2024年9月30日 (月)
2024年9月24日 (火)
2024.9.25 県連理事会挨拶
9月23日位からようやく涼しくなり、猛暑も終わった感があります。
理事の皆様、灼熱地獄を生き延びてよく今日の理事会にご結集いただきました。ありがとうございます。
しかし、異常高温、新型コロナ第11波、台風、度重なる豪雨と、過酷な夏だったので、私達の気づかない熱中症死亡や今後の病状悪化がきっとあると思います。
油断せずに患者さんや地域への注視を強めていただきたいと思います。
沖縄の基地犯罪、ガザ・ヨルダン川西岸・レバノンへの攻撃、また世界的に頻発している大洪水など、言及したいことがたくさんありますが、報告事項の中にもあると思いますので割愛します。
しかし、9月21-22日の能登地方の大水害は、現地の被災者には比べようもありませんが、ただニュースに接するだけの私達も軽くない絶望感を覚えます。地震と豪雨の間に関連はないでしょうが、人口減少著しい能登地方の軽視による先行災害の復旧の遅さが被害拡大の一因であるのは確実です。
このことは同じ人口激減の件である山口県も他人事ではありません。実際に美祢線復旧はほぼ諦められています。
能登の支援は拡大しないといけないと思いますが、まず手始めに義援金は今すぐ取り組みたいと考えます。これはよろしくお願いします。
今日は少し具体的対策は離れてこの事態へのヒントを人類史の中に探るという話をしてみたいと思います。
人類史などには素人の私がそんなことを言うのは、考古学の近年の長足の進歩があるからなのです。
進歩は二つあります。
第一は南北アメリカ大陸の考古学研究が進み、ユーラシア大陸との比較ができるようになったことです。
第二次大戦後、アメリカでは国家の成立についての研究が先住民社会を対象に、エンゲルス「家族・私有財産および国家の起源」を下敷きにして盛んになりました。反共主義が強い米国の環境ではエンゲルスの名前は伏せられましたが、エンゲルスの構想をはるかに超える知見が得られまし。その一端は世界中で評判となったグレーバーとウェングロウの共著「万物の黎明」にあります。厚い本ですが、我慢して読む意味は大いにあるという本です。
この本の結論というものがあるとすれば、現代の資本主義社会のような階級支配と家父長制に窒息させられる状態に至ることは人類史の必然ではなく、過去のどういう状況のなかでも人類は常にケアし合う平等な社会関係を創造する自由を育んで、実際に成功もしていたというのがその結論です。それは「基盤的コミュニズム」と名付けられるものですが、今、そこにもあります。私達が地域福祉室を先頭に困窮者支援をする、そのことの中に「今ここにある共産主義」が潜んでいるのです。実は、これがあるから、この過酷な資本主義社会をみんな生き延びているのです。それは決して資本主義を延命させているというような皮肉に負けるものではないと思います。
これについては、最近の日本の考古学を扱った ちくまプリマー新書の「はじめての考古学」を読んでいて、日本の弥生時代の研究でも、類似のことが発見されているのを知りました。
吉野ケ里遺跡を皆さんご存知と思いますが、あそこは王様をいただく人口5000人くらいの弥生時代のクニだったところです。
しかし、その後それは解体されて、王様のいない平等な地域になって、さらに栄えるのですね。その後 古墳時代になって大和王権のもとの国家に編入されてしまうのですが、こういう時代でも王のいる制度をやめることができていたのが驚きです。この本を書いた国立民族学博物館教授松木武彦さんはこの9月21日に62歳でなくなったそうです。
考古学のもう一つの進歩は強力な科学的道具を考古学が手に入れたことです。古い人類の遺骨の細胞核のゲノム解析が可能になって、私達のゲノムの数%が交雑したネアンデルタール人由来とわかったのは衝撃的でした。そのほか従来の放射性同位元素C14を利用した年代測定に加え、樹木の「標準年輪曲線」が定められ、遺跡の木材の年代とそのころの気候が精密に分かるようになった事が重要です。
この年輪を用いた方法で最近分かったことがあります。実はこれを挨拶で言いたかった。年輪に現れる気候変化は、数年単位、数十年単位、数百年単位の3種がある。実際の歴史と照らし合わせてみれば、数年単位であれば食物蓄積が有効、数百年単位であれば技術的対応が可能とわかります。
しかし数十年単位のものは対応困難で、影響は深刻となり飢饉が頻発し社会が崩壊してきました。僕たちが今直面している気候危機も実はこの数十年単位のものでのもので、今後の被害が想像を絶するものとなるは確実です。
しかし、同じような気候変動で社会が荒れ荘園が消滅したりした鎌倉時代には、僧 忍性や親鸞が現れて画期的な鎌倉仏教が起こり、人々に希望を提示しました。
現代の気候危機にも人間が自らを救済する変革はきっと起こるります。それはケアし合う平等な社会の創造に他ならなくて、いまいま「ケアの倫理」と呼ばれるものが、きっと鎌倉仏教に相当するのだろうと思います。
というわけで、今日は少し浮世離れした挨拶をしてしまいましたが、最後に日本国憲法について目からウロコのような解釈をご紹介しておきます。
ケアは人間の尊厳を守るものですが、個人の尊厳を明記している憲法の条文があると思いますか?
憲法、尊厳と検索すると憲法13条が出てきますが、13条は「個人の尊重」であって、「個人の尊厳」ではありません。13条は、強い個人の自己決定を保障する条文です。
自己決定に支援が必要な弱い個人をケアすることを憲法が明記しているのは、結婚が両性の合意にのみ基づくとした24条です。24条2項が特に重要で「配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び 家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚し て、制定されなければならない」としています。
実は「ケアの倫理」は、憲法上ここに根拠を持つと言わなくてはなりません。室蘭工業大学の清末愛砂(きよすえ・あいさ)さんのこの主張は、最近最も感心したものなので、あえて、資料も添付して言及しました。
長くなりましたが以上で挨拶を終わります。熱心なご討議をお願いします。
ローカル政治新聞への寄稿
9月21-22日の能登地方の大水害は、現地の被災者には比べようもないが、ただニュースに接するだけの私達にも軽くない絶望感を与えている。
地震と豪雨の間に関連はないだろうが、人口減少著しい能登地方の軽視による先行災害の復旧の遅さが被害拡大の一因であるなら、山口県民も他人事ではない。美祢線復旧を巡る状況を見よ。
その具体的対策はここで論じることはできないが、歴史のなかに何かしらのヒントがあるのではないか。
素人の僕がそんなことを言うのは、考古学の近年の長足の進歩があるからである。
進歩は二つある。
第一は南北アメリカ大陸の考古学研究が進み、旧大陸との比較ができるようになったこと。第二次大戦後、アメリカでは国家の成立についての研究が先住民社会を対象に、エンゲルス「家族・私有財産および国家の起源」を下敷きにして盛んになった。反共主義が強い環境でエンゲルスの名前は伏せられたが、エンゲルスの図式をはるかに超える知見が得られた。その一端は世界中で評判となったグレーバーとウェングロウの共著「万物の黎明」にある。現代のように階級支配と家父長制に窒息させられることは人類史の必然ではなく、人類は常にケアし合う平等な社会関係を創造する自由を育んでいたというのがその結論である。
もう一つの進歩は強力な科学的道具を考古学が手に入れたことである。古い人類の遺骨の細胞核のゲノム解析が可能になって、私達のゲノムの数%が交雑したネアンデルタール人由来とわかったのは衝撃的だった。そのほか従来の放射性同位元素を利用した年代測定に加え、樹木の「標準年輪曲線」が定められ、遺跡の木材の年代とそのころの気候が精密に分かるようになった。
年輪を用いた方法で最近分かったことがある。年輪に現れる気候変化は、数年単位、数十年単位、数百年単位のものがある。実際の歴史と照らし合わせてみれば、数年単位であれば食物蓄積が有効、数百年単位であれば技術的対応が可能とわかる。
しかし数十年単位のものは対応困難で、影響は深刻となり飢饉が頻発し社会が崩壊した。僕たちが今直面している気候危機も実はこの範囲のもので、今後の被害が想像を絶するものとなるのは確実である。
しかし、僧 忍性や親鸞等によって画期的な鎌倉仏教が興隆し、人々に希望を提示したのも、そんな気候変化の結果である。現代の気候危機にも人間が自らを救済する変革はきっと起こる。それはケアし合う平等な社会の創造に他ならない。
松木武彦の死
①大戦後のアメリカの考古学はエンゲルス『家族・私有財産および国家の起源』を下敷きにアメリカの先住民社会での国家形成を盛んに探究したが、反共主義のなか、エンゲルスの名前は隠さなくてはならなかった。
それでも、その考古学には多大な発見があり、グレーバーとウェングロウの共著『万物の黎明』にその一端が紹介されている。
その成果はエンゲルスの図式を遥かに超えて、ヒエラルキーを廃してなお発展する社会の過去の実在を証明して見せた。
実は、それと同じことが日本にも起こっていた。つまり王制を廃して共和制に戻りなお繁栄した弥生時代の九州北部像を、この9月21日に62歳で亡くなった松木武彦が描いている。
②ちくまプリマー新書「はじめての考古学」を読み終えて、改めて著者の略歴を知ろうと検索したら、まさに昨日、彼が死亡したことを知った。
僕より10歳も若い。なんということだろう。youtubeでも懐かしさを感じる伊予弁で話していたが。
「弥生、古墳時代の研究で知られた国立歴史民俗博物館教授で、考古学者の松木武彦(まつぎ・たけひこ)さんが21日午前、がんのため岡山市の病院で死去した。62歳。 愛媛県出身。」
2024年9月17日 (火)
無知のヴェールと文殊信仰
自分や相手の社会的背景を隠す無知のヴェールをかぶって初めて、公正な判断が下せるとロールズは思った。これは認識の問題である。
自分を救いに来る仏は貧困、病気、被差別などに身を窶して現れると説くのは文殊信仰である。
ここでは無知のヴェールをかぶって人に接することが救われるためには必要という方法論が述べられている。
偏見から自由になることが、社会を変える最初の一歩だということになるだろう。
西川美和監督 役所広司主演「すばらしき世界」
チェコ映画の方で僕は初めてハバ・アルバースタインがイディッシュ語で歌うクレズマー音楽を知り、しばらくそればかり聴いていた。
しかし、どちらも人生の悲惨さを描いているので、それをなぜ「すばらしき」世界というのかが疑問となる。
日本映画についての答えは映画の最後に明示されている。主人公の死後、カメラは彼のアパート前に支援者5人が立ち尽くすのを俯瞰しながらぐんぐん上にあがって行き、広い空に至ってようやく文字としての題名が現れて映画が終わる。これは昇天する主人公の魂が認識した言葉なのかもしれない。
つまり、どんな悲惨な人生でもそこに依存に応えてくれる支援者が存在すれば、すばらしき世界に変わりうるのである。
チェコ映画では、主人公は第二次世界大戦によってほとんど全ての人間関係を失うが、唯一、双方死んでしまった妻と他の男との間に生まれた幼子のみが彼の手に残る。
悲しみの深い中にあっても、自分に依存してくれる存在を得れば、そこはすばらしき世界なのだ。
どんなに喪失ばかり続いても、最後に相互依存やケアの関係が残れば、それでも「すばらしき世界」と認識されるのである。
西川美和監督「すばらしき世界」の最後のあたり、主人公の男が泣きながら自転車で帰宅している途中、離婚してすでに再婚もして子どももいる女性から電話がかかるシーンはその一例である。
彼が最近ようやく購入した携帯電話の番号は、福祉事務所や職場は知っているとしても、その女性が知るには障壁が多すぎるからリアリティを疑わせる展開である。
とすれば、この和解のシーンは男が死の間際に見た幻覚でしかありえない。そこを説明もなく描写する方法が「信頼できない語り手」の手法ではないのだろうか。
それから、この映画では主人公が3回泣き崩れるがその都度意味が違う。このあたりも技巧的だなと思うところである。
2024年9月13日 (金)
達人降臨について
もう2年くらい前になるが沖縄協同病院の小松知己先生のアルコール依存についての講義をみんなで聴くことができたのは、山口民医連の医療を一新することとなった。
本質的ではないごく小さなことでは、入院時の臨時指示における睡眠導入剤やせん妄対策薬剤が一変した。
ゾピクロンでなくデエビゴになったし、リスパダールかセレネース一辺倒だったのが、ラメルテオン+リスペリドン+抑肝散、場合によってはロナセンテープへ。
今年も、病院の景色がその後一変するような臨床の達人の講義を計画したい。達人の皆さん、連絡してください。
とはいうものの、小松先生に講義を依頼したのは、アルコール依存への姿勢について患者の生命にも関わるような抜き差しならない対立が院内に顕在化してきたからであり、そういう問題意識を持たなければどんな達人も降臨してこないのである。
必要なのは問題意識。
そこが教養主義的な「○○講座」とは決定的に違う。
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