エヴァ・フェダー・キテイを民医連に引き付けて考えると:
汚れ仕事は女性である看護師・介護士に押し付けて生物学的医学に専念することで最優位に立つ男性的医師、決して乗り越えられることのない不平等さのもと看護師・介護士から永続的ケアを受ける最下位にいる依存的な患者・障害者という三者の関係が、私たちがケアの倫理を考えるプロトタイプである。
それをどう変えて行けば、存在するに値する医療・介護になりうるのか。
尊厳ある患者・障害者のケアは社会が固有に負う責任であり、そういう責任を回避する社会はそもそも選択されない。これが出発点。誰もがケアを受ける依存的な存在に必ずなることを理解すれば、これは容易に社会を構想する前提条件として受け入れられるだろう。
問題はそのことがどう実現されるかである。
現実に横行している、依存が免れない患者・障害者の直接的ケアを引き受けることにより看護師・介護士が劣等処遇、あるいは脆弱性を負わされる事態を解消することが、彼らがケアする患者の選好するやり方に従う、つまり患者の尊厳を守り抜くことを可能にする条件になる。
そのためには社会は看護師・介護士を支援する仕組みを何層にも張りめぐらせなければならない。これが肝要である。
一般に、人をケアすることで脆弱になったケアラーをケアする制度、ケアラーからの依存を引き受ける制度をドゥーリア制度と呼ぼう。
ドゥーリア制度を必須とするとことは、正義のためのロールズの2原則にもう一つの原則を付け加えることになる。最も恵まれない人の一角にこうしたケアラーを置かなくてはならないからである。
これに協力し、自らの特権を手放すことが男性的医師には求められる。
こうして、ロールズの「公正としての正義」は、女性や患者・障害者を排除して構築されたという弱点を克服して、依存と支援の交換が無限に続くケアの倫理に接合されるのである。
2010年代に、SDH概念の吸収を通じて、ロールズやセンの公正としての正義論を合流して来た民医連であればこそ、フェミニズムの少なくとも240年の歴史の結晶であるケアの倫理と合流できることに誇りをもつべきである。
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