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2024年1月31日 (水)

2024.1.31 県連理事会挨拶 

2024年最初の理事会になります。遅ればせながらあけましておめでとうございます。

しかし、単純におめでとうと言えないのが、一つはイスラエルのガザ攻撃の続行です。死者2万7千人、ガザ全体の人口が220万人ですから人口の1.2%が亡くなっています。負傷者はだいたいその5倍以上というところでしょうか。イスラエルのネタニヤフ首相はハマス全滅まで攻撃を続けると行っています。ハマスと住民の間に歴然とした境界があるわけではありませんから、まさに文字通りの民族皆殺しを意図したジェノサイドが進行中です。
これについては報道の量も多いのでこれ以上言うことはないのですが、問題は、アメリカが、ウクライナにしろパレスチナにしろ、国際紛争を武力で解決するという姿勢を変えることなく強めていることです。発端は何であれ、戦争を解決手段にしないという原則を超大国が守らない限り、悲劇がずっと続く21世紀になってしまいます。県連としても、ガザ、そしてウクライナでの即時停戦を求める集会を再度企画したいと思います。

おめでたい気持ちにならないもう一つが元日に起こった能登の地震です。人口減少の激しい過疎地を大災害が襲うと、救助・支援・復興がどんなに難しいものかが、山口県という過疎高齢県に住むものとしては他人事でなくわかります。被災地ではない東京でなぜか防災服を着た6党首が集まって現地入りを控えると申し合わせていたのは政治的パフォーマンスとしても異様に思いました。
報道はしても助けないのか、と言いたくなります。報道の中で聞いた言葉としては、元気で人助けをお願いしたい人は早々と地元を離れ、人に頼るしかない者だけが被災地に残されるというのがあります。少しづつですが、全国から支援が向かっているようですので、県連としてもなるべく早い時期に、支援と現状把握のための人を出したいと思います。

その他の情勢としてはこの春の診療報酬改定の中身が次第に分かってきているということがあります。救急を若年者と高齢者に分けて、高齢者救急搬送は「地域包括医療病棟」と「地域包括ケア病棟」で受けさせるという方向です。つまり協立病院の2階が前者、3階が後者ということになりますが、高齢者救急の質をさげるものではないか、受け取る現場に厳しい負担を課すものではないかという懸念がありますが、まだ詳細はよくわかりません。
しかし、否応なく政府の医療改革、医療再編に私達がこうして巻き込まれていくことだけは確かですので、ぜひ情報を早く職員全員で共有して、患者を守る、職員を守る方向で、深く検討するようにしないといけないと思います。このあたりでも、議論において誰一人放置しないという姿勢が求められると考えます。

さて、全日本民医連は2月22日から沖縄で第46回定期総会を開きます。議案も配られていますが、今回の議案の特徴は創立60周年に当たる2013年から創立71周年の今年2024年初頭までの10年間の振り返りが記述されていることです。
2010年に59年ぶりに綱領が改定され、その9年後の2019年に新綱領初の解説パンフレットが出されましたが、その後5年をカバーしていますので、ぜひそのパンフレットと合わせて読まれたらいいかと思います。

議案の内容については今後議論していくわけですが、中小病院の機能とアウト・リーチやソーシャル・アクションについて述べてあるところを少し注意して読んでいただければと思います。
中小病院の今後について、日本病院会という老舗病院の集まりが言い出した「地域密着多機能病院」が一つのモデルとして示されているのですが、どこか新味があるでしょうか。最初に述べた高齢者救急は基幹病院から排除するというのと似た方向性が感じられます。
むしろ医学書院の雑誌「病院」で10ヶ月連載された「コミュニティ・ホスピタル」のほうが新しい提案を含んでいたと思います。
またアウトリーチ、ソーシャル・ワーク、ソーシャル・アクションは、今後、日常診療と並ぶ2つの大きな職員活動領域になるものですが、それについて十分な記載がなされているでしょうか。そのあたりを念頭に活発な議論がなされることを期待します。

新年ですので、なるべく短い挨拶になるよう気をつけました。熱心なご参加をお願いして私のご挨拶といたします。

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