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2024年2月21日 (水)

困窮者の訴えを疑う行政に文殊菩薩は有効か

『目の前の人間が、何百年も前の他の人間の反映である、という「見立て」「やつし」構造も(江戸文化の影響の強い現代作家)石川淳作品の基本的方法である』と江戸文学研究の田中優子が解説している。
もともとは能という芸能の構造の話かもしれない。
語り手の目の前に偶然いる人が、語り手の仮の眠りの中で昔のある人物として登場し、知られざる真実を語り始めるというような。
つまり、「やつし」や「見立て」はむかしの誰かが目の前の人の姿を借りて現れているわけである。
中でも「やつし」とは、「日本の文化の基底にある美意識のひとつであり、日本の芸術の表現方法のひとつである。 やつしは、見すぼらしい様にする,姿を変えることを意味する」(ウィキペディア)。 
こんなことを言うのは、困窮者・被害者の申し立てが支援を業務とするものからどんなに疑われやすいかを嘆いているからである。
支援にあたって、解決法の選択肢を示して、原則として当事者の選択に任せることは技術的中立性と言って支援上の常識である。しかし、支援を要する原因となる事実が本当かどうかを疑ってかかるという中立性は、道徳的中立性と呼ばれるもので、支援そのものを成り立たせなくする悪習だと言える。
この悪習から逃れることがどんなに難しいかは、行政窓口の担当者の大半がそれに陥っていることからもわかる。
これは古来からそうだったようで、そこで発明されたのが文殊菩薩信仰である。
文殊菩薩信仰は、文殊菩薩が 貧窮者 、孤独者、病気や苦悩を背負う衆生に身を「やつして」支援者の前に現われ、支援者自身の救済の機会を与えるというものである。あるいは相談者を文殊菩薩と見立てて大事に扱う。
目の前のずるそうな、嘘ばかり言っていそうな、貧しい身なりの者が、実は文殊菩薩ではないかと思ってみることができれば、正しい支援に少しは役に立つか。というより、古来こんな方法しか偏見克服の技術は発展してこなかったのである。
江戸時代以前のこの方法を現代日本で使うにはどうしたらいいだろう

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