省察的実践家としての自己鍛錬と組織的整備と教育の3っつを目指し続ける専門家像
昨日は、家庭医療の「家庭」とは、家族や家庭とは直接関係がなく、むしろ医療機関が患者にとって一種の家庭、medical 「home」 になる決意をすることだという、いわば意図的な意味のずらしを試みた。
とはいえ、familyとhomeは違うだろうし、野球でhome groundというように、homeには「拠点」という意味合いが強いとすれば、上記は強弁にすぎないのかもしれない。
今朝は未明に入院患者さんの、その時とは予期せぬ死亡を知らせる電話があり、死亡診断書についての当直医とのやり取りがあったあと、それについて考え込んでしまい、睡眠不足で霧がかかったような頭で出勤したのだが、その途中で別のことに気づいた。
生涯にわたる自己研鑽の方法論と、研修医教育の方法論が「省察的実践家」であり続けることをめざすものとして完全に一致しているのが藤沼先生の特徴だと言ってみたのだが、これはすこし違うのではないかということである。
医師は誰でも初期研修にあたっては家庭医療の素養を身につけるのが必須なのであれば、上記の特徴は別に藤沼先生に限らないのではないか。家庭医療の専門家すべてにあてはまるはずだ。
しかし「誰でも初期研修にあたっては家庭医療の素養を身につけることが必須」は決して自明のことではない。仮想の疾病傾向のため結核学や胃癌学や糖尿病学がすべての医師にとって特別重要なものとして初期研修の中心に位置づけられるなら、それぞれの専門医の生涯自己研鑽と初期研修医の指導は方向が一致するだろう。
だが、それぞれの領域別専門家の内発的動機に教育が位置づくかどうかは疑問である。生涯自己研鑽の重みが教育より遥かに大きいからである。
となると、「誰でも初期研修にあたっては家庭医療の素養を身につけることが必須」で家庭医療の専門家が初期研修指導で抜群の重みを担うことは、①疾病傾向と②家庭医療学会側からの幾分政治的な積極的働きかけ、③「人間」に対する「興味」という家庭医療医の特性から実現した3重に特殊な出来事である。
したがって、適用すべき(外部由来の)原理(たとえば診療ガイドライン)のアップデートのみが生涯自己研鑽の内発的動機という領域別的専門家像に陥らず、省察的実践家としての自己鍛錬と組織的整備と教育の3っつを目指し続ける専門医家像はやはり特殊で貴重なものである。
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