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2024年6月26日 (水)

健康相談の秘訣

血圧、血管年齢、骨密度くらいからなる「まちかど健康チェック」に付属するような形で「健康相談」を頼まれることがある。

実は、この取組みがいま極めて重要である。いろんな民医連事業所が相当な経営危機にあるが、最終的には地域住民からどれだけ支持されるかが存続の境目になる。
上下関係を色濃く残した病院のなかでの住民との人間関係は支えるー支えられるという仲の良い関係にはならない。

したがって、戦略的にも、自分の民医連人としての初心を見つけるためにも、面倒くさくても、街の小さな集会所に出ていかなければならない。場合によっては、そこからなにか事件の起こっている可能性がある人家を訪問する必要もある。
そのとき、「この行動で組合員が○人増え、出資は○円でした」という数字目標追求からは一歩離れないといけない。厳しく言うと、そんなことに終始していたから今の苦境があるのだ。

健康相談には方法論がある。
やってはならないのは健康チェックの数値に頼って「診断」し医学的にアドバイスするというようなことである。そんなことは誰も求めていないし、その姿勢でいる限り仲良くもなれない。

相談者の最初の一言から「主訴」を組み立てて「問診」するのもだめだ。そんな無理はしないで、ひたすら、世間話に徹しなければならない。
そうすると、思いもかけない仮説が浮上してきて心が躍ることもある。

とはいえ、実利的なことを教えてあげると喜ばれる。そういうことに役立つのが、以下の一冊。自分で指圧できるツボをいくつか知っておくと仲良くなるのが早い。

https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000390699

東洋医学はなぜ効くのか ツボ・鍼灸・漢方薬、西洋医学で見る驚きのメカニズム

 

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2024.6.26 県連理事会挨拶

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  蒸し暑い夕方の会議参加ご苦労さまです。
5月の県連総会後初の理事会です。
最近の情勢に簡単に触れて挨拶に代えたいと思います。

言いたいことはたくさんありますが、中でも6月19日に地方自治法の改定が成立してしまったことはきわめて重大でした。
非常時には国が自治体に指示できるという内容です。コロナ禍で自ら作り出した混乱を口実に、国が公然と自治体に命令できるようにした、まさに「ショック・ドクトリン」の見本のようなものです。
憲法の柱として地方自治があります。それは第2次大戦において、自治体が戦争遂行の道具になってしまったことへの反省によるものです。国と県と市町村とは対等であり、命令する、されるという関係にはないというのが団体自治といいます。そして自治体運営は住民参加で行う原則を住民自治といい、団体自治と住民自治とで地方自治は構成されています。この2つからなる地方自治があるからこそ、私達は自分の足元から「地域循環経済」「ミュニシパリズム」という変革の波を日本全体に広げるという展望を持つことができるのです。
しかし、今回の改定はその前提を掘り崩すものでした。ほとんど改憲したに等しいと言われます。自治体を守るべき国が、自治体を支配するものに変わった訳ですから。
結局何を狙っているかというと、中国どの戦争の準備です。それ以外にはない。

僕たちが安穏としている間に戦争の準備が国民の首を絞め上げているのに気づかないといけないと思います。
県連総会では海上自衛隊呉基地の増強についてお話しました。戦闘機も搭載できる事実上の空母「かが」という最大の護衛艦が配備され、太平洋・インド洋に活動範囲を広げています。その経過中に起こったのが4月21日の南鳥島付近でのヘリコプター同士の衝突、8人の自衛官死亡事件でした。
いま進行しているのは、佐賀空港に陸上自衛隊オスプレイ17機を配備するための工事です。この17機というのは、日本がアメリカから輸入したオスプレイの全部で総額3600億円でした。世界でもオスプレイを買ったのは日本だけで、アメリカ本国でも今年生産ラインが止まるという欠陥兵器です。しかし、安全性よりも戦闘能力の高さから日本に押し付けられたのです。
オスプレイは佐賀空港の滑走路を使用しますが、工事が終わると、すぐ近くにある長崎県佐世保市の陸上自衛隊水陸機動団(日本版の海兵隊=殴り込み部隊)と綿密に連携して、南西諸島での中国との戦闘に備えるとされています。
呉―岩国―佐賀-佐世保と連なる線上に私達が暮らしていることを鋭く意識すべきだと思います。

話を医療活動に転じたいと思います。
今後の医療介護活動の最大の課題は、家庭医療学を全県連的に学ぶところにあると僕は思っているのですが、それに関連したことを少しだけお話します。

日本に家庭医療を導入する上で大きな役割を果たした藤沼康樹先生が、雑誌「総合診療」に連載した「55歳からの家庭医療」をまとめて一冊の本として医学書院から出版しましたが、その中にこんな話がありました。

ある糖尿病患者が、食事療法がなかなか実行できず、繰り返し栄養指導しても行動が変わらなかった。しかしあるときから体重が減り、血糖コントロールが改善してきた。やっと外来での指導か実り始めたかと考えたが、変化の原因は医療現場以外のところにあった。トレーディング・カードゲームをしていて、日曜日の会場でよく対戦していた中学生が1型糖尿病であると知った。ゲームの間に少し話していると、少年が自己インスリン注射や食事療法の大変さを屈託なく話した。
それを聞いているうちに「何かに打たれたような感覚」が生じて、それから食事や運動に取り組むようになった。

藤沼先生はこの「何かに打たれる」ことをエピファニー、顕現と呼んでいます。本来の意味はキリストが現れることを言いますが、私は「初心」と呼びたいと思います。
よく、誰でも初心があるだろう、それを忘れるな、思い出せと言いますが、僕はそれは違うと考えます。
初心、つまり行動変容のきっかけを獲得している人は稀です。
誰にでもあるのはイニシエーション、つまり入職の儀式だけです。民医連の事業所に就職したら、入職式とオリエンテーションをくぐって民医連人になると思うのは幻想でしかありません。
本当の初心を獲得することが、今何より大事です。

藤沼先生は診察室の外の地域に、患者を変える、つまりエピファニーを起こす力があると主張していますが、僕は民医連の職場に民医連の初心を与えてくれる力があると信じています。
誰かが屈託なく患者支援の苦労や患者さんの感謝の言葉を語ってくれる時、それから目を背けている自分が見え、「何かに打たれる」、そこに初心が生まれてくるのだと思います。
僕らがいつまで経っても小集団であり、あまつさえ消滅の危機に立っているとすれば、初心を生むことにあまりに無力だったということを意味するのだと思います。
今こそ、私たちの行動変容が必要な時です。初心を見つけましょう。
その呼びかけを今回のあいさつにしたいと思いますかが、最後に、家庭医療を学ぶ2冊の日本語の本を紹介して終わりにします。
今日は部会ですが、熱心な議論をよろしくお願いします。

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2024年6月24日 (月)

近況

1年くらいも続くハン・ガン「少年が来る」の読書会も、そろそろ終わりに近づいている。
通しの朗読役を引き受けながら、自分の口を通して出る作品の言葉に感極まりそうになって、若い人たちの手前もあるので、朗読をやめて無理矢理の冗談を差し挟むことが多くなった。

それとは別に、日常生活のいろんな局面で、何かが変化していこうとしているのを感じる。永遠に続くものはないのだ。それが意識に上るたび、息が止まる気がする。
臨床への好奇心と、診療と伴走的生活支援を統一することへの意欲は変わらないし深まる一方だが、それだけを残した透明な存在になって行くのだろう。

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2024年6月21日 (金)

「ノクターナル アニマルズ」という映画 2017年

病棟の患者さんにあれこれある中での行事続きで、ちょっと気晴らしがほしかったので、ネットフリックスで2017年の「ノクターナル アニマルズ」という映画を見る。
ジェイク・ギレンホールが主演。
もうなくなったギンレイホールという映画館に似た名前だが。

フォークナー「野生の棕櫚」のような、類似構造の二つの物語が同時進行するというのは、すでに一つの様式になっているようで、そう気づけば面白く見ることができる。

こういう場合、一方が救いようのない悲劇でも、片方をハッピーエンドにすると、見終わった時を不安にさせずに済むが、新しい映画ではそうもいかないというところかな。

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NHKのヒューマン・エイジ

①NHKのヒューマン・エイジ。取り上げるテーマは良いが、まとな主張に対して、ほぼ必ず、民間を活用する技術の進歩で危機は乗り切れると主張する論者をぶつける。斎藤幸平に対して宇宙飛行士の山崎直子。昨夜は藤原辰史に対し環境工学の長谷川知子。女性をその役に選ぶのもどこが作為的。

②食を取り上げたNHK ヒューマン・エイジでは、美食のためだけに年間100回も飛行機に乗るという女性が出ていた。

それとは比べようもない短距離だが、僕も会議だけのために年間50回も飛行機に乗っていた。6年間も。なんと無自覚なことだったろう。個人としても組織としても。

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外的な強制と見えるものも、実は自らが生み出した必然

民主主義革命から社会主義革命に急速転化する二段階連続革命論から、400年間くらいも続く緩やかな民主主義革命という方向に認識が変わっていったのだが、その分、究極の目標が遠くなり、動機づけが難しくなった。売上を競う商社風で安易な数値目標競争は無理になったのだ。

そこでふと思い指すのは田中光春さん事件。
彼が「働くものの医療機関」とは「労働者階級の医療機関」ということだ、したがって我々の使命は労働者階級の使命である社会主義革命だと言って講演して歩き、一部から(僕を含む)喝采を浴びたのは40年くらい前。
すぐに、それは誤りだとされたが、なんとなく閉塞感を感じ始めていた人たち(僕を含む)には「一服の清涼剤」、今風にいえばアヘンだったのだろう。

閉塞感も行き詰まると、昨日よりは今日、今日よりは明日の改善に意義を見つけたくなる。「微力だが無力ではない」という自己鼓舞、あるいは自己暗示。這ってでも前に進むという決意。

それも難しいとき、たとえ襤褸のごとく忘れ捨て去られても、誰かのためになろうと思った唯一無二の経験の、自分とともにある記憶は残ったと思うしかなくなる。

そのように年齢を重ねていくことの悲しさを老いというのだろう。

しかし、ここからが大事なのだが、変化は、もはや強制的な力として、そこにあるのだ。
マルクスが言っていたのもそのことで、資本主義が自ら作り出してきた必然的な環境変化なのだが、その中に暮らす人類にとっては外的な強制として、資本主義を廃絶するしか生き延びる道がなくなったのである。

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多様性によって絶滅を免れた恐竜

恐竜が絶滅したのも、それ自体は外的な偶然、強制だった小惑星との衝突に遭遇したとき、そこから生き残ることのできる仕組みを準備できていなかった内的な必然性から、と考えていると、実は鳥類を生み出す多様性は準備されていて、彼らは、種ではないとしても、目か科のレベルでの絶滅は免れたのだと気づいた

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団地の健康相談

団地の「健康チェック」での相談3件。そもそも受診しようと思わない段階での相談だから、「主訴」などはない。未分化以前。
なぜ相談したかったかに好奇心を持ちながら、世間話を続けると、3件とも意外な背景が分かってくる。診察ではないから問診らしいことも極力控えていても、聴く姿勢さえ見せれば、語られるべきことは語られる。結論は相談者自らがまとめて去って行く。それで感謝されるから面白い。

これに研修医を起用すると、必要以上に医師を演じようとするからうまく行かない。もちろん、起用する前の指導が不足しているからなのだが。

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2024年6月10日 (月)

死体を想像する

谷間に人を焼く臭いがこもり、夜には山の斜面から野犬の群れが降りて来た、と川本さんは言った。同学年だから、それは彼にとっても伝聞だが、そう聞くと初めて、目の前の己斐小学校の1945年の夏の校庭に並べられた死体を想像できた。


今夜、小説を読む。死体の顔に降った雪片は溶けなかった。生きた人の顔に降る雪はすぐに溶けるのに、と書かれたところを読むと、ようやく済州島の中山間部の国民学校の1948年の校庭に積み重ねられた死体を想像できた。


2024年6月8日の死体はどんな風に置かれているのだろう。

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2024年6月 5日 (水)

今日の大風呂敷

今日の大風呂敷

山口県は農業を粗末にして全国有数の食料自給率が低い県になっている。人口同規模の滋賀県の半分でしかない。
その一方、全国屈指の工業県と豪語しているが、中身はもっぱら石油石炭を原料にした素材生産で、環境破壊の責任も全国屈指だろう。

そういう意味では存在価値のネガティブな県なのである。だめな総理大臣生産県というだけではない肩身の狭さがある。
したがって、今後の産業再興の見通しは、瀬戸内海沿岸の素材工業縮小と内陸部の農業振興である。そういう人口移動を図らなければならない。

もちろん、それだけでは産業振興にならないので、第3次産業を拡大することが求められる。

その主力は、医療・福祉産業である。
しかし、それを民間の巨大病院チェーンや巨大介護事業所チェーンに託していたのでは、利益は県外に流出するばかりである。

県・市町・農協・生協が協力して「山口県医療・福祉公社」を創設することを提案する。
もともと県立病院が、県立中央病院と心の医療センターの2箇所しかない。たとえば20個もある岩手県の1/10でしかない。
これを覆して、公社が医療・福祉の最大の供給元、職員雇用企業になって、医療福祉の事業所を増やして、それをきっかけとして山口県経済を拡大していく。

そのためには、地方国立大学医学部一校では足りない。山口県の高校生なら誰でも入れるくらいで学費もない県立大学医学部・介護学部を作らなくてはならない。

日本再生のための「プランB」 医療経済学による所得倍増計画 画像1

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2024年6月 3日 (月)

ハン・ガンとテオ・アンゲロプロス

①ハン・ガン「別れを告げない」を読み始める。
ギリシャのテオ・アンゲロプロスの映画を思わせる冒頭。
歴史と個人という点で、この二人の類似がふとひらめく。その直観を追う読書になりそうだ。
ハン・ガン「見えない巨大な刃が空中に浮かんで、私の身体に狙いを定めているようだった」はアンゲロプロスではこの写真に相当する。テッサロニキの上を移動する巨大な手ー「霧の中の風景」
サグラダファミリアの画像のようです

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デヴィッド・グレーバー、デヴィッド・ウェングロウの「万物の黎明」

ようやくデヴィッド・グレーバー、デヴィッド・ウェングロウの「万物の黎明」を読み終えた。全く知らない地名や固有名詞の連続にこころ折れそうになりながら。
柄谷も似たようなことを言っているが、現代の支配は暴力への服従とケアとの交換から成り立っている。
それは人類を閉塞させ、窒息させるものである。
これをケアとケアの純粋な交換に置き換えることは可能だ。
チケットの半券、テキストの画像のようです

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網野善彦と「万物の黎明」

歴史を直線的に進歩し発展するものと考えると、江戸期に滅んで昭和ではもう誰も覚えていないことなどは、現代では想像されることもなく無かったこととされる。

しかし網野善彦によると霞ヶ浦の漁民は中世には全体集会(アッセンブリー)を開いて霞ヶ浦一帯の漁業の仕方を自主的に決めていたのである。民主主義が決して根付くことのない近現代の日本からは思いつきようがないことである。

人間は最初から賢く活動的で創造的で、様々な社会形態が現れては消えてきたという「万物の黎明」の主張は日本にも当然当てはまることに思える。

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柄谷のABCD

柄谷のABCDでいうと、マルクスはスペシャリストCのだった。
これに対し、ホッブズ、ルソー、カント、ミル、ロールズ、セン、さらに「ケアの倫理」派の人までBのスペシャリストだろう。広く言えば社会契約論。最近読み終えた「万物の黎明」の著者デヴィッド・グレーバーもここに入ると思う。
残るAは宗教に委ねられてきたように見えるが、しかし、上に挙げた人はみんな、BやCに蔑ろにされているAをどう復活させるか、つまりDを準備することに本意があったように思える。
青写真・設計図、、「ឡល 好書好日 好書好日-朝日新聞デン 朝日新聞デジタル 交換様式 < 〈> Χ > B 略取と再分配 (支配と保護) A 互酬 (贈与と返礼) 商品交換 c 商品交換 (貨幣と商品) D 平等 Χ 自由 柄谷行人さん 柄谷行人さん『カと交換様式』 『カと交換様式』 「人さん「けと交換株式』インタビュー絶望の先にあるた。 インタビュー絶望の先にある インタビュー 絶望の先にある 「希望」 ん堂 画県は著作権で保護されている場合があります。 詳細 じんぶ 表示>」というテキストの画像のようです

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今日の勉強

今日の勉強
物理は、原因と結果を語る物語だ。そこが数学と違う。
しかし、
「僕は人間だから基本的な人権がある」ことと
「F=mα」(運動方程式)
は似ている。
どちらも証明不能で、そこからすべてが始まるという約束=原理なのである。
力は単独の存在ではない。2者以上の関係で、必ず作用・反作用という双子。
日常的に接触によって生じていると見える力は、原子・分子間の電磁気力だ。

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労働運動の伴走者としての私







①はたらく者のいのちと健康を守る山口県センター(略称 山口労安センター)の27回総会に参加。

1998年に全国で6番目に結成された地方センターだったから、全国センター副理事長だった長谷川先生から、創立メンバーの僕に、結成できた理由をわざわざ電話がかかった来て、「はて?」と思ったものだった。

山口県は瀬戸内海側にずらっと並ぶ重化学工業によって「全国屈指の素材工業県」を豪語しており、それが、環境を破壊しながら、県民生活の耐え難い重荷になっている。
残念ながら、それらの労働者を組織できていない私たちであるが、逆に教育、自治、医療というケアのところは抑えているわけだから、それを十分自覚すれば活かしていける可能性がある。






僕は40年以上何箇所かの産業医を続け、中小企業の社長や工場長や労働者と協力しながら、中小企業に安全衛生委員会を根付かせる努力をして来た。

30年以上建交労と協力して何百人かのじん肺の労災診断書を書きながら、じん肺患者の生活を支援して来た。

16年間医療生協の理事長を務める中、労働組合の尊重、労働者の権利擁護を最も重要な任務として来た。若い時、たった一日だけ聞いた中山和久早稲田大教授の労働法講義を半生大切に守って来たのだ。

しかし、その果てに見ているこの労働組合運動の空洞化、自己責任論への屈服はなんなのか。

ある集会でそう発言していると、まるで珍獣を見るような目つきで、参加者の中年女性から眺められているのがわかった。ゾッとする冷たさだった。

つまり、もはや世代を超えた相互理解は不可能なのである。そこが出発点だ。
労働組合運動において、男性幹部が女性の貧困とLGBT問題を一緒くたに語ってしまうのは、知的な怠惰としか言いようがない。もっと個別課題の具体性に詳しくなってほしい。またLGBとTとQもそれぞれ別問題だ

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