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2024年8月23日 (金)

「自己」を探る クリストファー・ダウリック

細かなところはよく分からないが一応序文だけは訳してみた。序文が頭に入っていないと、本文が読めない仕組みのようなので。誰か訳して出版してくれないかな。


https://www.routledge.com/Person-centred-Primary-Care-Searching-for-the-Self/Dowrick/p/book/9780367885786?srsltid=AfmBOooWag2b0gpmZEQMuLRHFlQkfHd9sJzN9shsaMpEtnvL_jt7E82n


なぜプライマリ・ケアには「自己」の理論が必要なのか

「途切れることのない包括的な人間中心のケア」という視点を持ったプライマリ・ケアは、身近にあってかつ効果的な医療を世界中に届けるという巨大な意義を持っている。総合医や家庭医からなるプライマリ・ケアの専門家は、共同意思決定や自己管理強化という患者との「協働」で勇気づけられる。これは、患者も医師も自分なりの選択や決定ができ、それぞれの置かれた条件で行動する力もある主体性と能力の持ち主だということを前提としている。

しかし、これらの前提には疑問がある。現代のプライマリ・ケアにはそれらを否定する多くの要因がある。プライマリ・ケアをまさに呑み込もうとしている巨大な政治経済的な変化は診察中の患者と医師の双方の自己感覚を強い圧力で押しつぶしている。


この本では、これらの疑問と圧力を探っていき、「生きている自己」の明確な理論をもとに解決法を提案する。私達の主張は、医師にとっても患者にとっても自己感覚がいま深刻な脅威にさらされていること、すぐにでも対処が必要なこと、自己に関する新しい概念を作り上げることが人間中心の医療の中心的教義を復活させようとするときに必須なものだということになるだろう。


私達の意図は単純なようで深くもある。プライマリ・ケアの中で「自己」が中心に座ることを主張する主な動機は、人々を希望にと呼び込み、現代医療で疲弊した人々を励まし、総合診療医のもつ大義の基礎を提供することだ。


午後の外来

しばらく晴れた日の月曜の午後外来を始めた家庭医になった気分で読んでほしい。土日はリラックスし、エネルギーが全身に満ちている感じで、患者が投げる球をただ打ち返すだけでなく、そのとき自分のしていることについて客観的に考える精神的余裕もある。


最初の患者はイーディス・ブラウン71歳、娘のエマと一緒に来た。いくつか慢性疾患があり、持続性疼痛もある。最近、肺炎で入院した。専門医は心臓の負担を軽くするために利尿剤を処方した。しかし、本人は外出時トイレを探すことになって困るので服用したがらない。病院の医者はちゃんと聴いてくれないと思い、自由を失いたくない。あなたとしては先週の外来の医師になぜそれを言わなかったか訝しかったし、利尿剤についてどうしろといえばいいか迷う。自由は健康より重要なのか?


二番目の患者はフレッド、46歳。失業中で二人のティーンエージャーのシングル・ファーザー。前回の受診は2週間前で、「くたびれ切った」と言っていた。そのとき質問紙法でうつ病かどうかをスクリーニングさせてもらうことにし、血圧を測り、血液検査もオーダーした。今日は、うつ病のようだ、そして「前糖尿病状態」だということも言わないといけない。フレッドに何を言うか迷う。新しい診断名を二つも告げ、それぞれの治療を提案すべきだろうか。それはすでにお手上げの彼の人生に更に重荷を追加することというだけではないだろうか。

 

次の患者さんは産婦人科的な問題を持つ女性。骨盤診察を行ない、一緒に管理プランを立て、うまく行っている感に満足する。その時、電カルに喫煙の記録を求める点滅を見つけてしまう。少しイラッと来るのを自覚しながら、ディスプレーを指差しながら、「こいつが、タバコを吸っているかどうか訊けと言ってくるんだけど」本当は関わりたくない、きょうの診察に関係ないし。しかし、電カルが点滅すれば言わざるを得ない。誰が診察の主体なんだ?と不平をひとりごちる。


それからミリーが到着する。70代の女性。支配的な母親と長年暮らしている。主治医が留学中のあいだ、あなたの外来に数回予約した。その診察はとりとめもなく、どうというものではなかった。あなたが自分自身に残酷なまで正直だったら、主治医が帰ってくるまでそれをダラダラ続ければ良かった。今日の主目的は割当の10分間だけ彼女をドアのなかに招き入れるだけだった。しかし、ミリーは突然椅子から立ち上がり、クルッと回ってあなたの膝の上に腰を下ろした。あなたは動転した。そんな事をした患者はこれまでなかった。あなたの目論見ははじけて、診察を最初からやり直すしかない。


幸いに、次の患者は予約をキャンセルした。紅茶とジンジャービスケットで気を持ち直す数分を確保できた。


サイード夫人は80代後半、娘のアマルに連れられてくる。アマルは次第に母の世話をするのが難しくなったと思っている。母の認知症は軽度だが、悪化しつつある。同じ質問を何度も何度も繰り返し、答えは記憶できない。本当は数年前に死んだ夫が行方不明になったと思いこんで苦しんでいる。アマルは、母はもう昔の母ではないと言う。まるで母が行方不明になったようだ。しばらくアマルの言葉を繰り返す。もちろん目の前に見えるのだからサイード夫人は行方不明にはなっていない。おそらくアマルは母のなにか本質的なもの、母が人間であるという感じが消えていると言っているのだ。それは、この診察の中で議論できたりすべきことなのだろうか?


それからケンが風のように、というよりゼイゼイ言う風の中でやってくる。定期投薬日だからである。長い患者。67歳。造船工だったが、今では重症の慢性肺疾患。聴診し、打診し、生活ぶりを確かめる。ついにタバコを止めたと言う。しかしまだウイスキーはたっぷり飲んでいる。禁煙成功を祝う。それからちょっと黙りこむ。アルコール許容量についての最新の勧奨をここで持ちだすべきだろうか?


だいたい今日の終わりが見えてきたとあなたは思う。それから午後診療をしている間に溜まっていた血液検査の山やメールを片付け始める。そのとき受付の電話がなり、急患が来てすぐ見てもらいたいと言っているという話。あなたの等級付では最悪の部類である。ヘザーはドアまで歩いてくる。座り込むと「とっても気分悪い」とささやくように言い、泣き出す。ミリーでの経験で鍛えられているので、なんとか書類の山を横において、目の前の人物に気持ちの全部を向ける。


「自己」を脅かすもの


これらの人々にはこの本のあとのほうで繰り返し出会う。この本の重要なテーマを議論するためのモデルだからである。


医者であろうと患者であろうと、「自己」はあらゆる方向から脅かされている。苦痛が患者の生活や生命に及ぼす影響、プライマリ・ケアをめぐる政治的・制度的変化、診察行為におけるテクノロジーと生物学の過大な位置づけ、還元論的科学パラダイムの暗黙の押しつけ。医師も患者も次第に官僚的でルーチン化されたやり方に支配されつつある。臨床疫学からのエビデンスはガイドライン群から医療評価指標(インジケーター)に変身させられる。


私達が診る患者の自己感覚もその日常経験の苦しみに深刻な影響を受けている可能性がある。社会経済的貧困の挽き臼に日々すり減らされることの腐食作用、いつまでも続くDVによる生命の粉砕効果、人生を一変させる深刻な病気、差し迫る死と直面することの破滅的成り行き。


これらの問題に向き合おうとする私達の努力にもかかわらず、人間中心の医療は次第に実行困難になりつつある。プライマリ・ケアを膨大な臨床ガイドライン、公衆衛生上の課題に適応させようとする圧力は、それら全部が正しい意図から出ているものだとしても、人間中心の医療としばしば摩擦を起こす。人間中心の医療こそ良質な医療経験を保証する刻印なのに。

制度変化が問題をさらに深くする。医療機関が大きくなるほど、ケアの継続性、きまった拠点で同じ医師に会う機会は小さくなる。イギリスにおける現在の総合診療の人材危機あ、患者のニーズを満たしてくれる医師のあまりの少なさもあいまって、ケアにおける最小限の個別対策も提供しにくくなっている。サリー・ハルとジョージ・ハルは、イーディス・ブラウンのような患者も含めて、患者と総合診療医は「認識論」(知識の枠組み論)の欠陥に苦しんでいると論じている。専門家の知見と官僚的なやり方が横行している医療システムのいまの重点は、患者からの情報が不当に蔑視される状態、および総合診療医が自分たちの専門的能力の意義を自覚する「解釈論」(意味生成論)的資源を得られない状態を引き起こしている。

プライマリ・ケアにおける診察は何世代にもわたって医師と患者の個人的接触の不可欠な手段とみなされていたが、いまやコンピューターという名の技術の力に支配されている。デボラ・スゥイングルハーストは自分が担当した章で説明しているようにコンピュータは余計な声を響かせ、私達の注意をいつまでもけたたましく要求してくると説明している。私たちの診察行為の中で増えているのは電話その他のデヴァイスによる遠隔診療だ。これはアクセス対象との接触を増やしてくれるが、患者との治療的関わりの機会は結局減らしてしまう。学部生の場合にしろ卒後のトレーニングにしろ医学教育というものは、人間であるとはどういうことか、何が「自己」を形成するかという問題については語ることが殆どない。家庭医はこの真空を隠喩と、還元論的科学パラダイムから引き出した説明行為で満たす。総合診療実践に関する研究は、私達が患者を受動的な機械装置、病気をパズルとみなし、自分を問題解決者、疾患管理者と考える傾向に染まっていることを示唆している。この視点は総合医が多忙な診療時間のなかでスピードを上げるのをより容易にするが、そそれは完全に私たちのセルフ-ケアと協働についての麗々しい公約に反する。ステファン・ヒヨルライフソンとケルスティ・レア(両者ともノルウエー ベルゲン大学)は、私達はフレッドのような患者の問題を生物学的あるいは生物誌的に解釈するのを好みがちで、その結果、過剰診断や、正常な人間の苦悩を医療化することに陥りやすいと主張している。


「自己」の探求


これらの問題の解決は社会経済的、政治的、制度的な変化のなかに置かれている。貧困、生活水準低下、薬物乱用の問題は診察室の中では解決できないが、より広い構造的なアプローチを求めている。しかし、患者と医師の双方にとっての「自己感覚」の回復は、純粋に人間中心的なプライマリ・ケアに実践的なリアリティをもたせるために必須の前提条件だと私達は考える(ダウリックら、2016年)

この本の後半で、「活動的な自己」に関する諸見解が根拠付けられる理論と概念の組み合わせを提案する。私達は健康や医療に関する2つの主要な問題に注目することから始める。第一は社会-政治的なものであり、全体論的な健康問題へのアプローチの出現である。二番目は医学的思考の物理主義的指向に関わる。アイオナ・ヒースによれば、「自己」とは全人生にわたって築かれる主体としての経験の保持者であり、その経験を形成し影響付ける能力の主体である。工業的な医療の容赦ない圧力はミリーのような患者や、彼女の治療を探求する医師の主体性を脅かしている。ヒースが私達に気付かせてくれるのは、苦痛の緩和こそが医療実践のコアであり医師と患者という主体間の対話がその実現にとって決定的に重要だということである。そして、サイード夫人のような患者の意識を脳の機能の副産物に過ぎないものとみなす人々と、患者と医師を「自由意志、道徳的責任、及び人間の尊厳」という称号を帯びた道徳上の代理人とみなす人々の間で闘わされる、今日の、しばしば刺々しくもなる論争をデビッド・ミセルブルークが示してみせる。彼が主張するのは、人間性の全部と道徳的責任を巻き込んでしまう、意識に関する「強い存在論」である。


クリストファー・ダウリックは人生をやり抜こうとする「首尾一貫した人間性」という概念の有用性を検討する。例えば、ケンのような慢性疾患を持った患者について、受肉化された「自己」への気づきを省察する。それは認知症のようなより難しい事例においても「自己」というものを理解する基礎になる。彼は社会的なあるいは孤立した自己、また非-自己と多重な自己、という諸観念を議論し、これらが「診察における心の共有」の概念の基礎となることを示す。最後にジョアン・リーブが、病いへの反応のなかで自己の創造力を解放するにはどうすればよいかを説明する。リーブが提案するのは「創造的自己」モデルである。それは日常的な作業に力を与え、資源と要求のバランスをとり、日常生活の流れを航行していく能力もつけていくというものである。ヘザーのような患者を相手にしながら、病いに着目して個々の治療プランを発展させ適応させるには卓越した総合医はどうすればいいのかを描き出し、ここ数年は視野から外れ死角に入り込むことを見逃されている何かにもう一度焦点を当てることを主張する。


プロセス


この本を読み進めていただくなかで、ミハイル・バフチン、ジグムント・バウマン、ハヴィ・カレル、デヴィッド・チャーマーズ、ミランダ・フリッカー、ゲーレン・ストローソン、チャールズ・テイラーなどの、主要な現代思想家を紹介する、あるいは思い出していただくことになる。実例を

秘密保持のため修正した連続エピソードや臨床シナリオを用い、患者や医師の「自己感覚」を強化するセオリーや概念がどんなものか、それにそった治療的対話の改善がどうなされていくか示したい。章ごとにフルセットの参考文献を示し、全冊にわたって現れる社会学的・哲学的な主要なテクニカル・タームのための用語集も準備している。

各章は執筆者の考えによるが、それぞれ結び付けられてもいる。この本を創る過程で、執筆者はシンポジウム、ワークショップで会って、アイデアを練った。それぞれの寄稿は真剣に相互点検した。どの章も最低2人の外部査読者が付いた。

個人の特性概念、「徳倫理学」の理念などのテーマが繰り返されるのに気づかれるだろう。プライマリ・ケアの診察における圧力や緊張について注目し、生物学と生活誌のバランス、社会システムと個人のバランスについても言及する。

ある部分では同意を得られないだろう。特に「自己」という言葉で何を意味しようとしているか我々が互いに探っているときは特にそうだ。我々のうち何人かにとってそれはすべりやすく、捉えどころがないが、他の幾人かにとってははっきりと輪郭があるもので明白なものである。

このことについては心配していない。「自己」性の真実を確立したいわけではない。その変わりやすい実体が何であっても。私達の望みはプライマリ・ヘルス・ケアにとって決定的に重要な概念である「自己」についての省察、議論、論争を活発にすることである。それは私達が差し迫る絶滅の危機にいる、視界から完全に消える危険のなかにいるという概念である。

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2024年8月22日 (木)

燃え尽きについて

今朝は自分の燃え尽きをはっきり自覚する。
可能な範囲内で嫌なことはしないことにする。
医局の朝会も当直医報告だけ聞いて、その後は省略。
誰も不急の用で話かけて来なければいいなぁ。
しかし不急かどうかは相手の判断による。

省エネルギーモードで、患者呼び込みから実際に患者さんが入ってくるまでは閉眼しておくことにしたが、実際に眠ってしまったぜ。「先生」と付添の人に声をかけられて目がさめた。

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中村 哲講演会

中村 哲については、彼が資金を得るため我慢してやっていた講演会と小さな文庫本とTV報道でしか知らない。

宇部市での講演会で、彼の講演内容はそっちのけで持論を述べ続ける高齢質問者が現れ、それに中村は辛抱強く答えていたが、彼がさらに質問を重ねようとした時、それは自分の周りの方と話し合われたらどうでしょうと微かな苛立ちを露わにしたのが記憶に残っている。時々帰る日本での日々はそんなものだったのだろう。

こんなつまらないことを言うのは、実は、いま東京一極集中によって疲弊した地方に住む僕たちには、遠いアフガンまで行かなくても中村 哲になる幸運が開けたと言いたかったためである。

特に地域福祉室を開設して以来、底なしの貧困と不幸に直面させられることが増えた。
仕事が、これまでのカテゴリーでいうと医療というより社会事業に、それも居抜きの形で変わった気がする。

若い頃は居抜きでレーニンになりたかったが、それは到底適わなかったのに、年取って中村 哲への道は見えて来た。
🐜と人間ほどの差はあるのだろうけど、民医連医師の可能性と生きがいのこの変化は指摘しておきたいので、こんなことを書いてみた。

その上で、日本で活動する間の最大の努力目標は自己中心的な人々との付き合い方の会得であることを付言したい。

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2024年8月19日 (月)

ローカル政治新聞への寄稿 草稿

以下は 僕が書き続けているブログの中の2009年の記事である。字数制限のため改変してある。

『高校1年の時、早稲田大学に進学した先輩たちの企画で同大学教授の講演を聞く夕べがあった。大学の宣伝だったのだろうが、「講演」というものを聴く最初の経験となった。

教授の名は忘れたが、憶えているのは、1600年ローマの宗教裁判所により火刑に処されたジョルダーノ・ブルーノという地動説の先駆者と、彼の購入した外套をめぐる短編小説のあらすじである。
8年間の苛酷な宗教裁判が始まる少し前、ブルーノは外套を仕立て屋に作らせ、まだ代金を払っていなかった。貧しい仕立て屋夫婦のうち、ブルーノが誰かを知る夫は諦めるが、そうでない妻は裁判所に猛烈な抗議をする。ブルーノもずっとそれを気にかけ八方手を尽くすがうまく行かない。首都に護送される朝ようやく 小柄で誰にも回しようもない外套が返される。使者は夫に真冬に長途をいく今こそ外套が必要だったのにと語る。妻はそれを立ち聞きして何か思う。

この話は私に強烈な印象を残した。しかし、どういう作品かわからず、ゴーゴリ『外套』を(違う)と思いながら読んだり、ブルーノの伝記を調べることしかできなかった。 

ところが、つい昨日、偶然に加藤周一の小編を集めた『小さな花』の中にブレヒト作・加藤周一翻訳の短編「異端者の外套」を見つけたのだった。初出は1956年1月、雑誌「群像」。上記の教授もそれを読んだのかもしれない。この短編も含まれるブレヒトの作品集一冊をいつか訳すつもりだと加藤さんは書いているが、その計画は実行されなかった。

読み終えて少し気をつけねばならないことがあるように思えた。
多くの人は自分をジョルダーノ・ブルーノに重ね合わせて読んでしまう。大義を抱えていても目の前の小さな苦しみに誠実でなければならないと。

それでいいのだろうか?重ね合わさねばならないのは、むしろ仕立て屋の妻なのだろう。ことの本質を見抜けず、迫害される正しい人を責め立てる庶民が僕なのだ。』

これを取り上げるのは、この記事に意外かつ突然のコメントが15年の時間を隔ててやってきたからである。
「久しぶりに庄司薫『赤頭巾ちゃん気を付けて』を読み直すとブレヒトの短編に言及があり検索したらこのページに辿り着いた。ありがとう」とあった。

こうして人がつながることが奇跡に思える今日このごろ。

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