大石誠之助
ローカル政治新聞の今月分の寄稿を締め切り3日前に書き上げたので、気が早くも次回寄稿分の下書きを書いてみた。今日注文した、幾分か研究書のようである本を読み終えて、訂正していくつもり。
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先に鎌倉時代の抜きん出た社会福祉活動家であった僧 忍性について書いたが、忍性の活動拠点であった鎌倉の極楽寺の鎮守社は1269年(文永六年)に忍性自身が熊野本宮から勧請した熊野新宮社である。忍性と熊野信仰を結びつける両者の共通点は、庶民・貧民・被差別者に開かれる平等性にあったように思える。熊野信仰のそういう特異さは多くの人が指摘しているから間違いのないことだろう。
そこで連想が飛躍するのは、1911年大逆事件という大謀略・冤罪事件で処刑された12名の中の唯一の医師、大石誠之助のことである。大石は和歌山県新宮市の人で、「アメリカ帰りの新しい医術が光っている上に、患者には至って優しく、貧しい人々に対しても極めて気安く診察する上、診察料も薬代も積極的には請求しない」医師だったとされる。当時の熊野川の河口近くの河川敷に集まっていたホームレスの群衆の治療や健康管理に当たったともされており、それは時を越えて忍性を想起させるものがある。
大石誠之助と熊野信仰について述べている人はいないようなので、若干無理筋の展開のように思えるが、大石誠之助をもうひとりの民医連の先行者としたい。
大石誠之助については、読みやすくて面白い二つの小説がある。辻原 登『許されざる者』2009年と、柳 広司「太平洋食堂」2020年である。
辻原 登は芸術院会員として著名だし、柳 広司も瀬長亀次郎と山之口貘に題材を取った『南風(まぜ)に乗る』2023年で注目を浴びたので、上記2作品もよく知られていると思える。
これらを参考にしながら、著作も多くない大石の思想を推測すれば、明治期のまだ分裂が明瞭でなかったマルクス主義・アナキズムだったと思える。
つまり、日本の医療をおおう土着的風土がアメリカ風の医学やマルクス主義・アナキズムと結びついたとき何が生まれるかという実例が大石誠之助だったということができるような気がする。
大石自身は思想よりは実践が目立つ人だったようであるが、それは仏教とりわけ文殊菩薩信仰の影響の強かった忍性とも共通する。
ごく乏しいこの2例で何かを言うのは無謀だが、その後、レーニン流のマルクス主義との合流で生まれる無産者診療所運動の特徴も、この時代が大きく違う二人の先行者の特徴と共通しているのではないかという気がする。
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