発展史というものがありえるのか
民医連理念の歴史をたどることからソーシャル・ワークの今後を展望するという話を引き受けて、最初はそう難しくはないと思っていたのだが、実は相当難しいことがあると分かって来た。
まず、何かの発展史のようなものがあるのかということ。
変化はあるが、状況依存的、つまり偶然性が高く、その中に必然的、法則的な発展方向は見出せないのではないか。
たまたまかってなく右肩上がりに人口、生産力が増えた2、3百年の中に生きているから、直線的な発展史があるように思えただけで、それを保証するものはどこにもないのではないか。
次に、資本主義が産業生産力を次第に失いながら、資本の支配と富の独占はどこまでも強固になって行くのではないかということ。気候変動が地球の居住可能性を侵食しても、居住可能地が支配層に独占されるだけということになるのではないか。
つまり、人類が落ち込んだ罠として資本主義があるので、そこから抜け出す道が必然的に浮かび上がり、自由の王国が見えて来るわけではないのではないか。
おそらくエンゲルスはそう考えていなかったが、マルクスにはそれが分かっていたのではないか。
そんな話に悩み始めると、だからみんな頑張りましょうという結びは語れなくなってしまう。
もちろん、今だけに視野を限り、明日の目標を近似的に語ることはなんとかなるが。
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