« 2023年11月 | トップページ | 2024年1月 »

2023年12月29日 (金)

モフセン・マフマルバフと国谷裕子

昨日の深夜、NHKのクローズアップ現代30周年特集でイランの映画監督モフセン・マフマルバフと国谷裕子が対話するのを見た。二人とも泣きながら話していたのだった。僕も一人で天井を仰ぎながら涙が流れるに任せた。無力な善意が孤独に光る地球の表層を思いながら。

長年アフガニスタンを取材 モフセン・マフマルバフさん
「忘れられていたアフガニスタンという国を思い出させるために私は映画を撮ったのです。いつも頭にあるのはアフガニスタンで多くの人が死んでいるのに、いったい私たちは何をやっているのだろうということです。親を求めて子どもたちが何百キロも歩いてきても抱いてあげる人は誰もいません。戦争で親が死んでしまっているからです」
国谷 裕子さん
「今、各国の人々に、特に今、日本にもいらしていらっしゃるんですけれども、何を期待されますか」
モフセン・マフマルバフさん
「私は黒澤明監督の映画を見て泣いたことがあります。日本にも貧困と飢えの時代があったことを知り、みな同じ人間だと思いました。イラン人とか日本人とかアフガニスタン人とか関係ないのです。この20年間に空から爆弾を落とすより教科書を落としていたなら、アフガニスタンはこうはなっていなかった。地面に地雷をまくよりも麦をまいていればアフガニスタンはこうならなかった」

 

 

https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4860/?fbclid=IwAR2soF66JLbFS1ZP6BLWrT5xuii0m-_2UscPX7QgrusZosw6Rcb3EX0Uouc#p4860_08

| | コメント (0)

2023年12月27日 (水)

2023.12.27 山口民医連理事会挨拶               

                
2023年も最後の理事会になりました。急に厳しい寒さが襲ってきた10日間で体調を崩された方もあるかもしれません。年末年始引き続きご自愛のほどお願いします。
この間の情勢でどうしても取り上げなければならないのはイスラエルのガザ攻撃が一層苛烈さを増したということ、安倍派を筆頭に自民党の金権政治が容赦なく暴かれつつあり、2022年7月8日の山上容疑者による安倍元首相殺害事件が思いもかけない連鎖現象を起こしていること、また沖縄の辺野古基地問題については、自民党政府の非道な仕打ちがさらに進行し、オール沖縄の民意を背負った玉城デニー知事の苦境が深まっていることです。

「ガザ 直ちに停戦を」を訴えた宇部協立病院の垂れ幕は注目されています。集会で話して頂いた北海道民医連の猫塚先生と、「北海道パレスチナ医療奉仕団」で先生の同志である室蘭工業大学の清末愛砂さんの書籍「平和に生きる権利は国境を超える」(あけび書房)が緊急出版されましたが、これの普及をぜひ訴えたいと思います。
この本を読むと、そこでも書かれていることですが、ガザと沖縄はよく似ていると思えます。

ガザ停戦を求める集会・デモも一度きりで終わらないで何度も繰り返す必要があると思います。ガザで病院が攻撃されているのを見るのは、同じ病院で働くものとして耐え難いものがあるので、この次は山口大学病院その他の地域の病院に働きかけて医療者総出の集会として企画したいと思います。医療系の学生と手を結ぶ好機だという捉え方もしないといけません。

沖縄の問題は、来年2月の民医連総会が沖縄で開かれるので、参加する代議員を中心に見聞を広めて取り組みを強めていきたいと思います。

自民党政治中枢の腐敗・空洞化が明らかになっている問題では、どうして政権交代が当然だという圧倒的世論にならないのかとむしろ不安に思います。少し想像力を働かせてほしいのですが、この状態を狙って誰かが軍事クーデターを起こし、めぼしい与野党議員や活動家を拘束して維新あたりを内閣首班に担ぎ上げてしまうとしたら、もしかしたら抵抗勢力がすぐには現れないのではないかと思いませんか。議会制民主主義を守る勢力の大同団結、政権交代を願うところです。

目を民医連の内側に向けて、先日あった県連会長研修会に提出した私の報告を添付しておきたいと思います。
『1  今期(第45期)、県連として力を入れてきたことをご紹介ください。

「ソーシャル・ワークを土台にした医療活動」、「コミュニティ・ホスピタル」の概念を軸に中長期計画の策定に向けての議論を活発にした。ソーシャル・ワーク委員会を新設したり、再開された医師団会議の議論を重視した。
県連理事会と合わせ行なう「宇部学講座」を重視し、気候危機、貧困(生存権裁判問題)、原発などに職員の視野を広げるとともに、これらの問題での広域の協同を強化するよう工夫した。

県庁所在地で民医連空白地である山口市を重視し、共同組織との間での、とくに生活相談・高校生や大学生対策での協力を深めた。

2  来期(第46期)に向けてさらに進めたいことや課題、全日本民医連の方針として強化するとよいと思うことなどをお書きください。

民医連と「地域主権・地域循環経済・ケアの自給・男女平等」を一体のものとしてとらえ、新たな共闘のあり方を追求したい。
独自課題としては、中国山地の再生を目指す農業・再生可能エネルギー・自然保護運動とも接点を広げたい。』

加えて、ごく最近のできごとですが、地域福祉室が自らの友の会、名前は「メロスフレンド」を組織したことに注目しています。一般的な共同組織の強化と並行して、各診療単位、事業所単位で、患者会や家族会などテーマ別の共同組織を強化するというのが今後必要だと思います。療養病棟や介護事業所で定期的に家族会が開かれて、職員と家族が膝を突き合わせて病棟や事業所のあり方を話し合うというのは、事業所利用員会の方針とすべきように思います。

今日の「宇部学」は山口大学・山口県立大学名誉教授の安渓遊地先生にお願いして、幅広く深い世界的な視野に基づいて、現在過疎に苦しむ中国山地の生活の中に点っている今後の心躍る展望をお聞きすることにしています。これを聞いて農業や太陽光発電の重要性に気づき、自ら足を踏み出して行く人が出てくるのを期待しています
熱心なご参加をお願いして私のご挨拶といたします。

| | コメント (0)

2023年12月14日 (木)

民医連という新しい時代の運動形態

近縁にありながら対立しあう潮流の影響をすべて抱え込みながら、いわば大河のように進んでいくのが民医連なのだろう。

例えば、
仏教とキリスト教、
エンゲルス的マルクス主義とフェビアン社会主義、
社会契約論としてのリベラル平等主義による「正義の倫理」とフェミニズムの到達点である「ケアの倫理」、
垂直的な「国民連合政権」戦略と水平的な「地域主権主義」戦略、

プロフェッショナルとしてのスペシャリスト志向とジェネラリスト志向
などが渾然一体となっている民医連。

民医連独自のベクトルがあるとすれば、「民衆志向で、患者・弱者の立場に立つ」というくらいしか思いつかない。

しかし、その独自ベクトルの存在を遡れば、鎌倉時代辺りまで追っていけるのではないか。

| | コメント (0)

2023年12月13日 (水)

老後の関心領域の分散


マルクスの晩年は関心領域が分散した結果、さして実りのないものになって、そして彼は黄疸を発し、嘔吐が止まらない中で死んだというのが、これまで信じられて来たことだった。
斎藤幸平が明らかにしたのは、そういう通説は誤りで、マルクスは必要な関心領域を自然に絞り、自然と社会の二元論の壮大な展開を図って多大な成果を挙げながら、それらを未完のままにして死んだということだった。

ところで、その話と比べようもないことだが、僕も老後の関心領域の制御できない広がりに苦しむ1人である。どの話題も読み込めばきっと面白い、その気になれば読み込むこともきっとできると思う。
しかし、診療が終わる午後9時には必ず疲弊し切っている。なのにアマゾンで届く本はどんどん溜まるという悲惨さが日々深まっていく。

| | コメント (0)

二元論が必要


民医連が東京を筆頭にした大都市部と大小の県庁所在地にのみ限定して、これまで通り立脚し続けるなら、人口の大半を押さえることはなお可能である。

しかし、それは選挙には有利でも、未来を見通すには決定的に不利だろう。

世界は人間の社会だけでできているのではなく、少なくとも社会と自然の二元論の立場は必要だからである。

野生動物が跋扈する里山、耕作放棄地の広がりがそこからは見えない。




| | コメント (0)

クネビン・フレームワーク

今日は、藤沼康樹をエッセイとして読む読書会3回め。
前回は「省察的実践」についての延長で、東大教育学部の佐藤学さんの論文も読み合わせたのだが、今回は臨床問題の複雑性と生涯教育の話。
臨床で生じる問題を複雑性の順に単純、複合、複雑、混沌と分類して、それぞれに学習方策を立てる。
コツコツ独習できるのは単純な問題に限られる。
それも一生続けなくてはならない難物なのだが、複合以上は一人では対処できないので、支援を調達しないといけない。複合はスペシャリストで足りるが、複雑は病院内外の幅広い人的資源が必要だ。
さらに混沌問題となると、それに対峙することで傷を負うチームメンバー(自分も含めて)のケアが大切となる。それが事後の集団での省察ということである。

おそらく特異経験significant eventというのは担当することでトラウマを負うようなものを言う。
診療していてネガティヴな気持ちになることが貧困発見や、複雑事例の複雑さの認識となるのに似ている、こういうのは主観的な認知による客観的な判断への糸口把握と言うべきか。

ところで、上記の「単純、複合、複雑、混沌」の4分割は、経営学由来の「クネビン・フレームワーク」という用語で表現されるらしい。クネビンはカネビンというのかもしれないが、ウェールズ語で「棲息地」という意味とのこと。なぜウェールズ語が出現するのかは知らない。

医療現場も製造・販売(営業)の企業現場もぶつかる問題は共通することが多いのだろう。役に立つなら何でも使うという姿勢が臨床ということなのか。

 

**クネビン・フレームワークの続き。
棲息池について考える。

フナの棲む池。そこでの学習はフナに始まってフナに終わる。

ザリガニの鳴く池。意外性に満ちているが後味は爽やか。

車や家電ゴミが沈む池。時にすでに亡くなっている人の第一発見者になって驚く。

ゴジラの棲む池。こんな狭い空間にこんなものが潜んでいるのかと腰を抜かす。

| | コメント (0)

2023年12月 1日 (金)

2023.12.2 山口民医連 看護介護症例検討会 挨拶

熱のこもった抄録集を拝見して、大変楽しみに参加しました。

多くは困難事例の中の困難事例というべきもので、まとめてくださった皆さんの努力に頭が下がる思いがしました。ありがとうございました。

それから、この集会の名前が、看護介護「症例検討会」となっていることについて少し考えました。つまり、なぜ看護・介護 「研究会」ではないのだろうかということです。そこに大事な意味が隠されて気がします。

ちょうど今、私は中くらいのベテランの先生2人で、藤沼康樹さんという日本の家庭医療のパイオニアにあたる人の文章を、学習するというよりあえてエッセイとして読む読書会を始めたところです。松本翔子先生のように家庭医療の専門医になるというような目的とは遠いところで、家庭医療のエッセンスを嗅いでみようという程度の気軽なものです。良ければ皆さんも是非途中からでもご参加ください。

その中で、職業人としての成長には、振り返り、家庭医療学の用語で言えば「省察」というものが大事だ、そしてそれは、事のさなかの省察、一段落した直後の省察、少しあとになってみんなで教訓を共有する省察の3段階に分かれるのだということなどには共感しました。このことは山口民医連学運交・TQMの終わりの挨拶でも紹介したことなので繰り返しませんが、この集会も省察を共有する貴重な会になることを願っています。

今は、家庭医療の生涯学習のあり方について読んでいます。
遭遇する問題を4つに分類して、それぞれ対応の仕方を意識的に変えるというのがキモになります。
第一は単純な問題。マニュアルやガイドラインがあれば対処できる問題です
こういうことは職場環境を整えることが重要で、例えば業務用スマホをみんなに配って、誰もがマニュアルやガイドラインをすぐ読めて、さらに自分なりのコツを書き込めるようにしておけばより早く達成されます。

第二が複合的問題です。いくつも病気があって、関わる医者や介護事業所も多いが、うまく連携できれば解決する問題です。
ここでも、業務用スマホを介して関係者がLineで結ばれていれば垣根低く教えたり教えられたりすると思えます。
ここまではテクノロジーが役に立って、目標を「解決」におけることです。

しかし第三は複雑な問題です。
貧困があり、狭心症・糖尿病・うつ病の治療がうまく行かず、アルコール問題・法的問題、・家族問題を抱えているという事例を想像してもらえばよいというものです。

さらに第四は混沌とした問題と呼ばれます。コントロール不可能な問題が無秩序にからみあっているため、今後の展開を予測することができないというものです。

この第三と第四は解決は難しく、とりあえず状況をおちつかせる、あるいは破滅に陥らせないことが目標になります。つまり、今日の事例検討会に出てくる演題の殆どがこの第三、第四に当たるものだと思います。
その対処はテクノロジーでは無理で、実は今日のような症例検討会を多職種で続けるしか方法がないということになります。第三は、徹底に聴くことを通じて症例検討会でなんとか合意を作れるもの、第四はそれもできなくて「ともかく関わりを続ける、見捨てない」行動を続ける、としかいえないものということもできます。

思うに、私たちの前に現れる患者さん・利用者さんは、全員が第三、第四の問題を抱えている人たちばかりで第一、第二の問題と見えるものは、私達が解決可能な部分を切り取って、残りを見ないで済ませているだけなのだとは言えないでしょうか。たとえ本人にはなくても家族の問題としてあるのに気づかないでいるということもあると思います。

つまり、複雑・混沌とした問題に直面するというのは、患者・利用者の人生そのものに向かい合っているということであり、向かい合うことが私達が職業人としての自分の人生を生きているということにほかならない、いわば対称的なものではないかと思います。
症例検討で問題が解決したり、いつかはその経験が役立つことが約束されているわけではまったくない、しかし事例を経験すること自体が職業人として生きていることそのものであり、経験の記憶を薄れさせない、より確かなものにするために集まって症例検討会を開くと言い換えてもいい気がします。
少し気障に言えば「症例検討会の本当の目的は記憶のケアだ」ということにならないでしょうか。
そこで症例検討会参加の作法とは、「どう解決した?どう成長した?」と思って聞く評価的態度をとるのでなく、一人の仲間の職業人生にしばらく伴走するつもりで最後まで黙って聴き切るということになるような気がします。
もちろん指導者側の人はそんなことも言っていられないのでしょうが、症例検討会そのものが無限の価値があるということをのべて、県連会長としての挨拶といたします。

| | コメント (0)

事例検討会の本当の目的は記憶のケア

今はそうでもないのかも知れないが、指導医もいない中で手探りのように内視鏡をしていると、偶然に生検したものが早期胃癌だったりする。それを何度か繰り返している内に、急に胃の形態が見えるようになり、もう偶然ではなく、そこに早期癌があるから生検して確かめるという時が来る。
その時の物の見え方の変化というのは、例えば同じものを角度を変えて撮った写真を左右に並べて凝視していると突然立体画像が立ち上がる、という経験に似ている。
こういう単純な作業の繰り返しから階段を上がって行くのは面白いし大事なことだ。
初心者からレギュラーメンバーになるというのはそういうことだが、それだけでは齢を重ねていくことはできない。
実は、単純なことの繰り返しによる習熟では歯が立たないことでこの世界は出来ている。
他には似たようなことはなくて、その一件と付き合うことが、そのまま自分の人生であるようなことの連続が、職業生活の真相ではないだろうか。
その経験が何かに応用出来る保障もなく、ただむき出しの経験としてそこにあることに気づくとレギュラーからベテランになっているのだろう。人によっては嘔吐をもよおすような話かも知れないが。
その経験をすること自体が人生に意義を与えてくれる。
しかし経験の記憶は薄れて行くから、記憶を守るためには語らなければならない。
事例検討会の本当の目的は記憶のケアである。
そのような記憶の発表を黙って最後まで聴くこと自体がまた別のかけがえのない経験になる。
個別事例を多数集めて帰納して、なんらかの一般的教訓を導き出すという目標は多くの人にとっては嘘くさい。
そもそも、母の介護を上手にやってのけるために、先に死ぬ父の介護を経験するという人はいない。二番目の子の子育てを上手にやるために最初の子の子育てをするという人もいない。一件一件が人生そのものという経験である。
しかし、中には経験からのパールを結実させる人もいて、それをエキスパートというのかも知れない。尊敬し、学ぶ対象だが、決してめざすものではない気がする。

| | コメント (0)

« 2023年11月 | トップページ | 2024年1月 »