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2024年5月25日 (土)

ローカル政治新聞への寄稿 推敲前

ローカル政治新聞への寄稿 推敲前

このエッセイでは、社会契約論の新しい潮流であり18世紀以来のフェミニズムの結晶とも言える「ケアの倫理」原理が、医療の場では他ならぬ「家庭医療学」として現れていることを描こうとしてきたのだが、文献が増え過ぎて、ここのところ筆が止まっている。前回に引き続き寄り道することに。

最寄りの消防局管内で、熱中症を理由に救急車が出動したのは昨年では5月17日が最初だった。それが今年は5月12日時点ですでに20人が搬送されているという。

日常の熱中症増加と時折の風水害の巨大化が、気候危機の最も身近な現象として私達の生活の中に現れている。しかし、被害を真っ先に被るのは、やはり貧困に悩む人たちである。

予約診察日に現れないため看護師さんが訪問して発見する患者さんの孤独死は、夏であれば大半が熱中症死と推測される。22年間も僕の外来に通ってくれた69歳のKさんの死も、網戸から中を覗いた看護師が見つけた。炭住だった自宅にエアコンはなく、近くの公園で水浴びして涼を取っていたという話を後で聞いた。
そういう話は年々積み重ねられていくのだが、最近経験したのは診療所が段取りした月割のエアコン購入費用が捻出できなくて次第に衰弱した生活保護利用の70歳代の人が、病院への救急搬送後数日で亡くなった件である。
 
実は気候変動対策として2018年から生活保護世帯にはエアコン購入費(2023年から6万2千円)が支給されるようになった。しかし、2018年以降の新規利用者に限定され、それ以前から所有していない人は対象外であり、また所有していたが故障・老朽化による買い替え・修理も含めて自弁とされている。そういう場合は社協の生活福祉資金が斡旋されるが、借りると同時に計画に沿って返済を始めないといけないので、保護費が少ない地域ではそれも無理になる。上記の件もそういう話だった。

酷暑の真夏が来る前に少しでも改善に足を踏み出さないといけないという思いで、10人の仲間が集って5月24日に山陽小野田市議会の「議会市民懇談会」という制度を利用した。担当委員会の市会議員6人と2時間話し込むことができた。 生活保護を必要とする人のうち利用できている人は15~20%だとされている現状を考えると、生活保護世帯だけでなく住民税非課税世帯に広げなくても良いのか、購入費用だけではなくて電気代も必要ではないのかと話は広がった。

ある論文によると熱中症で救急搬送された2日間の医療費は1人あたり13万3498円と推測され、65歳以上となると熱中症による入院期間は平均27.5日に及ぶ。その場合の医療費は80万円近くになるだろう。エアコン代や電気料金をいくら助成しても熱中症での入院を予防するほうが市の支出を減らすのである。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjdisatmed/27/1/27_270104/_article/-char/ja/

そこでふと思い出したのが、30年くらい前に旧小野田市に在宅酸素療法患者への電気代助成を提案して実った1件だった。セメント繋がりの姉妹都市埼玉県秩父市でも同じものが実施された。「それ、まだ生きていますよ」と旧知の市会議員が応えてくれた。

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2024年5月20日 (月)

文庫本の表紙

①「夏は『三四郎』を読んだ」と、同じ山県郡出身で中学受験模擬試験の頃から知り合いの山本義弘くんが屋上で言うので「柔道の?」と僕はつい尋ねた。
「まさか、夏目漱石」
焦った。「それはどうしたら読める?」
「普通に本屋で文庫本があるよ」
それが中学1年の広島市での書店デビューだった。それまで自宅や親戚の家で文庫本を見たことがなかったわけではないが、自分で買いに行けるものとは思っていなかったのだ。
それからしばらくして、僅かな小遣いで10冊くらい集めたのを下宿の部屋に並べて表紙の絵を楽しんでいた時期があった。

今日、帯を外して文庫本のフォークナー『野生の棕櫚』の表紙を初めて意識して見た。想像が少し難しい描写を補ってくれるもので、それなりに美しい。
急に60年前の、自分で買った本の世界の入り口にいた気分が蘇ってきた。

あの成績の良かった山本くんは生きているのかなぁ。検索してもヒットしないが。

②フォークナー『野生の棕櫚』を仕事の合間に読んでいると、ふと、題名をおぼろげに記憶していた『人生のレールを外れる衝動のみつけかた 』(ちくまプリマー新書) を衝動買いしたのだった。81huklxv7pl_sl1500_  9784480684820   と、いっても1000円もしないものだったが。

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2024年5月16日 (木)

医師のプレゼンス

医師にとってのプレゼンスというのは診察室にいて時間を止めている存在でいることだろう。患者はその時間の中に自分の席が空いていることを実感できる。
並の医師は、歳を取らないとその術を獲得できない。
獲得できたと思うまもなく死んでしまう。
その時は診察室にいて呼吸も心臓も止めているというわけだが。




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そんな医師に私はなりたい

消化器科医としての生涯研修に努め
総合内科医としてのリカレント研修も怠らないで
家庭医としてのリスキリングに挑戦する
そんな医師に私はなりたい
というのは、むろん冗談の部類に属することだが

それらの時間を除いては、在野の(民医連をめぐる)現代医療論の学習者でいたい。

民医連と社会契約論・リベラル平等主義・正義論
民医連とフェミズム・「ケアの倫理」
民医連と家庭医療学・マインドフルネス
民医連と気候危機
民医連とミュニシパリズム・地域政府
民医連と地域循環経済
民医連と日本医療史
民医連と日本民衆史・網野歴史学
民医連と民俗学・エスノグラフィ・考現学
最後に、民医連と21世紀コミュニズム

なんという民医連愛であることかと呆れるが、資本主義内の経営体でありながら、資本主義を超えていく主力たらんとする民医連には、こんなリストではおさまらない課題がある。

それを全部考えていきたいので、組織内の会議参加や雑事処理は僕の選択に任せてほしいと思うこの頃であった。

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2024年5月14日 (火)

岡野八代『ケアの倫理ーフェミニズムの政治思想』岩波新書

岡野八代『ケアの倫理ーフェミニズムの政治思想』岩波新書を読み終えた。

何よりキャロル・ギリガン『もう一つの声でー心理学の理論とケアの倫理』風行社とエヴァ・フェダー・キティ『愛の労働あるいは依存とケアの正義論』白澤社という、この分野の代表的な2つの書物の丁寧な手引書として役に立つ。

どうしても乗り越えられない能力差や障害に正面から臨むことで、能力主義・自己責任論から私達がどうやって真に脱することができるかが示されるのがありがたい。それはロールズやセンが築いてきた正義論とケアの倫理を、あたかも、一瞬で相を変えるだまし絵のように融合させることなのである。

「ケアの倫理」が「一次」や「二次」や「マルクス主義的」という形容詞の不要な、つまりフェミニズムの結晶のような存在であるという主張もよく理解できる。

実は、そのことは僕が五里霧中で「ケアの倫理」を勉強し始めて、ある時、急にわかって、以来見通しがすっと良くなったことなのである。民医連にとっては、民医連理念とフェミニズムの「合流」の名前が「ケアの倫理」なのである。


























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2024年5月13日 (月)

出発点

小1の時、清須校長先生が「野田君には図書室を見せてあげよう」と言って、南向きの2方向に窓が開いている明るい部屋に連れて行ってくれた。教室とは全く違った部屋のようだった。並んでいる本を見てぱっと世界が開けた気がした。「これ全部見てええん?」「ああ、いいよ」
家に帰って、学校には図書室というものがあるという話を両親にしたことを覚えている。
1958年の広島県の最僻地の小規模な学校、児童労働のため春には田植え休み、秋には稲刈り休みがあった小学校の思い出だが、あの図書室も僕のなにかの出発点の一つではあった。
そういえば清須校長の娘さんは僕より1学年上だったが、なぜか濃い口ひげがあった。

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2024年5月12日 (日)

エヴァ・フェダー・キテイを民医連に引き付けて考えると:

汚れ仕事は女性である看護師・介護士に押し付けて生物学的医学に専念することで最優位に立つ男性的医師、決して乗り越えられることのない不平等さのもと看護師・介護士から永続的ケアを受ける最下位にいる依存的な患者・障害者という三者の関係が、私たちがケアの倫理を考えるプロトタイプである。

それをどう変えて行けば、存在するに値する医療・介護になりうるのか。

尊厳ある患者・障害者のケアは社会が固有に負う責任であり、そういう責任を回避する社会はそもそも選択されない。これが出発点。誰もがケアを受ける依存的な存在に必ずなることを理解すれば、これは容易に社会を構想する前提条件として受け入れられるだろう。

問題はそのことがどう実現されるかである。

現実に横行している、依存が免れない患者・障害者の直接的ケアを引き受けることにより看護師・介護士が劣等処遇、あるいは脆弱性を負わされる事態を解消することが、彼らがケアする患者の選好するやり方に従う、つまり患者の尊厳を守り抜くことを可能にする条件になる。

そのためには社会は看護師・介護士を支援する仕組みを何層にも張りめぐらせなければならない。これが肝要である。

一般に、人をケアすることで脆弱になったケアラーをケアする制度、ケアラーからの依存を引き受ける制度をドゥーリア制度と呼ぼう。

ドゥーリア制度を必須とするとことは、正義のためのロールズの2原則にもう一つの原則を付け加えることになる。最も恵まれない人の一角にこうしたケアラーを置かなくてはならないからである。

これに協力し、自らの特権を手放すことが男性的医師には求められる。

こうして、ロールズの「公正としての正義」は、女性や患者・障害者を排除して構築されたという弱点を克服して、依存と支援の交換が無限に続くケアの倫理に接合されるのである。

2010年代に、SDH概念の吸収を通じて、ロールズやセンの公正としての正義論を合流して来た民医連であればこそ、フェミニズムの少なくとも240年の歴史の結晶であるケアの倫理と合流できることに誇りをもつべきである。

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2024年5月10日 (金)

概観

2010年代の民医連が必死に吸収し合流しようとしたのは、健康の社会的決定要因SDHの発見によって深められた「公正としての正義」論だった。
それは以下の図が要領良く示しているものである。
これに対し2020年代になって急に存在感を増し民医連の理念全体を問い直すことを迫ったものが「ケアの倫理」である。
これはフランス革命から始まるフェミニズム運動240年の結晶ともいうべき理念だった。
これと正義との関係は、下の図の若い女と老婆のだまし絵のようなものである。
同じ現実を見ていても、女性差別という視点を導入するとすべてが変わって見える。
今後予想される家庭医療学との合流は、大きなフェミニズムとの合流の中での一構成部分に当たるものになるだろう。
しかし、その後、より真剣に合流が求められるものが、「災害コミュニズム」である。
ある意味、100年ぶりに民医連はコミュニズムに回帰していくのである。
5人、テキストのグラフィックのようです妻と義母 - Wikipedia


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2024年5月 8日 (水)

うつむくということ

竹内まりや「駅」の中で印象的なのは、うつむく横顔が大きな意味を持つことである。
谷川俊太郎ので有名な詩集に「うつむく青年」というのもある。
なるほど、うつむくことが大切なのかと思い、「うつむく老医」を演じようと思ったが、それは「居眠りする老医」とどう違うのかと気づいて無駄なことはやめた。

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文殊信仰

文殊信仰について。困窮する人を「生きている文殊菩薩」とみなして伴走・支援することは、忍性も巻き込んだ日本の平等の歴史の主流である。、「鎌倉中期、 兼倉中期、西大寺の律僧、 西大寺の律僧、 叡尊と忍性が、 叡尊と忍性が、 幾内や鎮會 能内や鎌倉 で 「生身文殊」 で「生身文殊」としての非 としての非 人の供養・ 人の供養・施行をさか 施行をさかんに 行ない、 非人の組織につと めたことは周知の通りであ るが 網野善 善彦 増補 無縁 公界 曾補無線・公界・楽(平凡社ライブラリー150 楽 楽(平凡社ライブラリー150) #kindlequotes」というテキストの画像のようです

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橋の無縁性

民医連が「架け橋」になろうと発心した時、意識しようとしまいと、民医連は病院を「無縁」の場にしようとしたのである。それは日本の平等の古い歴史に根ざすことだった。

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自己責任論から完全に解放されるには

否定も是正もできない能力差による不平等から私達が離脱する、つまり自己責任論から完全に解放されるには、ロールズ「正義論」もセンの「ケイパビリティ・アプローチ」でもない、別のアプローチが必要なのではないか。
それがフェミニズムから生まれてきた「ケアの倫理」だというのなら、これが柄谷のいう向こうから勝手にやって来る「普遍宗教」の実態ではないかと思う。
そこにある交換は「依存と支援」の交換なのだ。

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2024年5月 2日 (木)

今日の問題

「その気もなしに診察室に座っているだけで、ひたすら入院担当患者が増えていく。なるほど、宇部にいるこのワタクシをマグネット・ドクターというのだなぁ」という現代語解釈で知られる古今和歌集の一首は以下のうちどれか。
以下は省略。

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