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2023年10月31日 (火)

日本医療のベクトル

もしかすると小さな会報に連載できるかもしれないので、やや長めのエッセイを書き始めた。どう結ぶかはもう考えたが、中間部分は書いてみないとわからない。
下の写真は、参考にせざるを得なかった2冊である。

1:2008年春から2018年春までの10年間5期、私は全日本民医連の役員を務めた。新任理事としての56歳は当時としては最高齢だった。後の6年間3期は副会長となったが、異例の遅い出発と、4役を送り出すこともありえないような全国最小規模の県連出身という立場に、私の自意識は少しだけ複雑だった。加えてもともと「1を知って10を語る」ことを学習のモチベーションとするような性質だったのが災いして、「10を調べて1を語る」手堅さが喜ばれる組織では、何気ない発言も自己流発揮と受け止められがちだった。この小文もその続きのように思われるかもしれない。それは仕方がないのだが、誰か手堅い人がいつか取り上げてくれて、厚みのある論証にしてくれるのを期待して書き始めることとする。

2:新任理事に選出された第38回総会には、2年後の39回総会で決定される、全日本民医連の新綱領の草案が提案された。草案と新綱領の間にどういう違いがあったかは興味深いところで後に触れることにもなるが、2010年の新綱領提案の最大のポイントは、日本国憲法の全面的評価だった。日本国憲法の理念が民医連の目標となったのである。
それから10年以上を経て、私はこの綱領改定を民医連の理念と日本国憲法の「合流」という言葉で考えるようになった。
それは新綱領改定を民医連の歴史だけでなく、日本や世界の文脈のなかに置いて、やや距離をおいた視点で眺めなおそうということだったし、そのようにものを考える方法に「合流」という概念を用いる方法を思いついたということである。
自発的にそういう作業を私に課してきたものが何かというと、自分にとってはやはり特別な出来事 significant eventだった10年間の全日本民医連役員の経験そのものだったことは間違いがない。私はそれを省察することなしに、自らの70歳代も、私が存在しなくなったあとの民医連も考えることができかったのである。

3:省察の途中で生まれた言葉が「合流」だった。それを手がかりにすると民医連の歴史が過去にも未来にも向かって少し見通せた気がした。その発想についても説明しようと思う。しかし、全ては素人の思いついたことである。結局、断章を重ねていくエッセイとしてしか叙述することはできない。それによってむしろ気軽な読み物になりうるワクワク感を自分のなかに感じる。

、「源流から引き継ぐもの 50年の歴史から民医連の機軸を考える 阿部 阿部昭一 Abe Syoichi エイチ・エム・メディカル協同組合 メディカル協同組合」というテキストの画像のようです


 

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2023年10月29日 (日)

マイノリティのそういう未来

いま書こうとしている長めのエッセーの終わりの部分を思いついた。たいていはどう終わるかわからないままに書き始めるのが常だったが、この休みにブラッド・ピット「バビロン」という映画をNetflixで見ていて、いま書こうとしていることなら、最後から書いたほうが面白いと気づいたのである。

:人口集中した大都市部に住む人たちがどう生きるかという問題と、地方の過疎地域に住む人たちの同じテーマは、もはや相対的に独立した問題である。80年前まではこのように分裂してはいなかっただろうが、いまは画然と違う。
近代の歴史を振り返るときはまだ同じ立場で語ることができるが未来の議論になると共通基盤は消失している。

たとえば、地域主権、ミュニシパリズムという目標になる言葉は同じでも、実践の戦略は全く違う。

連帯は欠かせないとしても、闘う主体はそれぞれである。

全国的に見て圧倒的に重要なのは前者だが、後者も当事者にとっては絶対的なテーマであり、福島に典型に現れたように東京に利用された挙げ句に自らの生存条件を奪われるということを繰り返し続けることはもう止めにしないといけない。

マイノリティのそういう未来を指し示すものがどこから出てくるかは、いまのところ見当がつかない。準備されているだろうが見える条件にないのである。

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2023年10月26日 (木)

相談なんかするんじゃなかったー相談による二次被害

同書でもう一箇所記憶に残ったところ。

、「相談したり、 助けを求めたりした結 果、 助けてもらえるどころか、 面倒く さがられてしまう。 イライラされてし まう。 怒られてしまう。 説教されてし まう。 こうした現象を本書では二次被 害と呼びたいと思います。 二次被害 は、 いたるところで起きており、 私た ちを苦しめている現象です。 中村英代 嫌な気持ちになったら、 どうする? ーーネガティブとの向き合 い方(ちくまプリマー新書) #kindlequotes」というテキストの画像のようです

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『嫌な気持ちになったら、どうする? ──ネガティブとの向き合い方 (ちくまプリマー新書)』中村英代著

中村英代「いやな気持ちになったらどうする」のなかで一番参考になったところ

『ある時、よく知っている女子学生から電話で相談を受けていると、魔の時間帯がやってきました。彼女はあることに不満を持っていてその不満をしばらく聞いていたところ、私のなかに「そんなこと言っても、仕方ないよな」という思いが湧きあがってきたんです。私は彼女に対して非受容的になったことがなかったので、なんだろうと思い、ともかく亀になり、体にぎゅっと力を入れて、黙って話を聞き続けました。  
 こうしてしばらく亀になっていたのですが、ある瞬間、張りつめていた私の心はふわっとほどけ、体の緊張がすっと抜けると同時に、その女子学生も前向きなことを話し出したんです。彼女を取り巻く状況は現実的には何も変わらず、具体的な解決策も特にないまま、私までなぜだか前向きな気持ちになり、さわやかな気持ちで電話を切りました。  
 この電話の直後、「あ、これだ」と、確かな手ごたえを感じました。  
 魔の時間帯には、「この人は、なんでこんなことを不満に思うのだろう」という気持ちになって、受容する心から遠のいてしまいます。「文句を言ったって、仕方ないじゃないか」と。でも、これは私の思いではなく、相手のネガティブに感染して一時的にネガティブにとり憑かれているだけなのだということを、この時理解しました。』

—『嫌な気持ちになったら、どうする? ──ネガティブとの向き合い方 (ちくまプリマー新書)』中村英代著から引用

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長生きの秘訣

子どものころは田舎の家のどこでも、つまり縁側でも仏間でも、台所でも納戸でも、眠くなったところにそのまま寝てしまうことが多い子どもだったが、僕の記憶としては毛布をかけられる刺激で目をさますことが多かった。
寝ているときに毛布をかけられることは何でもないことだが、それがなかった人に比べると、それが自分の長生きに幾分影響している気がする。

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ローカル政治新聞への寄稿

少し前の雑誌「世界」に向井和美『読書会という幸福』という連載があった。これを詳しく読んだのは、人口激減地方の民医連の後継者対策として、たとえば高校生相手に自分にできることがあるとすれば読書会くらいではないかと思い、その方法を学ぼうとしたわけである。
読んでいるうちに手っ取り早く実際に読書会を始めてみたくなった。医学生2人と病院職員数人で齋藤幸平『人新世の「資本論」』を読んでみることにしたが散々な失敗だった。社会科学系の読書会は僕の周辺では難しいという教訓を得た。やはり小説からしか始まらない気がした。
そこで小説といえば、最近驚くべき作品に出会った。僕にとってはガッサン・カナファーニー『ハイファに戻って』、野上弥生子『迷路』、李恢成『見果てぬ夢』以来のもの。
それはハン・ガン(韓江)という1970年生まれの韓国の作家による『少年が来る』である。
6月のある日、少し早く目が覚めて放送大学を見ていたら 「世界文学への招待」という番組で翻訳家 斉藤真理子さんがこの作品を講義していた。それがとても感動的だった。すぐに検索したが、ハン・ガンは世界で最も注目されている作家で、1980年の光州事件を描いたこの評価の高い作品も2016年には日本語に翻訳・出版されていた。隣国の文学への無知を恥じた。
光州市出身とはいえ、当時は10歳で国外にいた彼女が今になって事件と正面から向き合ったのは、数千人という虐殺犠牲者の記憶のためという理由も当然あるが、それだけではない。韓国の友人から紹介された現地のインタビュー記事では、おそらく深刻なPTSDによるだろうが、自殺率が11%に達している事件生存者に対し「それでも死なないで」と訴えたかったということである。
そして読書会の話に戻るが、この小説こそぜひ読書会を開いて病院職員と共有したくなった。全7章を1年近くかかっても朗読し合うのは貴重な体験になるのは間違いなかった。
呼びかけると、意外な喜びというか、60歳代から20歳代まで5人の職員参加者があり、すでに3章までを終えた。
ゆっくり読んでいくと誰かが顔を覗きに来る気がする。それが事件で殺された『少年が来る』ということなのだった。

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医療生協の理事長を16年もやってしまうと・・・






岡山協立病院の高橋 淳先生から祝電をもらった。ありがとうございました。
医療生協の理事長を16年もやってしまったというので県生協連が推薦してくれた。
しかし民医連の県連会長の方は、25年くらいもやってしまうと、後継者作りを考えないのかと叱られるだけだろう。
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2023年10月25日 (水)

2023.10.25  山口民医連理事会挨拶  

ようやく涼しくなったと思うと 夜は10℃未満という寒さにとまどうこの頃ですが、皆様会議参加ご苦労さまです。

101314日は石川県金沢市で全日本民医連の学術運動交流集会があり、山口県連からも県連規模からみると十分に多いと言える8演題が発表されました。演者はもとより関係者の皆さんご苦労さまでした。

私も久しぶりに発表しました。とても風変わりな内容だったので全日本の増田会長も見に来てくれたのですが、ちょうどこのとき、ガザではイスラエル軍が北部からの地上侵攻の準備を進めており、宇部市の1.3倍しかない面積の中に宇部市の13倍の220万人住むガザ北部の100万人以上の人に南部に避難するよう勧告をしていました。しかし北部には合わせて760床という2つの大きな病院があり、そこにいる病人が移動できるはずもないという切迫した事態でした。

考えれば、このときに全日本学術運動交流集会としての緊急決議を提案すべきでしたが、そこまで思いつかず、宇部に帰った夜に、会長に緊急声明を出す必要をメールしました。そして17日には全日本民医連として即時停戦を認める声明が出ました。

その後、ネットのニュースによると、昨日24日、国連ではアメリカのブリンケン国務長官も人道支援のため緊急停戦を提案したようです。怒ったイスラエル大使はグテーレス国連事務総長を「あなたの国連運営は最低だ」などと攻撃し辞任を求めたといいます。世界の声は圧倒的に停戦を求める方向に向かっていますが、全日本民医連がいち早く姿勢を明らかにできたのは良かったと思います。

私の発表について少し触れると、全日本民医連の医療理念の歴史を探る意義を唱えたものですが、とくに2010年の約50年ぶりだった綱領改定の意味を改めて見直して、いま焦点になっている「ケアの倫理」とのつながりを探ろうと考えました。
綱領改定は日本国憲法と民医連の合流という意味合いでした。そういう綱領改定も、「ケアの倫理」による「フェミニズム、共同」の「再発見」も、ともに新自由主義による「福祉国家の否定と労働者階級攻撃」への対抗という目的が両者の底に共通してあります。
そのなかで2010年には「まちづくり」とされていた概念が、いまでは「地域主権」に発展していることも発表を通して見えてきました。今後、さらに深めていきたいと考えています。

全日本民医連学運交発表者の感想は、あとでまた別途お聞きできればいいかと思います。

 

その他、ここ1ヶ月間に注目したこと2点について触れておきたいと思います。

 

一つは上関町に中国電力と関西電力の使用済み核燃料の中間貯蔵施設を作ろうとしている件ですが、108日に共産党の笠井亮衆議院議員が山口県に来て講演した記録を読むと、それがどういうものか、より具体的に想像できます。

瀬戸内海国立公園のただなかにある長島という島の標高180メートルの山を崩して、森林を切り払って巨大な建屋を作る。使用済み核燃料は船で運んで来るので、ふもとに巨大クレーンを備えた港を作り、港から建屋までは135トンの荷物を載せられるタイヤ48本の大型トレーラーが行き来する専用道路を結ぶというものです。

なかなか想像しにくいですが、とてつもない自然破壊をおこなうものとわかります。そこで10万年に及ぶ保管を続けるとなれば、どう考えればいいのか、ということです。

 

もう一つは、滋賀民医連の「医療生協こうせい駅前診療所」の佐々木隆史先生たちが始めた一般社団法人「みどりのドクターズ」の活動です。

気候危機に取り組む医療機関として気候危機の情報発信と、気候危機で損害を被りやすい社会的弱者への対策づくりなど「を掲げています。

食料自給への関わりと同じく、すべての医療機関が取り組むべき普遍的な課題を探るものとして注目しました。山口民医連も近隣の医療機関にこういう趣旨を呼びかけられるといいかと思います。

 

今日は部会形式となっていますが、熱心なご議論をお願いして挨拶といたします。

 

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2023年10月24日 (火)

省察的実践が成り立つ環境

省察的実践が成り立つ環境というものがある。僕の周りの看護師さんを見ていると、先輩や同僚から攻撃されないための行動が多すぎる。
僕への「え、そんなことまで、この深夜に聞いてくるの?」という頻繁な電話もそうだ。

 

 

、「失敗から学ぶために必要な のは奇烈な追及ではなく 安全な孤独だ。 つまり、 見 守られている中での孤独で ある。 痛みを伴う現実と向 き合うためには、 誰かに支 えられている必要がある。 東畑開人 ふつうの相談 #kindlequotes」というテキストの画像のようです

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読書会を始める

非営利・協同総合研究所命と暮らしニュース 8月31日号に寄稿したものを再録しておく。

 

雑誌「世界」20201月号から20218月号にかけて向井和美という人の「読書会という幸福」という連載があった。最近一冊にまとめられて岩波新書になった。この連載を詳しく読んだのは、同じく2021年の「世界」のどこかで、高校生と一緒に「世界」の読書会を続けている高校教員の記事を見たからである。

このころ地方の民医連の後継者対策の肝要に地元の高校生との交流を置く必要を痛感していて、その際自分にできることがあるとすれば読書会の企画くらいではないかと思い、そのノウハウを学ぼうとしたわけである。

向井さんの連載を読んでいるうちに手っ取り早く実際に読書会を始めてみたくなった。県連の奨学生である医学生と医学生係の職員、地域福祉室の職員とで齋藤幸平「人新世の『資本論』」を読んでみることにした。ベストセラーで入手しやすく安価でもあったからである。学生用は県連が購入して配った。しかし、これが散々な失敗だった。朗読でもなく、要約でもなく、感想を雑談で語り合うという形式にしたが、予定した11時間を終えるのが苦痛になってしまった。マルクスや「資本論」についての予備知識があまりにばらばらで意見交換にならなかったわけである。結局2回目を終えて自然消滅してしまった。

 というわけで、社会科学系の読書会は僕の周辺では難しいという教訓を得た。

 向井さんの本を見ても、全部が文学というか、小説である。小説からしか始まらない気がした。

 

 そこで小説といえば、最近驚くべき作品に出会った。数十年ぶりに、あぁこれはすごいと思った。

 しかし、それをすぐに語る前に、これまで僕が忘れられない小説を三つ挙げておきたい。いずれも政治小説というべきもので、今ではあまり語られることもないものだ。

 第一はガッサン・カナファーニー「ハイファに戻って」。NHKの過去の番組表を検索すると1982729日夜と分かるのだが、NHK教育テレビの「マイブック」に小田実が出演してこの作品を紹介した。41年も前だが、今も勤務している宇部協立病院を開設してまだ2ヶ月経たない時で、僕は30歳だったわけである。

小田実の話をメモして、北九州市小倉北区の老舗書店 金文堂に探しに行った。小熊英二に似た繊細な感じの店員が「あそこだったら自分の出した本を大切にしているから手に入りますよ」と出版社を褒めながら注文伝票を書いてくれ、まもなく購入できた。蒼樹社 「アラブ文学選」(野間宏編集、1974年)という本だった。

小説の舞台はパレスチナである。1948年イギリス軍とユダヤ人部隊が大砲と銃でパレスチナ人から土地と家を奪いイスラエルを建国した。20年後の1967年イスラエルは突然に難民として暮らすパレスチナ人に故郷訪問を許可する。自分たちの国家経営の成功を見せつけるためである。その機会にハイファという街を訪れた夫婦にはそこに残してしまった赤ん坊がいた。生死も分からないまま20年が経ってしまったのだ。家は昔のままに残り、ナチスによる迫害経験もあるユダヤ人女性が夫婦を温かく迎え入れた。なんと子どもはこの女性に大事に育てられ、名前も変わって成人していた。勤務先から帰ってきた彼はイスラエルの軍人だった。それから先の緊迫した場面はここでは省略するが、作者カナファーニーが1972年イスラエルの特殊部隊によって若くして暗殺されていることもあって、いつ読み返しても鋭い痛みを感じる作品である。

 

 第二は野上弥生子「迷路」。作者が20年間(193656)もかけて書いたものなので、僕も数年に亘って厚い上下の岩波文庫を持ち歩いていたが、読み終わった日ははっきりしている。1991410日に祖母が亡くなって、急遽帰った西中国山地の古い実家の暗くカビ臭い座敷でコートを羽織ったまま所在なく葬式までの過程を過ごしていた時だったからである。小説の中に現れる大地主の屋敷などとは比べようもないが、戦前がそのままに生き残っている空間という点では似ていた。その後の火葬場で、雪の中で満開に咲くコブシの花を眺めていると、祖母の死とともにこの本を読み終わったという感銘があった。加藤周一によると、この小説は「一世代の日本の知識人の内面史として、おそらく比類のない作品」、「天皇制を、一方ではマルクス主義の立場から、他方では徳川体制の立場から、挟撃して相対化して批判するという仕組み」、「その意味でも日本近代文学史上の一つの記念碑」である。だとすると、日本文学の中で最高の政治小説と評価して誤りはないのではないか。

 

 第三は李恢成「見果てぬ夢」(1977年完)。これは早逝した後輩の呼吸科医 吉野邦雄に1983年ごろに教えられたものである。全6巻をこれまで5人くらいの人に貸したが、一気に読み終えなかった人はいなかったくらいである。さらに20138月の自分のブログを見ると、東京に来た韓国の医師と深夜まで話し込んでこの小説についても意見交換している。作者の主張する「土着の社会主義」といえば、大邸市の喫茶店で「韓国独自の社会主義政党が必要だね」と話し合っただけの数人の学生が逮捕され、見せしめのためあっという間に死刑となった1975年の事件もその時昔話ではなかった。

 

余計なことを書いて本題から逸れたが、驚くような作品というのはハン・ガン(韓江)という1970年生まれの女性の作家による『少年が来る』である。

2023年623日の朝、少し早く目が覚めてたまたま放送大学を見ていたら 「世界文学への招待」という講義が始まり、チョン・セランのベストセラー「フィフティ・ピープル」の翻訳者でもある韓国文学翻訳家 斉藤真理子さんがこの作品を解説していた。それがとても感動的で新鮮だった。

ハン・ガンは世界から最も注目されている作家の一人で、1980年の光州事件を描いたこの作品もすでに世界的にも高く評価されており、2016年には日本語に翻訳・出版されているということなので、こちらが無知というほかはない。

光州市出身とはいえ、当時は10歳で国外にいた作者が、40歳過ぎて光州事件を題材とする小説を書いたのは、事件の死者の代弁という側面も当然あるが、それだけではない。韓国人道主義実践医師協議会代表のウ・ソッキョン先生から紹介された韓国マスコミのインタビュー記事を見ると、作者は生き残った当事者の自殺率が11%という高さに驚き、「死なないで」という声を発したかったからだと語っている。

作品は7章からなる短編集の体裁をとっているが、第1章は聞き慣れない人の名前がたくさん出てくるのでなかなか入り込めなかった。しかし章を読み進める度に必ず第1章に戻って来ざるを得ず、改めて名前を確認することを繰り返して次第に登場人物が立体化されていく。光州事件の記憶がこうして定着され伝えられていくことに興奮した。

 

そこで読書会の話に戻るが、この小説こそぜひ読書会で病院職員と共有したくなった。一回1章ごとに読み進めて、1年近くかかったとしても、朗読し感想を交換して自分のなかにこの作品を埋め込みたくなった。

思い切って呼びかけると、意外な喜びというか、60歳代から20歳代まで5人の職員参加者があった。2023年8月4日に第一回を開いた。登場人物一覧表と、韓国近現代史年表は僕の方で用意した。文 京洙『新・韓国現代史』 (岩波新書2015年)がとても役立った。明治維新時の「征韓論」、その後の日韓併合、1945年の日本敗戦くらいまでさかのぼって知っておかないと、光州事件の背景は理解できないからからである。

読書会で「幼い鳥」と題された第1章をゆっくり読んでいくと、その幼い鳥が飛び立ち僕たちの顔を覗き込んでくるようだった。それが『少年が来る』ということなのだった。

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2023年10月23日 (月)

ジェネラリストであること

ジェネラリストであることはどの職業でも必要だ。つまり、それは人間であることが、すべての職業に必要だと言っているのと同じなのかもしれない。例外があれば教えてほしい。

 

、「大きなフォントの本文だけでは、 臨床はラディカ ルになりすぎる。 生活人として暮らし、 ときに実 存的に人生を歩む 「人間」 のものではなくなって しまう。 臨床学 「も」 必要なのである。 それ はすべての臨床家たちがすでに抱いている暗黙知 の集合体だ。 いまだきちんとした言葉にはなって いないけれど、 この社会を生きて、 現場での経験 を積み重ねることで身についた、 世間知と現場知 の塊だ。 この小さなフォントが本文にソッコミを 入れ、 臨床を社会的なものに、 人文的なものに、 人間的なものにしてくれる。 東畑開人 ふつうの相談 #kindlequotes」というテキストの画像のようです

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2023年10月16日 (月)

2023.10.14 金沢 民医連学術運動交流集会 ポスター

「民医連理念史」探求の必要性

はじめに:

70年間に民医連綱領は3度の改定を経て現綱領は4番目の綱領である。民医連の理念は生きて常に変化している。綱領に代表される民医連理念も、綱領に限らず多彩な変遷を残している。現在、焦点となっている「ケアの倫理」も新たな民医連理念の一つとされるものと思う。

民医連の理念の変遷は世界や日本の社会・経済・思想の動きと密接に関係しており、その関係において理解されるべきものである。

この作業は個人に可能なことではなく、歴史研究者も交えた集団作業によって初めてなし得ることであるが、今回の作業は、そのごく粗い輪郭を描き出した上で「ケアの倫理」の位置づけを試みようというものである。

その方法については、文学を通して日本の思想史の全体像に迫った加藤周一「日本文学史序説」に学んで、民医連が時代時代に遭遇した思想潮流から影響を受け、旧いものに新しいものが加わっていく「合流」として、民医連理念の変遷を見ることができるとして進めた。

以下に輪郭を示したものは、そういう合流のごく顕著な数例と言える。

 

1:前史 

民医連運動は単に第2次大戦後に日本に起こって今日に続いている医療の民主化運動ではない。

日本における民衆志向・平等志向医療の歴史の総体を引き継ごうとするものである。それはおそらく日本の歴史の奥深いところまで根源を求めることができるだろう。

その一端は13世紀鎌倉時代の仏教僧忍性や17世紀の儒医 貝原益軒の医療実践、18世紀の農村医師 安藤昌益、三浦梅園の著作などである。中でも忍性は鎌倉の極楽寺を拠点にハンセン病他の患者に対して幅広い医療活動を行なっていた。また安藤昌益については徹底した平等論者で江戸時代の封建主義身分制を全否定した。これらは仏教、儒教と民衆志向医療の合流を示すものとして理解できる。ただし、安藤昌益は外的な影響のない独自の民衆志向・平等志向だったかもしれない。

民医連の直接の先行者は、第二次大戦前のプロレタリア医療機関運動「無産者診療所運動」である。これは民衆指向医療と社会主義・マルクス主義との合流の中で生まれた。それに先行する、あるいは隣り合うものとして、大逆事件に連座して死刑となった医師大石誠之助の和歌山県新宮市での活動や、賀川豊彦などキリスト者によるセツルメント運動があった。

これらについても、マルクス主義やキリスト教が手段として医療を組織したというよりも。民衆志向の医療がそれらに触れて誕生したものと考えたい。

 

2:日本国憲法との合流

1953年創立された全日本民医連は2010年に3回目の綱領改定を行ない

「日本国憲法は、国民主権と平和的生存権を謳い、基本的人権を人類の多年にわたる自由獲得の成果であり永久に侵すことのできない普遍的権利と定めています。しかし、その権利はないがしろにされています。私たちは、この憲法の理念を高く掲げ、これまでの歩みをさらに発展させ、すべての人が等しく人間として尊重される社会をめざします」

と日本国憲法を全面的に肯定した。これは大きな変化だったが、振り返ってみると、やはり1990年前後のソ連圏崩壊・冷戦終結、その後新自由主義の全ロシア・中国を繰り込んでの席巻という世界情勢変化と、日増しに強まる自民党の9条改憲策動に対し、日本国憲法との合流が決意されたものと思える。それから今日まで、平和的生存権と基本的人権が民医連理念の中心に座っている。

なお憲法25条の生存権の由来については1990年以降の研究により興味深いことがわかっている。

憲法25条は実は占領軍GHQの憲法草案のなかには存在せず、社会党所属の国会議員 鈴木義男の提案で挿入され、「生存権」と名づけられたことが清野幾久子らにより明らかになった。鈴木義男は戦前の厚生経済学者 福田徳三から生存権思想を受け継ぎ、福田徳三はドイツのアントン・メンガー(1841-1906)からを影響受けた。アントン・メンガーはイギリスのフェビアン社会主義から強く影響を受けて生存権を唱えたのだった。つまり、民医連理念の重要部分に国家を支配の道具というより社会福祉の道具と考えるフェビアン社会主義の影響が受容されたことになる。

 

3国連の健康戦略(リベラル平等主義、「公正としての正義論」)との合流

日本国憲法の合流と並行して、じつはより注目されるもう一つの合流があった。

それは国連の健康戦略との合流である。

日本の憲法で言う生存権は世界的には健康権(right to health)と呼ばれる。健康権は1948年のWHO憲章と世界人権宣言で文言としては確立した。その後も国際人権規約経済的社会的文化的権利に関する規約12条(1976)、国際規約人権委員会「経済的、社会的および文化的権利に関する国際規約」第12条「健康権に関する一般的意見第14」(2000)でくり返しほぼ同じ内容が宣言され続けている。

実はこうした宣言が繰り返されるということ自体が、宣言のみでは現実は何も変わらなかったことを意味している。

健康権が実現するためには理想的な宣言を繰り返すことは無意味で、何らかの具体的な実践上の戦略が必要とされたのである。

しかし、健康戦略の足取りも実際には容易でなかった。第一段階は1978年のアルマ・アタ宣言で始まった。プライマリ・ヘルス・ケアと呼ばれたこの戦略はアメリカとソ連の覇権争いの中で非政治的な枠内に閉じ込められ、部分的、選択的なものにしかならなかった。

1986年のオタワ憲章から始まった第2段階の健康戦略ヘルス・プロモーションも新自由主義の猛威の中で、社会の改革よりも自己責任を前提とする「個人のエンパワーメント 」に重点を置くものとなった。日本では「健康日本21」という官製健康運動が厚生労働省を中心に展開されたが、ほとんど成果を挙げることができなかった。

健康戦略が実際に世界の人々の健康を改善する展望を得たのは、マイケル・マーモットによって「健康の社会的決定要因」SDHが確立され、SDHの視点に基づくヘルス・プロモーションという第3段階の健康戦略が出現したときである。マイケル・マーモットを委員長とするWHOSDH委員会は2008年「一世代のうちに格差をなくそう」という最終報告を発表してその健康戦略を、新自由主義に対抗するものとして揺るぎないものにした。このとき積み重ねられた健康権の各宣言もようやく実質的なものになったといえる。

民医連は日本のなかでは先駆けてこの第3の健康戦略を熱心に学び、民医連の理念とSDHに基づく新しいヘルス・プロモーションの合流が起こった。SDHを確かな事実だと呼ぶ意味合いの「ソリッド・ファクツSolid Facts」は民医連全体の合言葉となった。1960年代後半に民医連の特徴として自然発生的に成立していた「病気を労働と生活の視点で捉える」という姿勢はSDHを先駆的に意識したものと解釈された。

この健康戦略は政治倫理においては「リベラル平等主義」と呼ばれるもので、「健康格差の解消」、「公正としての正義」を目指すものである。

日本国憲法との合流後の民医連は、「健康格差の解消」、「公正としての正義」を自らのものにすることに精力を注いだ。J-HPHの設立もその一環である。

 

4:「ケアの倫理」の登場

新自由主義による貧困と格差の深刻化のみならず、高齢化の進行、東日本大震災、気候災害の激甚化の中で「健康格差の解消」、「公正としての正義」のみでは捉えきれない別のニーズが社会の中に強まってきた。

私達が現実に遭遇する不正義は、貧困と病気の悪循環のみならず、それに由来する孤立である。しかし、不正義にさらされる結果として弱さを抱え、心を閉ざし、ときに共感をも拒む人々に結びつき、配慮し、支援する実践の中では、「自律と社会参加」をめざす「正義の倫理」とは別の、「依存と支援」の「交換」を人間の本質だと考える倫理原則を必要とする。それが「ケアの倫理」と呼ばれる。

しかし、「ケアの倫理」が突如として現れたわけではなく、それに至る長い歴史がある。最も強調すべきことは「ケアの倫理」はフェミニズム運動のなかで結晶してきたものだということある。

ケアはこれまで女性によって担われ発展させられてきたものであり、そしてケアを担うこと自体がその人を脆弱な立場に追い込んで行ったことも明らかになった。介護労働者の賃金が不当に低いのはそれを直接に反映している。

改めて「ケアの倫理」を社会の普遍的な原理とすることは、女性の復権、つまりフェミニズムの実現に等しい。逆に言えばケアの倫理によってフェミニズムが普遍性を獲得すると述べることもできる。

いま民医連は30年間の憲法との合流過程をはるかに超えた大きな合流に臨んでいる。「フェミニズムとの合流」である。それは日本国憲法14条が「人種、信条、性別、社会的身分又は門地により差別されない」と宣言しながら、なぜか実態として実現させられなかったどころか最近は明らかに悪化させてもいる「平等権」をより深いところで取り戻すものでもある。

「ケアの倫理」は「健康格差の解消」、「公正としての正義」を乗り越えながら、それと相補的に今後の民医連運動の2軸をなすものである。

振り返れば民医連にとって「ケアの倫理」の実践は目新しいものでなく、古くは医療における「共同の営み」論(莇 昭三)、家庭医療学のなかの「患者中心の医療」(マクウィニー)や、ソーシャルワーク実践は「ケアの倫理」の表現の一つだったと捉えることができる。

さらに、かって国家を支配の道具でなく社会福祉の道具だと捉えたフェビアン社会主義も、これからの気候危機解決をめざす「地域主権主義(ミュニシパリズム)」「FEC自給圏をめざす地域循環経済運動」も「ケアの倫理」-フェミニズムとの密接な関連のなかにある。

「ケアの倫理」-フェミニズムに基づいて今後の民医連運動に要請される変化は

①「患者中心の医療」の実装

②ソーシャルワークを医療介護活動の土台にする構造づくり

③住民自治による地域循環経済確立への積極的参画が挙げられる。

しかし、実践の場では企業統治との軋轢が続く苦しい自己変革過程になるので、それによる犠牲者を生まない理性的な前進を図るべきである。

人口減少地域の県連においてはこのことが切実で、以上の3点を同時並行で進めない限り後継者獲得はありえず、消滅があるだけである。

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2023.10.14 金沢 民医連学術運動交流集会 読み上げ原稿

無謀な演題を出してしまって、若干後悔していますが、採用してくださった実行委員会にお礼申し上げます。いまのところ学運交しか発表する場のないテーマだと思っていたので、発表できてとても嬉しいです。

 

今回まとめたことは全日本民医連の理事会に10年間いる中で、民医連の医療理念がどのように生まれてくるのかということに興味を覚えたところから始まります。

純粋に内部の論議の深まりによる場合もあるのでしょうが、それよりも民医連の外側にある、世界の様々な考え方に民医連が出会って、苦闘しながら理解し、取り込む、そこから新しいものが生まれていると感じました。

それにたいして「合流」という言葉を思いついていたのですが、そのおおもとは、評論家加藤周一さんの「日本文化は雑種文化だ」という主張でした。

 

加藤周一さんによると雑種文化というのはいわば、ベクトル合成です。日本文化の固有の姿は直ちにはわからない。外来文化が日本に入ってきてベクトル合成されてどう変化していくかを集めて見れば日本文化固有のベクトルが後から分かると彼は考えたのですが、民医連の理念についても同じことが言えるのではないかというのが僕の発想でした。

 

民医連の理念の変遷していく歴史をそのような「合流」の結果としてみれば、そこで初めて民医連の本質が分かり、将来の変化の見通しもつくのではないかと考えてみました。

 

もとよりこの作業は個人的に可能なことではなく、社会科学の研究者も交えた集団作業によって初めてできることですが無理を承知で、今回はごく粗い輪郭を描いてみました。

 

結論のところでは、いま焦点になっている「ケアの倫理」を取り上げ、さらにそれを人口減少著しい過疎地域である山口の県連の長期的展望にもつなげてみたいと思います。

 

まず民医連が生まれる前は何があったのだろうと考えてみました。新しい発見がいくつかあったのですがここでは省略します。

 

いよいよ民医連が創立された19532010年の変化も同様に論じる事ができると思いますが、僕の少し先輩の人々が多くのことを書いている時代ですので、遠慮して省略します。

 

2013年の現在の綱領以降を眺めてみたいと思います。

この綱領の最大の特徴は日本国憲法との合流です。

「日本国憲法の理念を高く掲げ、これまでの歩みをさらに発展させ、すべての人が等しく人間として尊重される社会をめざします」と日本国憲法を全面的に肯定しているのが特徴です。こう変わった理由は、やはり1990年くらいから明らかになった新自由主義の圧倒的な権力にどう対抗していくかというところにあったと思います。

 

新自由主義は、第2次大戦後に資本主義世界に広がった「福祉国家路線」を叩き潰して、労働者の権利を奪い去ることに目標があったわけですが、その新自由主義に対抗するには、50年以上前に戻っても、日本国憲法の平和的生存権思想に依拠するしかないという認識だったのだと思います。

 

では1946年の日本国憲法とは何だったのかが問題になりますが、源は「国家を支配の道具でなく社会福祉の道具」とする19世紀後半-20世紀前半のイギリスのフェビアン社会主義にさかのぼります。

 

しかし、それだけで新自由主義に対抗できるかという実は不足のではないかと思います。たしかに憲法を深堀りすると13条の幸福追求権、14条の平等権などの根源的なものに突き当たりますが、だとしても解釈の問題という限界があります。

 

そこで、リベラル平等主義をさらに深めていた国連やWHOの健康戦略との合流が必要になってきたのではないのでしょうか。

 

国連、WHO自体も繰り返す人権「宣言」の無力さを克服するために、プライマリ・ヘルス・ケア、ついでヘルスプロモーションと、何度も実践課題としての健康「戦略」を練り直していますが、2000年代の民医連の目に飛び込んできたのは、マイケル・マーモットの「健康の社会的決定要因」SDHでした。

マーモットさんを委員長とするWHOSDH委員会は、アマルティア・センの指導のもと、ケイパビリティの平等を掲げた2008年の「一世代のうちに格差をなくそう」という最終報告を発表して、それに基づく健康戦略、より新しいヘルス・プロモーションを、新自由主義に対抗する揺るぎない方針にしました。

 

民医連は日本のなかでは先駆けてこの健康戦略を熱心に学びました。生活と労働から疾患を捉えるという、民医連独自と思われた方法論もSDHによって直観から科学的根拠を持ってものになりました。

 

しかし、新自由主義による貧困と格差の深刻化のみならず、高齢化の進行、東日本大震災の経験、世界的な難民の増加、気候危機の激甚化の中ではSDHに基づくヘルス・プロモーションでもなお捉えきれない別のニーズとそれに対応する視点が生まれてきました。それは孤立する弱い人同士の「依存と支援」の繋がりこそが人間や社会の本質だと考える「ケアの倫理」です。

 

これは突如として現れたわけではなく、フェミニズム運動のなかで結晶してきたものだということです。むしろさまざまに分裂してしまったフェミニズムをまとめ、再生するのが「ケアの倫理」だったとも言えます。

振り返れば民医連にとって「ケアの倫理」はけっして目新しいものでなく、古くは医療における「共同の営み」論(莇 昭三)、家庭医療学のなかの「患者中心の医療」(マクウィニー)や、ナラティブに基礎を置く医療を新しい視点で復活するものと言えば分かりやすいと思います。

 

更に気候危機と貧困・格差の解消をめざす「地域主権主義(ミュニシパリズム)」「FEC自給圏をめざす地域循環経済運動」も「ケアの倫理」-フェミニズムとの密接な関連のなかにあります。

 

そこで「ケアの倫理」-フェミニズムに基づいて今後の民医連運の県連に要請される長期計画を考えることができます。

 

①「患者中心の医療」や省察的実践の実装

②ソーシャルワークを医療介護活動の土台にする構造づくり

③エネルギーと食糧自給めざす地域循環経済確立への積極的参画

 

人口減少地域の県連においてはこのことが切実で、以上の3点を同時並行で進めない限り後継者獲得はありえず、消滅があるだけだと思います。

実は、この萌芽的な実践は、開設してもうすぐ2年になる山口の地域福祉室からので奉告として、別演題がありますのでそちらもぜひご覧になってくださるようお願いして発表を終わります。

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2023年10月 6日 (金)

塵肺患者に初診で在宅酸素療法を導入するように

7月に日本医師会の産業医の講習に行って、一番役に立ったのは、作業環境管理、作業管理、健康管理、人事管理の4段階の順序を学んだことである。
塵肺で考えると分かりやすい。防塵マスクを装着するように厳しく指導する前に、環境中の粉塵を減らす方が大事である。X線で塵肺の有無を見る健康管理は前の2管理が失敗した時に出番となる。配置替えは前の3管理が全滅したときの最終手段だ。
対人支援もこれに似ている。住宅確保や生活保護利用など生活環境の改善が一番。日々の暮らしへの食糧援助などはその次。情緒的サポートはその後の対策。
*下のマズローの欲求5段階説とも類似する。
もちろん、実際に何をするかは目の前の必要性によるので、塵肺患者に初診で在宅酸素療法を導入するように、支援者がそこにいると強烈に明示することから始まることも多い。
テキストのグラフィックのようです

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