もう一度、「ケアの倫理」とクソ「正義の倫理」について
もう一度、「ケアの倫理」と「正義の倫理」について、その関係を整理してみた。政府用語の互助、共助、公助を用いているのがミソである。
①互助と共助のなかで働いている心理や道徳が「ケアの倫理」。男性支配の中ではケアは女性に押し付けられ、女性が「ケアの倫理」を育んできた。女性のものだというので不当に無視・軽視された。女性は援助や思いやる力をそのなかで搾取されてきた。
②公助の中で働く理屈がクソ「正義の倫理」。本来は政府や制度を運営して行くための社会契約理論。男性が独占したため硬直、形骸化、功利主義化してクソになった。なのに、女性はクソ「正義の倫理」を使いこなせないので発達が低いとされた。
③クソ「正義の倫理」をその中から打破しようとしたのがロールズ「『公正』としての正義」やセン「ケイパビリティ・アプローチ」。
④互助と共助が運動の中で公助に昇華するとき、ケアが地方自治の中心に位置づく。ケアの倫理がクソ「正義の倫理」を解体し、正義の倫理がロールズ・センの方向で一新される。
⑤ケアの倫理と正義の倫理が一体化する。ジェンダー差別も消えていく
ミソやクソが飛び交うこれを口にして主張するのは若干憚られるが、デヴィッド・グレーバーの「ブルシット・ジョブ つまりクソつまらない仕事」という用語の先例もあるので、まあいいのではないか。
ところで、ここで「正義の倫理」とされていいるものは、ロールズやセンの正義、つまり「公正としての正義」とは、関係がない。大きく社会契約論の中に含まれるという点で共通するくらい。
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