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2024年7月25日 (木)

ローカル政治新聞への寄稿下書き

 「医療機関としてできる範囲の」という制約を取っ払って、限界を定めない困窮者支援を始めてみると、見えてきたのは崩壊していく地方都市に広がる底なしの貧困である。しかし、それに埋没する日々が続くと、「気づけば手遅れ」という地球規模の事態への怖れが改めて湧いてくる。

 率直に言うと、人間の大量死への実感の問題になるのだろう。2万人以上が亡くなった2011年の東日本大震災にあたって比較的早く被災地に入ったつもりだったが、死はすでに隔離されており、直接目にすることはなかった。

 直接的経験ではなくても、過去の事件の追体験か、事件の再解釈こそがいま求められている気がする。事件はもう起こったことで必然、不可避のこととしか見えないが、どこかで回避できる可能性はあったはずと考え直すことが出来るのであれば、気候危機対策が見えてくるのではないか。これほど切迫しながら何も行動が起きない現在が、必然で不可避の大量死の未来に直線的につながっているのを変えるヒントがそこにある。そのためにも、過去の事件を実際に起こったこととして「実感」しておくことが前提となる。

 この一年で二つ、特別の節目があった。
 一つは、ずっと読み進めている韓国の小説家ハン・ガンの新しい作品である。すでに光州事件を取り上げた『少年が来る』でも、軍に虐殺された青年たちの死体がやぐらのように積み上げて腐らされ焼かれる恐ろしいシーンがあったが、済州島事件を扱う最新作『別れを告げない』でもそれに匹敵する場面がある。済州島中山間部の国民学校の校庭に集められた無数の死体に雪が降り積もる。雪は顔の皮膚に触れても溶けることがない。芸北の豪雪に親しんだ自分の子供時代の思い出と一瞬で一つになって、大量死の実在を想像することが出来た。

 もう一つは、昨年の85日の猛暑の夕方に、広島市立己斐小学校を案内してくれた川本隆史さんが何気なく行った一言である。原爆の後、谷間の底の小学校の校庭に集められて焼かれた数千の死体の臭いは夜になってさらに濃くなった。臭いに誘われて山から野犬が現れ、群れをなして斜面を降りて来た。それを聞いた時、初めてごく普通の校庭の風景が別の姿に変わって見えたのだった。
 
 その上で、僕らにいま必要なのは、ただ「戦争はだめだ」というにとどまらず、それを過去の何らかの行動で変えることが出来たものとして考えることである。

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