先生が冒頭に言ったのは
「今日の聴衆のバックグラウンドは相当に雑多で開業医も多いと聞いていますので」

おそらく、山口のどうしようもない医者である僕らについてmiscellaneousという単語が頭の中に浮かんでいたのだな。いや、僕らもかけがえのない個人の集まりなのだよ、先生。

他山の石にしよう。多様性という便利な言葉はこんなとき使わなくては。

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2024年11月 8日 (金)

病気ではなく病人を見る、ではだめ。および「宙わたる教室」

今日は「地域福祉室・メロス」の職員貢献としてやっている自主的学習会。
これまでやってきた「輸液・酸素療法・心不全」のおさらいと、患者をそれぞれの「病い体験」のなかにある「かけがえのない個人」として捉える方法論のさわりを話した。

「病気ではなく病人をみる」レベルにとどまって、個人を置き去りにしてはだめなのだ。

ケアの倫理の基礎である個人の尊厳と男女の平等は憲法24条2項に書いてあることも。
個人の尊厳と男女平等に立脚して法律を制定しなければならないのは、別に婚姻だけではなくすべての生活にわたると読み取れば、これは憲法全体の土台なのではないか。

宇部協立病院をまるごと「宙わたる教室」にしたいという幻想のような前置きをおいたが、このドラマを参加者の誰も視聴していなかった。それもそうだ、午後10時のドラマを見る暇はない労働をみんなしているのだろう。

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