« 2024年6月 | トップページ | 2024年8月 »

2024年7月31日 (水)

2024.7.31 山口民医連理事会挨拶

記録破りの凶暴な猛暑の中、理事会参加ご苦労さまです。情勢は目まぐるしく変わっていて、何を取り上げていいかわからないくらいテーマがあります。
その多くは第一回評議員会の議案に譲りたいと思います。

ここではごく限られたこと、私たち自身が真剣に変わらないと未来がなくなっていることについて触れたいと思います。

その前に、新型コロナは11波と呼ばれる大きな流行を見せています。5類になったのでもう制度的な支援は要求できないという自縄自縛に陥らないことが大切です。患者にとっての治療薬の高さ、引き受ける病院の経営的被害については、緊急に交渉すべきことです。
10月から始まるワクチンについても、分からないこと何多過ぎます自己負担を軽くすることが必要です。これらについては、7月30日のしんぶん赤旗の高山義浩医師インタビューが要領が良いので、資料として添付しました。ざっとで読んでおいて下さい。

そこで、私たちが一人一人が変わらない限り、現状を突破するとができないどう思えることがらを二つ挙げておきたいどう思います。

一つは医師対策です。医学生委員会の報告を読むと、一度でも繋がった学生は結構多い。ステレオタイプな感じだけど社会的関心を示す人もいないわけではない。例えば山口市の「こども明日花プロジェクト」の企画に頻繁に顔を出している人がいます。子ども食堂や無料塾活動の老舗ですね。
そこでこの学生は民医連に親和性が高いと診断されている。ですが、結局は連絡が切れている。

山口市の明日花プロジェクトについては、7月27日に医療生協山口市事務所の企画「山口塾」で、創始者の児玉頼幸さんから話しを聞きました。
最年長の私自身が初耳だったので、職員の皆さんがこれについて詳しく、さっきの学生と深い話ができる見込みはまずないどう思います。
つまり、学生がふつうに持つだろう社会的関心の受け皿に職員がなるというのには、相当掛け離れた実態にあるということです。これで、医学生との交流がどう図れるというのでしょうか。私たちが変わらなければ、と思う第一点はこれです。

第二点目は経営です。全日本民医連第1回評議員会方針においても最大限の強調がなされていました。民医連全体として大きな経営危機か訪れており、山口も例外ではありません。
7月30日の朝会報告に添付されていた退職予定者名簿をみて驚いた人は多いと思います。それぞれの事業所の大黒柱が一斉に途中退職します。壮年の診療所長もその中にいます。
これを見て、県連の崩壊はもう始まっている、それは避けられないと思う人が出てきても不思議ではありません。
危機はすでに現実だと思う必要があります。

こういう時に人は何をすると思いますか。
現実に向かい合わないで、不要不急のルーティン作業に埋没するのです。それで忙しそうにして、部下に向かい合わない。
ルーティンは放っておいてもこれまでとは違うことに挑むべきです。
約3年前に、私は医療生協理事長を辞めることが決まっているときに、地域福祉室の創設に踏み切りました。意義を理解してくれる人はほんの一握りでしたが、専門的で、かつ捨て身のソーシャル・ワークをしないと地域住民の深い支持は獲得できず、今、私たちが目の前に見ているこの危機が避けられないと思ったからです。
それでも危機は来た。それは変え方が足りなかったからです。
破滅的な未来をきちんと予想しながらそうならないための現在にしていく努力が今こそ求められています。
それは職種を超えて共通することもあれば、全く違うこともあります。医師について言えば、最近、藤沼康樹先生が新しい本を書き、日本の家庭医療学のあり方を一変させる問題提起をしました。しかし、医局では、私と私に勧められた藤部先生の二人だけがその本を読んでいるに過ぎません。これでは、医療を変えていくことには遠いものがあります。
患者の要求、地域の要求に徹底的に向かいあって行動するとはどういうことか、みなさん本当は分かってあるはずです。一例としてごく細かいことをいうと、患者送迎は要求に沿っているでしょうか。どうかぜひ行動を始めて下さい。県連を解散するという未来を避けられないものにしないため、今は何をしたらいいのか?

最後に 昨日、働くものの命と健康を守る山口センター(通称労安センター)の理事会で聞いたことを話したいと思います。20年前の1993年度の在籍者数と比べると、特別支援学校または特別支援学級に通う小学校段階の児童は2.1倍、中学校段階の生徒は1.9倍になっています。「通級」といって、籍は普通学級に置きながら、特別支援学級にも顔を出す子どもは25倍です。少子化が目に見えて進む中でこの変化は驚くべきものですが、タブー化されているのか。あまり語られません。
しかし、この現状が到達する未来を見据えて、今をどう変えるがという点では上に述べたことと同じです。
今日は評議員会方針議論が中心ですが、熱心なご議論をよろしくお願いします。

 

*参考に 

基本的に 知的障害・発達障害の発生率の増加と、親の選択と、社会からの排除傾向 


【東野裕治(大阪府立羽曳野支援学校校長、大阪府立たまがわ高等支援学校前校長)】(*1)少なくとも、特別支援教育を受ける子どもは増えています。ご存じの通り、子どもの数は減り続けています。文部科学省の資料(令和3年9月27日「特別支援教育の充実について」)では、義務教育段階の子どもの数は、2009年度に1074万人だったのが、2019年度には973万人。10年間で9.4%の減少です〔取材時(2022年8月)の最新データ〕。
一方で、「特別支援教育」を受ける子どもの数は、同じ時期に25万1000人から48万6000人と、約2倍になっているんです。
【黒坂】発達障害の子どもの場合、普通校で「通級による指導」を受けていたり、支援学級に在籍していたりすることが多いとうかがいました。ただし、知的障害を伴う場合には特別支援学校を選ぶこともある、と。
東野】はい。「通級による指導」や支援学級は、この10年で、それぞれ2倍ほどの人数になりましたが、その内訳を見ると、ADHDや学習障害、ASDが増えているんですね。特別支援学校に通う子どもも10年で1.2倍ほどになりましたが、大きく増えたのは知的障害と自閉症・情緒障害です。ですから、これらの数字だけを見ると、「発達障害の子が増えている」ように見えます。しかし、そう単純に言い切れないと思います。
【黒坂】なぜですか?
【東野】それは、より充実した「教育サービス」を求めて特別支援学校を選ぶ保護者が増えているからです。あとは、やっぱり世間が厳しくなったからだと思います。
【黒坂】世間が厳しくなったというと……。
【東野】昔は「ちょっと変わった子」が周りにいるのは、許容範囲のうちでした。「ダメな子」がいても、ごまめ(小魚を意味する方言)みたいな扱いで、みんな一緒に遊び、育ったものです。大きくなってからも、農作業の手伝いなど、地域のなかで何かしら役割が与えられていたと思います。だから、あまり問題にならなかったのでしょう。
黒坂】なるほど。統計の数字を見るだけではわからないことがありますね。発達障害などを理由に特別支援教育を選ぶ子は統計上、確かに増えている。だからといって、発達障害そのものが増えているとは言い切れない。

| | コメント (0)

2024年7月29日 (月)

人間中心の医療(1)

イギリスにいるDowrickという人の「Person-centered primary care」という本があって、藤沼先生も度々引用しているようなので、読んでみようとしたが、なかなか頭に入ってこない。

序文のところの逐語訳を個人的メモとしてここに貼り付けておく。まず、この部分を記憶しておかないと先に進めそうにないからである。

なぜプライマリ・ケアには「自己」(藤沼先生はこれを「主体」と訳している)の理論が必要なのか (1)

「きれめなく包括的な人間中心のケア」という視点に基づくプライマリ・ケアは、世界中に身近で効果的な医療を届けるという巨大な意義を持っている。総合医や家庭医からなるプライマリ・ケアの専門家は、意思決定共有や自己管理強化を通じての患者との協働で勇気づけられる。このことは、患者も医師も自分なりの選択や決定ができ、それぞれの環境で行動する力もある主体性と能力の持ち主だということを前提としている。
 
しかし、これらの前提には疑問がある。現代のプライマリ・ケアではそれらを否定する多くの要因がある。プライマリ・ケアをまさに呑み込もうとしている巨大な政治経済的な変化は診察中の患者と医師の双方の自己感覚を強い圧力で押しつぶしている。
 
この本では、これらの疑問と圧力を探っていき、「生きている自己」の明確な理論をもとに解決法を提案する。私達の主張は、医師にとっても患者にとっても自己感覚がいま深刻な脅威にさらされていること、すぐにでも対処が必要なこと、自己に関する新しい概念を作り上げることが人間中心の医療の中心的教義を復活させようとするときに必須なものだということになるだろう。

私達の意図は単純なようで深くもある。プライマリ・ケアの中で「自己」が中心に座ることを主張する主な動機は、人々を希望にと呼び込み、現代医療で疲弊した人々を励まし、総合診療医のもつ大義の基礎を提供することだ。

午後の外来
しばらく晴れた日の月曜の午後外来を始めた家庭医になった気分で読んでほしい。土日はリラックスし、エネルギーが全身に満ちている感じで、患者が投げる球をただ打ち返すだけでなく、そのとき自分のしていることについて客観的に考える精神的余裕もある。

最初の患者はイーディス・ブラウン71歳、娘のエマと一緒に来た。いくつか慢性疾患があり、持続性疼痛もある。最近、肺炎で入院した。専門医は心臓の負担を軽くするために利尿剤を処方した。しかし、本人は外出時トイレを探すことになって困るので服用したがらない。病院の医者はちゃんと聴いてくれないと思い、自由を失いたくない。あなたとしては先週の外来の医師になぜそれを言わなかったか訝しかったし、利尿剤についてどうしろといえばいいか迷う。自由は健康より重要なのか?

二番目の患者はフレッド、46歳。失業中で二人のティーンエージャーのシングル・ファーザー。前回の受診は2週間前で、「くたびれ切った」と言っていた。そのとき質問紙法でうつ病かどうかをスクリーニングさせてもらうことにし、血圧を測り、血液検査もオーダーした。今日は、うつ病の診断、そして「前糖尿病状態」だということも言わないといけない。フレッドに何を言うか迷う。新しい診断名を二つも告げ、それぞれの治療を提案すべきだろうか。それはすでにお手上げ状態の彼の人生に更に重荷を追加することというだけではないだろうか。

次の患者さんは産婦人科的な問題を持つ女性。骨盤診察を行ない、一緒に管理プランを立て、うまく行っている感に満足する。その時、電カルに喫煙の記録を求める点滅を見つけてしまう。少しイラッと来るのを自覚しながら、ディスプレーを指差しながら、「こいつが、あんたがタバコを吸っているかどうか訊けと言ってくるんだけど」本当は関わりたくない、きょうの診察に関係ないし。しかし、電カルが点滅すれば言わざるを得ない。誰が診察の主体なんだ?と不平をひとりごちる。

それからミリーが到着する。70代の女性。支配的な母親と長年暮らしている。主治医が留学中のあいだ、あなたの外来に数回予約した。その診察はとりとめもなく、どうというものではなかった。あなたが自分自身に残酷なまで正直だったら、主治医が帰ってくるまでそれをダラダラ続ければ良かった。今日の主目的は割当の10分間だけ彼女をドアのなかに招き入れるだけだった。しかし、ミリーは突然椅子から立ち上がり、クルッと回ってあなたの膝の上に腰を下ろした。あなたは動転した。そんな事をした患者はこれまでなかった。あなたの目論見ははじけて、診察を最初からやり直すしかない。

幸いに、次の患者は予約をキャンセルした。紅茶とジンジャービスケットで気を持ち直す数分を確保できた。

サイード夫人は80代後半、娘のアマルに連れられてくる。アマルは次第に母の世話をするのが難しくなったと思っている。母の認知症は軽度だが、悪化しつつある。同じ質問を何度も何度も繰り返し、答えは記憶できない。本当は数年前に死んだ夫が行方不明になったと思いこんで苦しんでいる。アマルは、母はもう昔の母ではないと言う。まるで母が行方不明になったようだ。しばらくアマルの言葉を繰り返す。もちろん目の前に見えるのだからサイード夫人は行方不明にはなっていない。おそらくアマルは母のなにか本質的なもの、母が人間であるという感じが消えていると言っているのだ。それは、この診察の中で議論できたりすべきことなのだろうか?

それからケンが風のように、というよりゼイゼイ言う風の中でやってくる。定期投薬日だからである。長い患者。67歳。造船工だったが、今では重症の慢性肺疾患。聴診し、打診し、生活ぶりを確かめる。ついにタバコを止めたと言う。しかしまだウイスキーはたっぷり飲んでいる。禁煙成功を祝う。それからちょっと黙りこむ。アルコール許容量についての最新の勧奨をここで持ちだすべきだろうか?

この辺でだいたい今日の終わりが見えてきたとあなたは思う。それから午後診療をしている間に溜まっていた血液検査結果の山やメールを片付け始める。そのとき受付の電話がなり、急患が来てすぐ見てもらいたいと言っているという話。あなたの等級付では最悪の部類の患者である。ヘザーはドアまで歩いてくる。座り込むと「とっても気分悪い」とささやくように言い、泣き出す。ミリーでの経験で鍛えられているので、なんとか書類の山を横において、目の前の人に気持ちの全集中する。

「自己」を脅かすもの

これらの人々にはこの本のあとのほうで繰り返し出会う。この本の重要なテーマを議論するためのモデルだからである。

医者であろうと患者であろうと、「自己」はあらゆる方向から脅かされている。苦痛が患者の生活や生命に及ぼす影響、プライマリ・ケアをめぐる政治的・制度的変化、診察行為におけるテクノロジーと生物学の過大な位置づけ、還元論的科学パラダイムの暗黙の押しつけ。医師も患者も次第に官僚的でルーチン化されたやり方に支配されつつある。臨床疫学からのエビデンスはガイドライン群から医療評価指標(インジケーター)に変身させられる。

私達が診る患者の自己感覚もその日常経験の苦しみに深刻な影響を受けている可能性がある。社会経済的貧困の挽き臼に日々すり減らされることの腐食作用、いつまでも続くDVによる生命の粉砕効果、人生を一変させる深刻な病気、差し迫る死と直面することの破滅的成り行き。

これらの問題に向き合おうとする私達の努力にもかかわらず、人間中心の医療は次第に実行困難になりつつある。プライマリ・ケアを膨大な臨床ガイドライン、公衆衛生上の課題に適応させようとする圧力は、それら全部が正しい意図から出ているものだとしても、人間中心の医療としばしば摩擦を起こす。人間中心の医療こそ良質な医療経験を保証する刻印なのに。
制度変化が問題をさらに深くする。医療機関が大きくなるほど、ケアの継続性、きまった拠点で同じ医師に会う機会は小さくなる。イギリスにおける現在の総合診療の人材危機は、患者のニーズを満たしてくれる医師のあまりの少なさもあいまって、ケアにおける最小限の個別対策も提供しにくくなっている。サリー・ハルとジョージ・ハルは、イーディス・ブラウンのような患者も含めて、患者と総合診療医は「認識論」(知識の枠組み論)の欠陥に苦しんでいると論じている。専門家の知見と官僚的なやり方が横行している医療システムのいまの骨格は、患者からの情報が不当に蔑視される状態、および総合診療医が自分たちの専門的能力の意義を自覚する「解釈論」(意味生成論)的資源を得られない状態を引き起こしている。
プライマリ・ケアにおける診察、何世代にもわたって医師と患者の個人的接触の不可欠な手段とみなされていたが、いまやコンピューターという名の技術革新に支配されている。デボラ・スゥイングルハーストが担当した章で説明しているようにコンピュータは余計な声を響かせ、私達の注意をいつまでもけたたましく要求してくる。(続く)

| | コメント (0)

2024年7月25日 (木)

ヘミングウェイなんて作家はいない

内科学会の生涯教育講演Cセッションをwebで視聴。ここ数年は日常的に世間の医者と会話することがないので、どう話せば医者らしくなるのか不安になる。したがって、医者の講演を聞くのは検査機器でいうと「較正」の意味が大きい。
ちょっとしたテクニカル・タームも発音が違うみたいだ。

これは医学に限らず、あるとき「フェミニズム」という単語が、ある文系の名誉教授に通じなかった。アクセントが違ったらしい。高校生の頃、後輩に、先輩の言う「へミングウェイ」なんて作家はいない、アクセントがあたまにあるヘミングウェイはいるけど、と言われたことを思いだすような出来事であった。

そうはいっても、演者の方が普通からは外れているなぁと思う人が、アレルギーの話で登場。埼玉の人。

| | コメント (0)

ローカル政治新聞への寄稿下書き

 「医療機関としてできる範囲の」という制約を取っ払って、限界を定めない困窮者支援を始めてみると、見えてきたのは崩壊していく地方都市に広がる底なしの貧困である。しかし、それに埋没する日々が続くと、「気づけば手遅れ」という地球規模の事態への怖れが改めて湧いてくる。

 率直に言うと、人間の大量死への実感の問題になるのだろう。2万人以上が亡くなった2011年の東日本大震災にあたって比較的早く被災地に入ったつもりだったが、死はすでに隔離されており、直接目にすることはなかった。

 直接的経験ではなくても、過去の事件の追体験か、事件の再解釈こそがいま求められている気がする。事件はもう起こったことで必然、不可避のこととしか見えないが、どこかで回避できる可能性はあったはずと考え直すことが出来るのであれば、気候危機対策が見えてくるのではないか。これほど切迫しながら何も行動が起きない現在が、必然で不可避の大量死の未来に直線的につながっているのを変えるヒントがそこにある。そのためにも、過去の事件を実際に起こったこととして「実感」しておくことが前提となる。

 この一年で二つ、特別の節目があった。
 一つは、ずっと読み進めている韓国の小説家ハン・ガンの新しい作品である。すでに光州事件を取り上げた『少年が来る』でも、軍に虐殺された青年たちの死体がやぐらのように積み上げて腐らされ焼かれる恐ろしいシーンがあったが、済州島事件を扱う最新作『別れを告げない』でもそれに匹敵する場面がある。済州島中山間部の国民学校の校庭に集められた無数の死体に雪が降り積もる。雪は顔の皮膚に触れても溶けることがない。芸北の豪雪に親しんだ自分の子供時代の思い出と一瞬で一つになって、大量死の実在を想像することが出来た。

 もう一つは、昨年の85日の猛暑の夕方に、広島市立己斐小学校を案内してくれた川本隆史さんが何気なく行った一言である。原爆の後、谷間の底の小学校の校庭に集められて焼かれた数千の死体の臭いは夜になってさらに濃くなった。臭いに誘われて山から野犬が現れ、群れをなして斜面を降りて来た。それを聞いた時、初めてごく普通の校庭の風景が別の姿に変わって見えたのだった。
 
 その上で、僕らにいま必要なのは、ただ「戦争はだめだ」というにとどまらず、それを過去の何らかの行動で変えることが出来たものとして考えることである。

| | コメント (0)

2024年7月14日 (日)

デビッド・グレーバー『アナーキスト人類学のための断章』(以文社2006年)に刺激された断章


○きっとマルクス主義的にしか変革できない領域と、アナーキズム式にしか変革できない領域があり、それは変革の相補性と呼ばれるのだ。

これはおそらく正義の倫理とケアの倫理の関係。
7月14日号の赤旗日曜版一面は、選択的夫婦別姓制度推進を提言をした経団連本部へのインタビューである。経団連としてはビジネスサイドから通称名使用では難点が多いためとしているが、赤旗と経団連の意見の一致から考えさせることが多かった。

世界中の極右台頭は、新自由主義側の遭遇した困難の解決のためだった。つまり新自由主義国家が、グローバル・サウスの貧困を深め、先進国でも社会保障を削減する一方で、多国籍大企業には莫大な援助を惜しまないという、誰の目にも明らかな「不正義」を行なっていることが明らかになって糾弾される中で、その反撃のためには、事態をごまかす、民衆操作に有効なイデオロギー的支援を必要としたということである。

それが移民排斥、男性優位、宗教差別の温存というイデオロギーを持つ極右との同盟だった。
そのイデオロギーは新自由主義にとって本質的なものではないので、あくまで政治的支援の取り付けに過ぎない。一部は「トロイの木馬」となるリスクは承知の上だろう。そこまで「不正義」の批判は新自由主義を追い詰めるのにある程度は成功したということでもある。

そういうなかでも、上記のように新自由主義はビジネス上必要であれば夫婦別姓だって肯定する。同時に巨大な性産業からの要請があれば、買春の合法化にもためらいはないだろう。

しかし、一旦舞台に上げてもらった極右は、この間、結局は新自由主義を受け入れてきた欺瞞的左派や中道エリートへの反感の組織をてこに勢力拡大に成功する。性自認法制度化を左派エリートが肯定していることへの反発はその中核に位置づいて、彼らの大きな武器になる。
フェミニズムつまり「ケアの倫理」に裏打ちされた家庭医療学との合流を果たしたあとの民医連は、何に直面するのだろうか。

それはフェミニズム的視点から資本と国家の馬鹿馬鹿しさを浮き立たせる(同じ土俵に立たない)世界変革戦略の様式であるアナーキズムと、資本と国家に正面から同じ土俵で階級的にぶつかっていくマルクス主義ーそれの今の課題は機構危機の解決に他ならないーとの、統合を医療という現場で実現させる問題である。

国家を無意味化させる自己統治的地方政府主義ミュニシパリズム路線と、戦争放棄を守り抜く国家路線の統合が、医療の場でも必要になっているのは現実の話である。

極右の政権獲得や勢力伸長で新自由主義が生き延びてしまえば、新自由主義はさらに力を増し、もはやどんな批判も許さず、日本で言えば対中国への臨戦態勢を口実に被支配階級の階級的抵抗の基盤を根こそぎ破壊することになるだろう。沖縄米兵の性犯罪隠蔽への転換もそれを目指した一環だろう。

それは、第2次大戦後の自由民主主義体制への反動を超えて、日本で言えば完全に戦前の復活。ロシアやアメリカなどでは大統領制から皇帝制への変質、21世紀のナポレオン3世とでもいうべきもの。
マヤ文明のなかの平等志向の生命力はサバティスタ人民解放軍とその蜂起(1994)の中に生きていた。
マルクスが展開し、もはや周知のこととなっているいくつかの事柄の中で、売りになりそうな一点を取り出し、あたかも自分が発見したかのように騒ぎ立てるのはいかがなものだろうか。

いまこの領域で焦点となっているのは、マルクスが考えるヒントとしたエンゲルスの発想を、逆にエンゲルスがマルクスの大発見のように教条化した史的唯物論を、エンゲルス当時のものではない人類学や考古学の最新の成果から見直すことや、地球的な物質代謝の視点でマルクスが考えたことの再発見を知ることではないのか。

対抗側の非暴力では決して退治できない怪物が自重で崩壊するのをただ待つのではなく、なんらかの方法で攻撃的に無力化しようと思えば、思いつきだけでは無理なのである。
マッチョな医師による患者支配を廃止して、すべてを恒常的な対話の状態に留め置くとすれば、決め打ちのような「診断」は姿を消して「その人に合わせた説明」と呼ぶべきものになるだろう。
つまり、家庭医療学はアナーキスト医療、あるいはフェミニスト医療というべきものなのである。
ある日、女性権力が男性権力を打倒して自らの政府を樹立するということは考えられない。
変革とは、ゆっくりと男性権力のバカバカしさを証明して、それを解体していくだけのことである。
そう考えると、フェミニズムはアナーキズム以外のものではありえないのではないか。
男尊女卑の偽物アナーキストがこれまで山積みになるほど存在したとしても。
私達が作り出そうとしているものは、資本主義あるいは新自由主義の中の、非資本主義的、非新自由主義的な大小の島のようなもの、及びそのネットワーク網状組織である。
こういう存在を意味する言葉があるのを知った。「包領」である。

ウィキペディアによると
「包領(ほうりょう、enclave)は、ある1つの別の領域に四方を完全に囲まれた領域である。 レソトは、南アフリカ共和国に囲まれた包領である。 国の場合は、1つの外国に完全に囲まれた国となる。 現在の独立国では、レソト(南アフリカ共和国による包領)、バチカン、サンマリノ(共にイタリアによる包領)があたる」
○フェミニズムつまり「ケアの倫理」に裏打ちされた家庭医療学との合流を果たしたあとの民医連は、何に直面するのだろうか。

それはフェミニズム的視点から資本と国家の馬鹿馬鹿しさを浮き立たせる(同じ土俵に立たない)世界変革戦略の様式であるアナーキズム、資本と国家に正面から同じ土俵で階級的にぶつかっていくマルクス主義ー今の課題は戦争防止と気候危機・食糧危機に際しての国家的強制の発動に他ならないーとの、統合を医療という現場で実現させる問題である。

国家を無意味化させる自己統治的地方政府主義ミュニシパリズム路線と、戦争放棄・生命の維持を守り抜く国家路線の統合が、医療の場でも必要になっているのは現実の話である。

| | コメント (0)

« 2024年6月 | トップページ | 2024年8月 »