それは無意味ではない
昨夜は高橋源一郎『一億三千万人のための「歎異抄」』朝日新書を一気に読んだ。それくらいわかりやすい。
小学校低学年のころ、親鸞の伝記漫画を、他に読むものもないとき、それは毎日、一日5回位繰り返し読んでいたので、親鸞が日野氏という下級貴族の生まれだたとか、最初の名が範宴(ハンネン)だったことなどは覚えていた。
法然の教団が弾圧され4人が処刑、7人が流罪というのも知っていたが、4人の処刑ということの意味は小学生にはわかっていなかった。いま思うとすごい話だと思う。当時の政権にとってそれほど脅威ではなかったのに。
さて、もし僕に浄土の約束というものがあるのであれば、僕の死後にも僕の僅かな痕跡を残した世界が必ず残るという約束、それが浄土だという認識である。
それよりも、阿弥陀については、徒手空拳でいながら世界の人を残さず救うという決意をする一人の青年がいたと皆が信じることは美しい。呆然とするほどである。誰しもそういう決意が可能で、それが無意味でないという信仰なのだろう。
念仏は無関係。鎌倉時代には必要だったのだろう。
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