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2023年10月16日 (月)

2023.10.14 金沢 民医連学術運動交流集会 ポスター

「民医連理念史」探求の必要性

はじめに:

70年間に民医連綱領は3度の改定を経て現綱領は4番目の綱領である。民医連の理念は生きて常に変化している。綱領に代表される民医連理念も、綱領に限らず多彩な変遷を残している。現在、焦点となっている「ケアの倫理」も新たな民医連理念の一つとされるものと思う。

民医連の理念の変遷は世界や日本の社会・経済・思想の動きと密接に関係しており、その関係において理解されるべきものである。

この作業は個人に可能なことではなく、歴史研究者も交えた集団作業によって初めてなし得ることであるが、今回の作業は、そのごく粗い輪郭を描き出した上で「ケアの倫理」の位置づけを試みようというものである。

その方法については、文学を通して日本の思想史の全体像に迫った加藤周一「日本文学史序説」に学んで、民医連が時代時代に遭遇した思想潮流から影響を受け、旧いものに新しいものが加わっていく「合流」として、民医連理念の変遷を見ることができるとして進めた。

以下に輪郭を示したものは、そういう合流のごく顕著な数例と言える。

 

1:前史 

民医連運動は単に第2次大戦後に日本に起こって今日に続いている医療の民主化運動ではない。

日本における民衆志向・平等志向医療の歴史の総体を引き継ごうとするものである。それはおそらく日本の歴史の奥深いところまで根源を求めることができるだろう。

その一端は13世紀鎌倉時代の仏教僧忍性や17世紀の儒医 貝原益軒の医療実践、18世紀の農村医師 安藤昌益、三浦梅園の著作などである。中でも忍性は鎌倉の極楽寺を拠点にハンセン病他の患者に対して幅広い医療活動を行なっていた。また安藤昌益については徹底した平等論者で江戸時代の封建主義身分制を全否定した。これらは仏教、儒教と民衆志向医療の合流を示すものとして理解できる。ただし、安藤昌益は外的な影響のない独自の民衆志向・平等志向だったかもしれない。

民医連の直接の先行者は、第二次大戦前のプロレタリア医療機関運動「無産者診療所運動」である。これは民衆指向医療と社会主義・マルクス主義との合流の中で生まれた。それに先行する、あるいは隣り合うものとして、大逆事件に連座して死刑となった医師大石誠之助の和歌山県新宮市での活動や、賀川豊彦などキリスト者によるセツルメント運動があった。

これらについても、マルクス主義やキリスト教が手段として医療を組織したというよりも。民衆志向の医療がそれらに触れて誕生したものと考えたい。

 

2:日本国憲法との合流

1953年創立された全日本民医連は2010年に3回目の綱領改定を行ない

「日本国憲法は、国民主権と平和的生存権を謳い、基本的人権を人類の多年にわたる自由獲得の成果であり永久に侵すことのできない普遍的権利と定めています。しかし、その権利はないがしろにされています。私たちは、この憲法の理念を高く掲げ、これまでの歩みをさらに発展させ、すべての人が等しく人間として尊重される社会をめざします」

と日本国憲法を全面的に肯定した。これは大きな変化だったが、振り返ってみると、やはり1990年前後のソ連圏崩壊・冷戦終結、その後新自由主義の全ロシア・中国を繰り込んでの席巻という世界情勢変化と、日増しに強まる自民党の9条改憲策動に対し、日本国憲法との合流が決意されたものと思える。それから今日まで、平和的生存権と基本的人権が民医連理念の中心に座っている。

なお憲法25条の生存権の由来については1990年以降の研究により興味深いことがわかっている。

憲法25条は実は占領軍GHQの憲法草案のなかには存在せず、社会党所属の国会議員 鈴木義男の提案で挿入され、「生存権」と名づけられたことが清野幾久子らにより明らかになった。鈴木義男は戦前の厚生経済学者 福田徳三から生存権思想を受け継ぎ、福田徳三はドイツのアントン・メンガー(1841-1906)からを影響受けた。アントン・メンガーはイギリスのフェビアン社会主義から強く影響を受けて生存権を唱えたのだった。つまり、民医連理念の重要部分に国家を支配の道具というより社会福祉の道具と考えるフェビアン社会主義の影響が受容されたことになる。

 

3国連の健康戦略(リベラル平等主義、「公正としての正義論」)との合流

日本国憲法の合流と並行して、じつはより注目されるもう一つの合流があった。

それは国連の健康戦略との合流である。

日本の憲法で言う生存権は世界的には健康権(right to health)と呼ばれる。健康権は1948年のWHO憲章と世界人権宣言で文言としては確立した。その後も国際人権規約経済的社会的文化的権利に関する規約12条(1976)、国際規約人権委員会「経済的、社会的および文化的権利に関する国際規約」第12条「健康権に関する一般的意見第14」(2000)でくり返しほぼ同じ内容が宣言され続けている。

実はこうした宣言が繰り返されるということ自体が、宣言のみでは現実は何も変わらなかったことを意味している。

健康権が実現するためには理想的な宣言を繰り返すことは無意味で、何らかの具体的な実践上の戦略が必要とされたのである。

しかし、健康戦略の足取りも実際には容易でなかった。第一段階は1978年のアルマ・アタ宣言で始まった。プライマリ・ヘルス・ケアと呼ばれたこの戦略はアメリカとソ連の覇権争いの中で非政治的な枠内に閉じ込められ、部分的、選択的なものにしかならなかった。

1986年のオタワ憲章から始まった第2段階の健康戦略ヘルス・プロモーションも新自由主義の猛威の中で、社会の改革よりも自己責任を前提とする「個人のエンパワーメント 」に重点を置くものとなった。日本では「健康日本21」という官製健康運動が厚生労働省を中心に展開されたが、ほとんど成果を挙げることができなかった。

健康戦略が実際に世界の人々の健康を改善する展望を得たのは、マイケル・マーモットによって「健康の社会的決定要因」SDHが確立され、SDHの視点に基づくヘルス・プロモーションという第3段階の健康戦略が出現したときである。マイケル・マーモットを委員長とするWHOSDH委員会は2008年「一世代のうちに格差をなくそう」という最終報告を発表してその健康戦略を、新自由主義に対抗するものとして揺るぎないものにした。このとき積み重ねられた健康権の各宣言もようやく実質的なものになったといえる。

民医連は日本のなかでは先駆けてこの第3の健康戦略を熱心に学び、民医連の理念とSDHに基づく新しいヘルス・プロモーションの合流が起こった。SDHを確かな事実だと呼ぶ意味合いの「ソリッド・ファクツSolid Facts」は民医連全体の合言葉となった。1960年代後半に民医連の特徴として自然発生的に成立していた「病気を労働と生活の視点で捉える」という姿勢はSDHを先駆的に意識したものと解釈された。

この健康戦略は政治倫理においては「リベラル平等主義」と呼ばれるもので、「健康格差の解消」、「公正としての正義」を目指すものである。

日本国憲法との合流後の民医連は、「健康格差の解消」、「公正としての正義」を自らのものにすることに精力を注いだ。J-HPHの設立もその一環である。

 

4:「ケアの倫理」の登場

新自由主義による貧困と格差の深刻化のみならず、高齢化の進行、東日本大震災、気候災害の激甚化の中で「健康格差の解消」、「公正としての正義」のみでは捉えきれない別のニーズが社会の中に強まってきた。

私達が現実に遭遇する不正義は、貧困と病気の悪循環のみならず、それに由来する孤立である。しかし、不正義にさらされる結果として弱さを抱え、心を閉ざし、ときに共感をも拒む人々に結びつき、配慮し、支援する実践の中では、「自律と社会参加」をめざす「正義の倫理」とは別の、「依存と支援」の「交換」を人間の本質だと考える倫理原則を必要とする。それが「ケアの倫理」と呼ばれる。

しかし、「ケアの倫理」が突如として現れたわけではなく、それに至る長い歴史がある。最も強調すべきことは「ケアの倫理」はフェミニズム運動のなかで結晶してきたものだということある。

ケアはこれまで女性によって担われ発展させられてきたものであり、そしてケアを担うこと自体がその人を脆弱な立場に追い込んで行ったことも明らかになった。介護労働者の賃金が不当に低いのはそれを直接に反映している。

改めて「ケアの倫理」を社会の普遍的な原理とすることは、女性の復権、つまりフェミニズムの実現に等しい。逆に言えばケアの倫理によってフェミニズムが普遍性を獲得すると述べることもできる。

いま民医連は30年間の憲法との合流過程をはるかに超えた大きな合流に臨んでいる。「フェミニズムとの合流」である。それは日本国憲法14条が「人種、信条、性別、社会的身分又は門地により差別されない」と宣言しながら、なぜか実態として実現させられなかったどころか最近は明らかに悪化させてもいる「平等権」をより深いところで取り戻すものでもある。

「ケアの倫理」は「健康格差の解消」、「公正としての正義」を乗り越えながら、それと相補的に今後の民医連運動の2軸をなすものである。

振り返れば民医連にとって「ケアの倫理」の実践は目新しいものでなく、古くは医療における「共同の営み」論(莇 昭三)、家庭医療学のなかの「患者中心の医療」(マクウィニー)や、ソーシャルワーク実践は「ケアの倫理」の表現の一つだったと捉えることができる。

さらに、かって国家を支配の道具でなく社会福祉の道具だと捉えたフェビアン社会主義も、これからの気候危機解決をめざす「地域主権主義(ミュニシパリズム)」「FEC自給圏をめざす地域循環経済運動」も「ケアの倫理」-フェミニズムとの密接な関連のなかにある。

「ケアの倫理」-フェミニズムに基づいて今後の民医連運動に要請される変化は

①「患者中心の医療」の実装

②ソーシャルワークを医療介護活動の土台にする構造づくり

③住民自治による地域循環経済確立への積極的参画が挙げられる。

しかし、実践の場では企業統治との軋轢が続く苦しい自己変革過程になるので、それによる犠牲者を生まない理性的な前進を図るべきである。

人口減少地域の県連においてはこのことが切実で、以上の3点を同時並行で進めない限り後継者獲得はありえず、消滅があるだけである。

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