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2023年10月16日 (月)

2023.10.14 金沢 民医連学術運動交流集会 読み上げ原稿

無謀な演題を出してしまって、若干後悔していますが、採用してくださった実行委員会にお礼申し上げます。いまのところ学運交しか発表する場のないテーマだと思っていたので、発表できてとても嬉しいです。

 

今回まとめたことは全日本民医連の理事会に10年間いる中で、民医連の医療理念がどのように生まれてくるのかということに興味を覚えたところから始まります。

純粋に内部の論議の深まりによる場合もあるのでしょうが、それよりも民医連の外側にある、世界の様々な考え方に民医連が出会って、苦闘しながら理解し、取り込む、そこから新しいものが生まれていると感じました。

それにたいして「合流」という言葉を思いついていたのですが、そのおおもとは、評論家加藤周一さんの「日本文化は雑種文化だ」という主張でした。

 

加藤周一さんによると雑種文化というのはいわば、ベクトル合成です。日本文化の固有の姿は直ちにはわからない。外来文化が日本に入ってきてベクトル合成されてどう変化していくかを集めて見れば日本文化固有のベクトルが後から分かると彼は考えたのですが、民医連の理念についても同じことが言えるのではないかというのが僕の発想でした。

 

民医連の理念の変遷していく歴史をそのような「合流」の結果としてみれば、そこで初めて民医連の本質が分かり、将来の変化の見通しもつくのではないかと考えてみました。

 

もとよりこの作業は個人的に可能なことではなく、社会科学の研究者も交えた集団作業によって初めてできることですが無理を承知で、今回はごく粗い輪郭を描いてみました。

 

結論のところでは、いま焦点になっている「ケアの倫理」を取り上げ、さらにそれを人口減少著しい過疎地域である山口の県連の長期的展望にもつなげてみたいと思います。

 

まず民医連が生まれる前は何があったのだろうと考えてみました。新しい発見がいくつかあったのですがここでは省略します。

 

いよいよ民医連が創立された19532010年の変化も同様に論じる事ができると思いますが、僕の少し先輩の人々が多くのことを書いている時代ですので、遠慮して省略します。

 

2013年の現在の綱領以降を眺めてみたいと思います。

この綱領の最大の特徴は日本国憲法との合流です。

「日本国憲法の理念を高く掲げ、これまでの歩みをさらに発展させ、すべての人が等しく人間として尊重される社会をめざします」と日本国憲法を全面的に肯定しているのが特徴です。こう変わった理由は、やはり1990年くらいから明らかになった新自由主義の圧倒的な権力にどう対抗していくかというところにあったと思います。

 

新自由主義は、第2次大戦後に資本主義世界に広がった「福祉国家路線」を叩き潰して、労働者の権利を奪い去ることに目標があったわけですが、その新自由主義に対抗するには、50年以上前に戻っても、日本国憲法の平和的生存権思想に依拠するしかないという認識だったのだと思います。

 

では1946年の日本国憲法とは何だったのかが問題になりますが、源は「国家を支配の道具でなく社会福祉の道具」とする19世紀後半-20世紀前半のイギリスのフェビアン社会主義にさかのぼります。

 

しかし、それだけで新自由主義に対抗できるかという実は不足のではないかと思います。たしかに憲法を深堀りすると13条の幸福追求権、14条の平等権などの根源的なものに突き当たりますが、だとしても解釈の問題という限界があります。

 

そこで、リベラル平等主義をさらに深めていた国連やWHOの健康戦略との合流が必要になってきたのではないのでしょうか。

 

国連、WHO自体も繰り返す人権「宣言」の無力さを克服するために、プライマリ・ヘルス・ケア、ついでヘルスプロモーションと、何度も実践課題としての健康「戦略」を練り直していますが、2000年代の民医連の目に飛び込んできたのは、マイケル・マーモットの「健康の社会的決定要因」SDHでした。

マーモットさんを委員長とするWHOSDH委員会は、アマルティア・センの指導のもと、ケイパビリティの平等を掲げた2008年の「一世代のうちに格差をなくそう」という最終報告を発表して、それに基づく健康戦略、より新しいヘルス・プロモーションを、新自由主義に対抗する揺るぎない方針にしました。

 

民医連は日本のなかでは先駆けてこの健康戦略を熱心に学びました。生活と労働から疾患を捉えるという、民医連独自と思われた方法論もSDHによって直観から科学的根拠を持ってものになりました。

 

しかし、新自由主義による貧困と格差の深刻化のみならず、高齢化の進行、東日本大震災の経験、世界的な難民の増加、気候危機の激甚化の中ではSDHに基づくヘルス・プロモーションでもなお捉えきれない別のニーズとそれに対応する視点が生まれてきました。それは孤立する弱い人同士の「依存と支援」の繋がりこそが人間や社会の本質だと考える「ケアの倫理」です。

 

これは突如として現れたわけではなく、フェミニズム運動のなかで結晶してきたものだということです。むしろさまざまに分裂してしまったフェミニズムをまとめ、再生するのが「ケアの倫理」だったとも言えます。

振り返れば民医連にとって「ケアの倫理」はけっして目新しいものでなく、古くは医療における「共同の営み」論(莇 昭三)、家庭医療学のなかの「患者中心の医療」(マクウィニー)や、ナラティブに基礎を置く医療を新しい視点で復活するものと言えば分かりやすいと思います。

 

更に気候危機と貧困・格差の解消をめざす「地域主権主義(ミュニシパリズム)」「FEC自給圏をめざす地域循環経済運動」も「ケアの倫理」-フェミニズムとの密接な関連のなかにあります。

 

そこで「ケアの倫理」-フェミニズムに基づいて今後の民医連運の県連に要請される長期計画を考えることができます。

 

①「患者中心の医療」や省察的実践の実装

②ソーシャルワークを医療介護活動の土台にする構造づくり

③エネルギーと食糧自給めざす地域循環経済確立への積極的参画

 

人口減少地域の県連においてはこのことが切実で、以上の3点を同時並行で進めない限り後継者獲得はありえず、消滅があるだけだと思います。

実は、この萌芽的な実践は、開設してもうすぐ2年になる山口の地域福祉室からので奉告として、別演題がありますのでそちらもぜひご覧になってくださるようお願いして発表を終わります。

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