日直にはエッセイ
一日中雨が降り続いた今日は、ワンオペ二次救急の日直だった。数時間は気も狂わんばかりの忙しさだったが、夕方は2時間ほど手が空いた。
そこで連載予定の2回めのエッセイ2500字の原案を書いてみた。ただの思い出に過ぎないところが多く、言いたいことは最後の一段落だけだったので苦労なく書いてしまった。掲載は数ヶ月先だから、その間不測の事態もあるかもしれないと思い、ここに仮にアップしておくことにした。
:前回、日本版ヘルス・プロモーション「健康日本(第二次)」の最終評価結果について東北大学公衆衛生学教室の辻 一郎さんが述べたことを紹介した。「生活習慣や基礎的病態の悪化傾向が2014年頃から顕著になっていることについて驚きを隠すことができない。収入や雇用の安定度,労働時間・労働強度,余暇などのさまざまな要因が国民の生活習慣・基礎的病態にどのような影響があったのかについて,今後検討を深める必要がある」と彼は記している。社会経済の変化により生活習慣の悪化が生じ、大規模な健康破壊が起きてくることを予見し、危惧したものと思う。
この発言に影響しているのが健康の社会的決定要因(以下SDHと略)にほかならない。
2008年以降、民医連が国内の諸組織に先駆けて全力で受容しようとしたのは、SDHに基づく健康戦略だった。WHOは2005年にイギリスのマイケル・マーモットを委員長とし、アマルティア・センを特別委員とする「SDH委員会」を立ち上げ、2008年に最終報告「この一世代で健康格差をなくそう」を発表した。これを起点に展開されていく実践が新しいヘルス・プロモーションとしての新しい健康戦略である。
2008年の時点で10点のSDHが挙げられている。順不同にいうと ①差別と貧困 ②小児期の逆境 ③失業 ④劣悪な労働態様 ⑤薬物乱用 ⑥孤立 ⑦食生活の不良 ⑧公共交通の不備 ⑨住居・好環境の不足 ⑩医療・保健の欠乏である。
よくSDHに数えられる社会格差とストレスはこれには含まれない。総論としての社会格差が上記10点の各論に現象して健康格差を生むという構造だからである。ストレスはセリエのストレス学説であって各SDHが最終的に健康破壊を生んでいく医学生物学的説明である。ストレスに加えて、その後SDHが遺伝子を修飾して発病・発癌に至るエピジェネティクスも医学的説明として加えられている。
民医連がSDHを受容して合流して行く過程は、ごくごく近い記憶である。SDH委員会最終報告「この一世代で健康格差をなくそう」のエグゼクティブ・サマリー(冒頭要約)を内部資料として日本語に訳して普及し始めたのは、民医連のほうが日本福祉大の近藤克則先生のグループより早かったし、後にWHOに公認された彼らの翻訳の参考にもしてもらえた。また、マーモットの主著である『The Health Gap』(健康格差)を民医連有志他で翻訳して日本評論社から出版する際にもいろんなドラマがあった。有志「他」の中に、来日して民医連を研究していたワシントン大学大学院生ヘイムス・アーロンさんを加えられたのは本当に幸運だった。アカデミーの側に、診療に専念している勤務医グループの翻訳力に率直な疑問が湧き上がったのも無理はないと思ったが、ほぼほぼ読めるものに仕上がったのではないかと思っている。
民医連独自の理念と思われていた「労働と生活の視点で疾患を捉える」が世界的な統計で裏付けられて科学的な根拠を得たと思った私は、「これが21世紀の『空想から科学へ』だ」と主張して、大半の人から怪訝と不審の顔で迎えられたが、それなりに当たっている表現だと今でも思っている。
しかし、生々しい思い出も多いので、これ以上は割愛しておきたいと思う。とはいえ、一点だけ、個人的な思い出を付け加えておきたい。
一橋大学の後藤玲子先生がアマルティア・センと、マイケル・マーモット他を同大学に呼んで規範経済についてのシンポジウムを開いた際、後藤先生を知る東大の川本隆史先生の伝手を頼って、マーモットさんに無理やり面会して翻訳の許可をもらったときのことである。私はお土産として岩波文庫の吉野源三郎「君たちはどう生きるか」を持って行った。軍国主義日本の下、治安維持法違反で逮捕され自殺未遂も図った吉野のこの本は、暗い時代の人間の「正気」を恐れず示したものだった。マーモットさんの新著『The Health Gap』(健康格差)を現代の『君たちはどう生きるか』として若い世代に提供したい。ついては、主語を「僕」にして、文体も若い人向けにしたい(つまり「『ライ麦畑で捕まえて』ふうに)という希望を述べた。ところがマーモットさんは渋い顔で「読者はニューヨーク・タイムズを読む層を想定している。私が若者言葉を使うのも想像できない」という返事でこれは拒絶された。「お孫さんはいないのか」と聞くと「成人した娘がいるだけ」とにべもなかった。せっかくの内容だったのに、こちらが思うほどにはベストセラーにならなかった原因はこのあたりにあると思う。岩波文庫も、日本語は読まないとのことで受け取ってもらえなかった。じつはマーモットさんのもとに日本人学生が多数留学しているのを知っていたので、彼らに私達の意図が伝わることを期待していたものだったが実らなかった。
「君たちはどう生きるか」が漫画本になり、さらに内容は直接関係ないが宮崎駿の同名のアニメになって大ヒットしたのはその後のことだった。
閑話休題、振り返ってSDHに基づくヘルス・プロモーションと民医連の合流の本質がどこにあったのかと改めて考えると、戦後世界の平和構想や日本国憲法を超えた世界規範としてのリベラル平等主義、言い換えれば「『公正』として正義」との合流だったと思える。それはジョン・ロールズやアマルティア・センに代表される実践的な思想である。
実はロールズ「正義論」は民医連理念に早くから取り入れられている。1961年の民医連綱領に採用された民医連造語「働くひとびと」を「資本主義社会のなかで最も困難な状況に置かれている人びと」に代表させて「その立場に立つ」という文言は度々使用され、2006年の新綱領原案に織り込まれた。これがロールズ正義論の格差原理「不平等何もし許容されるとするなら、それが最も不遇な人々の期待に寄与するものでなければならない」の遠い反映であることは元会長の高柳 新さんに確認した。その後.2010年の民医連新綱領ではこの文言が姿を消すが、その詳細な経緯についてはよく分からないでいる。
以上、やや、不十分な叙述に終わった気がするが、SDHに基づくヘルス・プロモーション、ひいては「『公正』として正義」との合流は、2020年以降の「フェミニズムに基づく『ケアの倫理』」との合流の際により大きな意味を持ってくるのである。それは次回に。
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