人間中心の医療(1)
イギリスにいるDowrickという人の「Person-centered primary care」という本があって、藤沼先生も度々引用しているようなので、読んでみようとしたが、なかなか頭に入ってこない。
序文のところの逐語訳を個人的メモとしてここに貼り付けておく。まず、この部分を記憶しておかないと先に進めそうにないからである。
なぜプライマリ・ケアには「自己」(藤沼先生はこれを「主体」と訳している)の理論が必要なのか (1)
「きれめなく包括的な人間中心のケア」という視点に基づくプライマリ・ケアは、世界中に身近で効果的な医療を届けるという巨大な意義を持っている。総合医や家庭医からなるプライマリ・ケアの専門家は、意思決定共有や自己管理強化を通じての患者との協働で勇気づけられる。このことは、患者も医師も自分なりの選択や決定ができ、それぞれの環境で行動する力もある主体性と能力の持ち主だということを前提としている。
しかし、これらの前提には疑問がある。現代のプライマリ・ケアではそれらを否定する多くの要因がある。プライマリ・ケアをまさに呑み込もうとしている巨大な政治経済的な変化は診察中の患者と医師の双方の自己感覚を強い圧力で押しつぶしている。
この本では、これらの疑問と圧力を探っていき、「生きている自己」の明確な理論をもとに解決法を提案する。私達の主張は、医師にとっても患者にとっても自己感覚がいま深刻な脅威にさらされていること、すぐにでも対処が必要なこと、自己に関する新しい概念を作り上げることが人間中心の医療の中心的教義を復活させようとするときに必須なものだということになるだろう。
私達の意図は単純なようで深くもある。プライマリ・ケアの中で「自己」が中心に座ることを主張する主な動機は、人々を希望にと呼び込み、現代医療で疲弊した人々を励まし、総合診療医のもつ大義の基礎を提供することだ。
午後の外来
しばらく晴れた日の月曜の午後外来を始めた家庭医になった気分で読んでほしい。土日はリラックスし、エネルギーが全身に満ちている感じで、患者が投げる球をただ打ち返すだけでなく、そのとき自分のしていることについて客観的に考える精神的余裕もある。
最初の患者はイーディス・ブラウン71歳、娘のエマと一緒に来た。いくつか慢性疾患があり、持続性疼痛もある。最近、肺炎で入院した。専門医は心臓の負担を軽くするために利尿剤を処方した。しかし、本人は外出時トイレを探すことになって困るので服用したがらない。病院の医者はちゃんと聴いてくれないと思い、自由を失いたくない。あなたとしては先週の外来の医師になぜそれを言わなかったか訝しかったし、利尿剤についてどうしろといえばいいか迷う。自由は健康より重要なのか?
二番目の患者はフレッド、46歳。失業中で二人のティーンエージャーのシングル・ファーザー。前回の受診は2週間前で、「くたびれ切った」と言っていた。そのとき質問紙法でうつ病かどうかをスクリーニングさせてもらうことにし、血圧を測り、血液検査もオーダーした。今日は、うつ病の診断、そして「前糖尿病状態」だということも言わないといけない。フレッドに何を言うか迷う。新しい診断名を二つも告げ、それぞれの治療を提案すべきだろうか。それはすでにお手上げ状態の彼の人生に更に重荷を追加することというだけではないだろうか。
次の患者さんは産婦人科的な問題を持つ女性。骨盤診察を行ない、一緒に管理プランを立て、うまく行っている感に満足する。その時、電カルに喫煙の記録を求める点滅を見つけてしまう。少しイラッと来るのを自覚しながら、ディスプレーを指差しながら、「こいつが、あんたがタバコを吸っているかどうか訊けと言ってくるんだけど」本当は関わりたくない、きょうの診察に関係ないし。しかし、電カルが点滅すれば言わざるを得ない。誰が診察の主体なんだ?と不平をひとりごちる。
それからミリーが到着する。70代の女性。支配的な母親と長年暮らしている。主治医が留学中のあいだ、あなたの外来に数回予約した。その診察はとりとめもなく、どうというものではなかった。あなたが自分自身に残酷なまで正直だったら、主治医が帰ってくるまでそれをダラダラ続ければ良かった。今日の主目的は割当の10分間だけ彼女をドアのなかに招き入れるだけだった。しかし、ミリーは突然椅子から立ち上がり、クルッと回ってあなたの膝の上に腰を下ろした。あなたは動転した。そんな事をした患者はこれまでなかった。あなたの目論見ははじけて、診察を最初からやり直すしかない。
幸いに、次の患者は予約をキャンセルした。紅茶とジンジャービスケットで気を持ち直す数分を確保できた。
サイード夫人は80代後半、娘のアマルに連れられてくる。アマルは次第に母の世話をするのが難しくなったと思っている。母の認知症は軽度だが、悪化しつつある。同じ質問を何度も何度も繰り返し、答えは記憶できない。本当は数年前に死んだ夫が行方不明になったと思いこんで苦しんでいる。アマルは、母はもう昔の母ではないと言う。まるで母が行方不明になったようだ。しばらくアマルの言葉を繰り返す。もちろん目の前に見えるのだからサイード夫人は行方不明にはなっていない。おそらくアマルは母のなにか本質的なもの、母が人間であるという感じが消えていると言っているのだ。それは、この診察の中で議論できたりすべきことなのだろうか?
それからケンが風のように、というよりゼイゼイ言う風の中でやってくる。定期投薬日だからである。長い患者。67歳。造船工だったが、今では重症の慢性肺疾患。聴診し、打診し、生活ぶりを確かめる。ついにタバコを止めたと言う。しかしまだウイスキーはたっぷり飲んでいる。禁煙成功を祝う。それからちょっと黙りこむ。アルコール許容量についての最新の勧奨をここで持ちだすべきだろうか?
この辺でだいたい今日の終わりが見えてきたとあなたは思う。それから午後診療をしている間に溜まっていた血液検査結果の山やメールを片付け始める。そのとき受付の電話がなり、急患が来てすぐ見てもらいたいと言っているという話。あなたの等級付では最悪の部類の患者である。ヘザーはドアまで歩いてくる。座り込むと「とっても気分悪い」とささやくように言い、泣き出す。ミリーでの経験で鍛えられているので、なんとか書類の山を横において、目の前の人に気持ちの全集中する。
「自己」を脅かすもの
これらの人々にはこの本のあとのほうで繰り返し出会う。この本の重要なテーマを議論するためのモデルだからである。
医者であろうと患者であろうと、「自己」はあらゆる方向から脅かされている。苦痛が患者の生活や生命に及ぼす影響、プライマリ・ケアをめぐる政治的・制度的変化、診察行為におけるテクノロジーと生物学の過大な位置づけ、還元論的科学パラダイムの暗黙の押しつけ。医師も患者も次第に官僚的でルーチン化されたやり方に支配されつつある。臨床疫学からのエビデンスはガイドライン群から医療評価指標(インジケーター)に変身させられる。
私達が診る患者の自己感覚もその日常経験の苦しみに深刻な影響を受けている可能性がある。社会経済的貧困の挽き臼に日々すり減らされることの腐食作用、いつまでも続くDVによる生命の粉砕効果、人生を一変させる深刻な病気、差し迫る死と直面することの破滅的成り行き。
これらの問題に向き合おうとする私達の努力にもかかわらず、人間中心の医療は次第に実行困難になりつつある。プライマリ・ケアを膨大な臨床ガイドライン、公衆衛生上の課題に適応させようとする圧力は、それら全部が正しい意図から出ているものだとしても、人間中心の医療としばしば摩擦を起こす。人間中心の医療こそ良質な医療経験を保証する刻印なのに。
制度変化が問題をさらに深くする。医療機関が大きくなるほど、ケアの継続性、きまった拠点で同じ医師に会う機会は小さくなる。イギリスにおける現在の総合診療の人材危機は、患者のニーズを満たしてくれる医師のあまりの少なさもあいまって、ケアにおける最小限の個別対策も提供しにくくなっている。サリー・ハルとジョージ・ハルは、イーディス・ブラウンのような患者も含めて、患者と総合診療医は「認識論」(知識の枠組み論)の欠陥に苦しんでいると論じている。専門家の知見と官僚的なやり方が横行している医療システムのいまの骨格は、患者からの情報が不当に蔑視される状態、および総合診療医が自分たちの専門的能力の意義を自覚する「解釈論」(意味生成論)的資源を得られない状態を引き起こしている。
プライマリ・ケアにおける診察、何世代にもわたって医師と患者の個人的接触の不可欠な手段とみなされていたが、いまやコンピューターという名の技術革新に支配されている。デボラ・スゥイングルハーストが担当した章で説明しているようにコンピュータは余計な声を響かせ、私達の注意をいつまでもけたたましく要求してくる。(続く)
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