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2023年9月29日 (金)

医療生協 山口市事務所に 安渓 遊地さんを迎えて

今日の午後は医療生協 山口市事務所の最初の文化行事として安渓遊地(あんけい ゆうじ)さん
(1951年、富山県に生まれる。 1980年、京都大学大学院理学研究科単位取得退学。 沖縄大学、山口大学教養部、山口女子大を経て、1996年より山口県立大学教授 その後退職)
の自然と親しむ農業体験の絶妙な講演を聞いた。20人以上が集まった。


津和野の亀井記念館に孫文の「知難行易」(知るは難く行なうは易し)という揮毫があるが、まさに農業を自ら行なうという決意が問題だ、その決意さえ乗り越えれば、実行はついてくるということであった。 


「みんなで作る中国山地100年会議」というものもできている。中国山地では35歳以下人口が増えているということだ。

安渓さんの実家は富山県射水市の寺院だそうだ。下の左端の写真の3人のなかのおじいさんが安渓さん。おじいさんと言っても、おそらく僕と同学年。

安渓ってどこかで聞いた地名だと考えていたら、中国福建省にあるお茶の産地の地名だったことを思い出した。

写真のもう一枚は安渓さんのやっている営農型太陽光発電。

 

令和元年度空き家活用コンペティション受賞者の声(阿東つばめ農園:安渓大慧さん) - 山口市ウェブサイト阿東つばめ農園 安渓さん | 会員お薦め情報 | オーガニックやまぐち|山口市有機農業推進協議会


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2023年9月28日 (木)

ローカル政治新聞寄稿 

最近、病棟の担当患者数が個人史上最大となった。かって北九州市の民医連で初期研修をしていた頃、開拓時代の米西部のようだった同市の医療情勢を反映して、医師2年目の未熟さで担当していた30人前後がこれまでの記録だが、それを超えた。その時は25歳で今は72歳を目前にしている。体力低下を48年目の経験で相殺してはいるが、最終ステージに入ってなお右肩上がりに厳しくなる現状を見ると、自分の職業人生は配達先がないまま終わるのかという気持ちがよぎる。
という訳で、その気持ちを振り払うため読書会をいくつか始めることにした。前向きに何か伝えるにはもはや少人数の読書会しかない。
一つは小説を選んだ。昔から「小説の読書会のある病院」に憧れていたからである。最初はハン・ガンという韓国の作家の書いた『少年が来る』を取り上げることにした。1980年の光州事件という韓国現代史の原点となるべき事件-民主化を求めて立ち上がった市民への韓国軍の大虐殺をきちんと記憶に残そうという作品。1年かけてでもゆっくり朗読していくと、題材は残酷極まりないのだが、何故か心が澄んできて、逃げずに問題に向き合おうという気持ちになる。
二つ目は、藤沼康樹さんという、東京民医連の勤務医でありながら日本に「家庭医療学」を根付かせた人の論文を一人の思想家のエッセイとして読んでみようという趣旨の企画。実は「家庭医療」と「家庭」には直接関係がない。誤解を恐れずに言えば、医療機関が孤立した人の生涯の家庭になると決意することから始まる医療のことである。別に定期的に受診していなくても、何か困ることがあれば十年ぶりであろうと二十年ぶりだろうとOK、緩やかでも生涯伴走しているというサインを出すのが家庭医療なのである。子どもの頃読んだ親鸞の伝記漫画でいうと「同朋二人、お前の傍にはいつもこの親鸞がいる」というのに似ている。しかし、これを実現するためには、たえずやってくる解決の見えない新問題にもがきながら反省を重ねる「省察(せいさつ)的実践」の習慣化、組織化が欠かせない。それを疎かにしてきたことの結果を突きつけられているのが今なのではないかという後悔が頻りである。

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省察的実践家としての自己鍛錬と組織的整備と教育の3っつを目指し続ける専門家像

昨日は、家庭医療の「家庭」とは、家族や家庭とは直接関係がなく、むしろ医療機関が患者にとって一種の家庭、medical 「home」 になる決意をすることだという、いわば意図的な意味のずらしを試みた。
とはいえ、familyとhomeは違うだろうし、野球でhome groundというように、homeには「拠点」という意味合いが強いとすれば、上記は強弁にすぎないのかもしれない。

今朝は未明に入院患者さんの、その時とは予期せぬ死亡を知らせる電話があり、死亡診断書についての当直医とのやり取りがあったあと、それについて考え込んでしまい、睡眠不足で霧がかかったような頭で出勤したのだが、その途中で別のことに気づいた。

生涯にわたる自己研鑽の方法論と、研修医教育の方法論が「省察的実践家」であり続けることをめざすものとして完全に一致しているのが藤沼先生の特徴だと言ってみたのだが、これはすこし違うのではないかということである。

医師は誰でも初期研修にあたっては家庭医療の素養を身につけるのが必須なのであれば、上記の特徴は別に藤沼先生に限らないのではないか。家庭医療の専門家すべてにあてはまるはずだ。

しかし「誰でも初期研修にあたっては家庭医療の素養を身につけることが必須」は決して自明のことではない。仮想の疾病傾向のため結核学や胃癌学や糖尿病学がすべての医師にとって特別重要なものとして初期研修の中心に位置づけられるなら、それぞれの専門医の生涯自己研鑽と初期研修医の指導は方向が一致するだろう。
だが、それぞれの領域別専門家の内発的動機に教育が位置づくかどうかは疑問である。生涯自己研鑽の重みが教育より遥かに大きいからである。

となると、「誰でも初期研修にあたっては家庭医療の素養を身につけることが必須」で家庭医療の専門家が初期研修指導で抜群の重みを担うことは、①疾病傾向と②家庭医療学会側からの幾分政治的な積極的働きかけ、③「人間」に対する「興味」という家庭医療医の特性から実現した3重に特殊な出来事である。

したがって、適用すべき(外部由来の)原理(たとえば診療ガイドライン)のアップデートのみが生涯自己研鑽の内発的動機という領域別的専門家像に陥らず、省察的実践家としての自己鍛錬と組織的整備と教育の3っつを目指し続ける専門医家像はやはり特殊で貴重なものである。

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2023年9月26日 (火)

2023.9.27山口民医連理事会挨拶

暑さも、夜はようやく和らいできたここ数日ですが、長く続いた史上最高の酷暑に皆様殊の外消耗されていることと思います。そういう中の会議参加ご苦労さまです。

御存知の通り、情勢は様々に緊迫していますが、それぞれ議題に反映していますので、重複は避けます。熱心なご検討をお願いするものです。

今日は私の近況を述べて挨拶に変えたいと思います。
昨日、病棟担当患者数が36人になりました。一般病棟15人、地域包括ケア病棟13人、つまり急性期と亜急性期合計で28人、それに、慢性期=療養病棟8人という内訳ですが、これは私の47年間以上の勤務医生活の中でもかってなかった高負担状態です。北九州健和会での研修医2,3年目に担当患者数が極端に多かったのですが、それでも30人台後半にはならなかったのです。それにこのときは25歳でした。宇部協立病院創立後も15-20人で推移してきましたから、最近がいかに苛酷かは想像していただけると思います。
来年1月で72歳になります。まだまだ元気に診療できるというのは、それはそれで結構なことなのですが、すでに最終コースに入ってこういう状態であるとすれば、私の職業人生活は結局は実らなかった、失敗だったのではないかという気持ちがよぎります。同時にそうであってはならないとも痛切に思います。
先日、1977年の山口民医連創立時の初代会長だったY先生が、パートでまだ宇部協立病院の外来に来られていたのですが、急に引退されることになりました。高齢医師はこのように急に姿を消す可能性も高いことも考えて、私は思い立って、読書会をいくつか始めることにしました。
最近は病院の中でも一人で仕事をすることが多く、人と話すことが極端に少なくなっているのですが、読書会なら参加者は少なくても、まだ存分に語り残すことができるのでないかと思ったからです。

昔から、東京民医連のみさと健和病院の医局報を見ると、小説の読書会が盛んに開かれていることが窺われて、羨ましく思っていました。「小説の読書会がある病院」、そういうものを自分は求めていたんだと思います。そこで読書会の一つには小説を選びました。作品は、韓国のハン・ガン、世界でももっとも注目されている若い作家の書いた「少年が来る」です。1980年の光州事件という韓国現代史の原点となるべき事件、民主化で立ち上がった市民に対する韓国軍による大虐殺事件をきちんと記憶に残そうという作品ですが、1年間くらいかける予定でゆっくり読んでいくと、泣き言をいわず歴史と現実に向かい合おうという気持ちが自然に湧いてきます。今日の「宇部学」のテーマにも関連がありますが、沖縄のこと、原爆や原発のことも自分のこととして向かい合う気になるにはこういう読書体験が一方で必要だと思います。

読書会のもう一つは、藤沼康樹先生という、東京民医連にいながら、日本に家庭医療学を根付かせた人の文章を一人の思想家のエッセイとして読んでみようという趣旨のものです。昨日9月26日にその第1回を開きましたが、藤沼先生のキーワードである「省察的」=振り返りをする 実践について読みこみました。そこで気づいたのは、3段階ある振り返り、①診療の中で遭遇した事件の最中のもがくような振り返り、②一旦事件が終わって集団で行なう振り返り、そして③それに基づいてこれから先の目標を決めていくような振り返り、これら3段階のうち②、③をきちんと組織化、習慣化、制度化することがなかったので、いつの間にかそのこと自体を忘れていたということです。振り返りを習慣として行えば、それはナラティブ=物語となって、他の職員や研修医に経験を伝えることになったのですが、それが欠けていました。
藤沼先生の一つの特徴として、医師の職業としての自己研鑽・自己完成と若い医師の教育を、方法論としても実際としても一体化しているということがあると思いますが、私としてはその双方を疎かにしてきたことになり、その結果としての今の高負担があるようにも思います。
というわけで、後悔しきり、というところなのですが、こういう気持ちをみなさんと共有することが、今の自分にできる県連への貢献なのかと考えましたので、こんな暗い挨拶をするに至りました。ご容赦ください。

残暑というのもおかしい時期のまだまだ昼間の暑さの厳しい折ではございますが、皆様のご自愛を祈って挨拶を終わります。

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省察的実践家についての読書会スタート

以下の3論文をテキストにした読書会を今日からスタートした。

『ショーンは省察的実践家として成長するためには、この段階まででは足りないとしている。省察的実践家として成長する専門家は、この驚きや予想外の事態が終了したあとの振り返りをきちんとやっているという。この事後的な振り返りを「行為に基づく省察」(reflection on action)という。事態が終わった後に「あの事態はなんだったのか」「どういう意味があるのか」というテーマについて、できればチームや同僚で、忌憚なく話し合ってみることが重要なのである。そして、この振り返りから新たな自分なりの実践の理論を導き出し、また自分のプロフェッショナルとしての成長の課題を見出し、学びの次のステップを具体的に設定してみるということが、reflection on actionの目的である。特にこの次のステップの設定は最も重要なものであり、自分自身の課題を認識し言語化するプロセスを近年「行為のための省察」(reflection for action)と呼ぶようになった。』

『家庭医療の現場は驚きにみちている。もし、驚くことはあまりないと感じているのなら、それは家庭医療ではないかもしれないと思った方がいいだろう。「驚くことができること」これが家庭医にもとめられる究極の臨床能力であるといえるかもしれない』

というようなことを学び、

『よく「言語化することが大事だ」という。
今ひとつ理解し難いのではないか。
「ナラティブ化する。自分の主観を通した物語として語れるようになる」といえば、より分かりやすい。
ナラティブとして伝えられないことは、現場で役に立たない』ということを考えた。
ところで、佐藤学先生は僕と同い年で、同じ広島県出身なのだ。ということは川本隆史さんとも共通点が多いということである。

藤沼泰樹
https://fujinumayasuki.hatenablog.com/entry/2017/04/09/203555

佐藤学
https://www.jstage.jst.go.jp/pub/pdfpreview/kyoiku1932/63/3_63_3_278.jpg

兒島亜紀子
https://omu.repo.nii.ac.jp/record/3102/files/2010000380.pdf

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人生相談

今日は一時的にではあるが、自分の担当患者数の新記録を達成した。
今朝引き受けて少し手間を要したケースだが、高齢の尿路感染、敗血症性ショック、DICという患者は誰も引き受けたがらないのだ。
まだ元気だと自分で思うのはそれでいいが、来年そうそう72歳になる民医連医師の総決算がこの担当患者数だというのは、喜べるものではない。
結局、自分の職業人生は失敗だったのかと姜尚中先生に人生相談の投稿をしようか。
「失敗を抱きしめて生きることも立派なことです」という返事が来るのだろう。

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2023年9月22日 (金)

省察的実践者






ケアの実践者が専門家として自己を確立し、高い評価を得るための道筋はどのようなものであるだろうか。言い換えると「ケアの倫理」の実践とはどういうものとして発展していくのか、つまり「伴走的に支援する」ためにはどうすればいいのかを考えるのに、佐藤学の30年前の論文が役に立ちそうである。
https://l.facebook.com/l.php?u=https%3A%2F%2Fwww.jstage.jst.go.jp%2Farticle%2Fkyoiku1932%2F63%2F3%2F63_3_278%2F_pdf%3Ffbclid%3DIwAR3h5Hf64bztAGaAHGP0D7TgtZRUYsNbSnohgmRYGy84g-_g5ghfZMSVr9U&h=AT24LbWo5W0SDZTELuBwN-S5OdVXlV2cOkC9lnbyGazgMEEvb6FM151KtEjMsjL5V4LquhxoWp_HLWHCCPqofO6C1z74cWhF3tgChyI3auTzbGEeUeB-5zNGnsbixBFrLrbJ&__tn__=-UK-R&c[0]=AT2AFUSwiDJ-81siVPTlLhGQYPcJd3-_PeWQxOdjQx6aMCSp7gsCw7zWGaaS6we6WhE7UslXUBJqyJzpsDsmor1WZ6O-BrqR4azFP-3niP3e17mgGlfnBpDR0SE3qffwJDSg_tUBlJ2i3COflF5iABckCn6RYf7PrntQSnY3xZzQa_VYe1IJ

『専門家の実践には
モ デルⅠ: 専 門家が個 人 として クライアン トの抱 える問題 に対 し専 門的知識や科学的技術を合理的に適用 す る実 践

モデルⅡ: 専 門家が,同 僚 と協 同 しク ライア ン トとも協同関係 を築い て,複 雑 な文脈の中で問題 を探索 し学び合 って 解 決 す る実 践
の2種がある』

・・・「孤高の医師」はモデルⅠで、ケアの倫理の専門家はモデルⅡである。
民医連の理念に関連させれば、「共同の営み」論(莇)はモデルⅡに近いものを含んでいる。

『ショーンによるとモ デ ルIIの 専 門家は 「対 人的 な基 礎(interpersonal ground)」 に立 って 実 践 を遂 行 して い る ので あ り,「 内 的 な コ ミ ッ トメ ント(internal commitment)」 を共 有 し協 同 で 参 加 して,問 題 の省 察 だ け で な く 自己 自 身 の 省 察 も展 開 す る「二 重 の 学 習(double-loop learning)」 を推 進 して いる。
古 代 ギ リシ ャ以 来 の 「理 論=観 照 」 とい う通念 に対 して、 「高 度 の 省察 」 は 「活 動 過程 にお けるreflection in action)」と して遂 行 され て い る 」とされる』

つまり
『「 理 論 」 と 「実 践 」 の二 元 論 が克服され,科 学 的 な 理 論 や 技 術の合 理 的 適 用 と して 実践 を定 義 して い た 「技術 的合 理性」の原 理 も,「 活 動 過 程 にお け る省 察Jと い う実 践 的 認 識論 にお い て 否定される。理 論 は,実 践 過程 を外 か ら統制 し基礎 づ け る ので は な く,実 践 す る 主 体 の 思 考 と行 為 の 「枠 組 み(frame)」 と して機 能 す る 。「理論 の実 践 化(theory into practice)」 か ら 「実 践の 中 の理 論(theory in practice)」 へ の転 換 で あ る。』

『子どもが粘土 を手にして遊びなが ら作品のイメージを形成 し,制 作 活動 を通 して絶 えず問題が洞察 され解決 されるように,「素材 との対話(conversation with material)」 が実践 的認識の中核的 な過程を構成す る』

『シ ョーンが1983年 に著 した 『反省 的実践家一専 門家 はどう思考 しているか』は,専 門家の実践 にパ ラダイムの転換 を迫る ものとなった』

『ショーンは「技術的熟達者(technical expert)」 に替わって,「活動過程 における省察」を基礎 とする 「反省的実践家(reflective    practitioner)」と して表現 される新 しい専 門家像 を提起 した』

『近代 主義的 な 「技術 的熟達者」 としての専 門家 は,今 日いたるところで破綻 している。複 雑 な社会の 中で クライエ ントの抱える問題は複合的で総合 的で あ り 「泥沼」の ような状況にお
いて生 じてい る.細 分化 された専 門領域 に身を閉 ざす「技術 的熟達者」 としての専門家は,泥 沼で あえ ぐクライエ ン トの苦 しみを山頂か ら眺め るだけで,何 ら現実的な問題 の解決 に貢献 す る ことはで きな くなって いる。それに対し.「反省的実践家」 は 「状況 との対話(conveysation with situation)」 を通 して,経 験 で培 われた「暗黙知」(M.ポ ラニー)を 駆使 して問題 を名づ け構成し直す思考(framing and reframing)を 展開 し,クライエ ン トと対等 な関係 を築いて問題の解決へ と向かっている』

『子どもと教師の双方 が 「活動過程 における省察」を推進し、物 語(narrative)で結ばれて育 ち合 う。』

『こ の 「創造 的な技 法」 は講義 や授業の様式 では教 えるこ とがで きない 。教 えるこ と(teaching.)を 通 してではな く、コ ーチするこ と(coaching)を 通 して獲得 される』
『そ の本質的な要件は 「子 どもの思 考や行動 に合理的根拠 を見いだすこと(give kid a reason)」と,教 師たちが相互 に 「反省的批評(reflective supervision)」 を交流 し合 うことの二つ にあ る』




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2023年9月15日 (金)

不安

長男が、ふと思い立ったことだと言いながら、昨夜長時間肩をもんでくれたことの意味を思いやると男には突然不安が生じた。

肩をもみながら、母の亡くなる前日、母から肩をもんでほしいと言われながら、翌日ライブを控えて、短時間で済ませてしまったことがずっと悔いになって残っていると語ったのだった。12年前のことだが、時間はずっと止まっている。

なにかやり残したことを済ませておくということであったらー?

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読書会のある病院作り

「少年が来る」読書会 2回め。

最も辛い第2章で、作者ハン・ガンも1-3行書いて1時間泣いて、何もできずに何時間もして書斎から帰って来ていたというところなので、とにかく通過することを目指した。第1章、第2章を抜けると少し伸びやかな小説世界が広がる。


ともかく、こうして「小説の読書会がある病院づくり」が成功した。

みさと健和病院の医局報などでは実にいろんな企画が院内でなされているのを羨ましく思っていたが、積年の願いが少し叶った。

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2023年9月14日 (木)

大石誠之助を描く2作品

1910年の大冤罪事件である「大逆事件」で死刑になった大石 誠之助(おおいし せいのすけ、1867 - 1910、社会主義者・キリスト者、医師)を描いた長編小説には 芸術院会員 辻原登『許されざる者』集英社文庫と柳広司『太平洋食堂』小学館文庫がある。前者はフィクション化が強く死刑は描かず、主人公をアメリカに移住させているが、後者は実名で描き、死刑場面まで追っている。

柳広司には山之口貘と瀬長亀次郎を実名で主人公にした『南風(まぜ)に乗る』という作品もあって、これは最近話題となった。

引用の写真は柳『太平洋食堂』から。ここに語られる大石の心情は多くの民医連職員と共通のものだろう。

民医連の先行者とも言える人物なので、どちらも読まれるといいと思う。

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2023年9月13日 (水)

宣言の失敗は戦略の失敗の表現でもある

誰かがしないといけない仕事の見取り図を書いていたら、精神的な生活の質が悪化した。歴史的な事柄の総括など、専門家が一生をかけてやるべきことなのに、こんなに簡単に書き飛ばしていいのかと思うと気持ちが暗くなる。とはいえ、自らが生き延びていく上で必要な仕事なので。

はじめに:「民医連理念史」探求の必要性

70年間に民医連綱領は3度の改定を経て現綱領は4番目の綱領である。民医連の理念は生きて常に変化している。綱領に代表される民医連理念も、綱領に限らず多彩な変遷を残している。現在、焦点となっている「ケアの倫理」も新たな民医連理念の一つとされるものと思う。
民医連の理念の変遷は世界や日本の社会・経済・思想の動きと密接に関係しており、その関係において理解されるべきものである。
この作業は個人に可能なことではなく、歴史研究者も交えた集団作業によって初めてなし得ることであるが、今回の、不可能さは自覚しながら、あえて個人的にそのごく粗い輪郭を描き出した上で「ケアの倫理」の位置づけを試みようというものである。
その方法については、文学を通して日本の思想史の全体像に迫った加藤周一「日本文学史序説」に学んで、民医連が時代時代に遭遇した思想潮流から影響を受け、旧いものに新しいものが加わる「合流」として、民医連理念の変遷を見ることができるとして進めた。
今回はこれまで言及されることの少なかった前史と2000年以降の変化に限定して記述した。

1:前史 
民医連運動は単に第2次大戦後に日本に起こって今日に続いている医療の民主化運動ではない。

日本における民衆指向医療の歴史の総体を引き継ごうとするものである。それはおそらく日本の歴史の奥深いところまで根源を求めることができるだろう。

その一端は13世紀鎌倉時代の仏教僧忍性や17世紀の儒医 貝原益軒の医療実践、18世紀の農村医師 安藤昌益、三浦梅園の著作などである。中でも忍性は鎌倉の極楽寺を拠点にハンセン病他の患者に対して幅広い医療活動を行なっていた。また安藤昌益については徹底した平等論者で江戸時代の封建主義身分制を全否定した。これらは仏教、儒教と民衆志向医療の合流を示すものとして理解できる。

民医連の直接の先行者は、第二次大戦前のプロレタリア医療機関運動「無産者診療所運動」である。これは民衆指向医療と社会主義・マルクス主義との合流の中で生まれた。それに先行する、あるいは隣り合うものとして、大逆事件に連座して死刑となった医師大石誠之助の和歌山県新宮市での活動や、賀川豊彦などキリスト者によるセツルメント運動があった。
これらについても、マルクス主義やキリスト教が手段として医療を組織したというよりも。民衆志向の医療がそれらに触れて誕生したものと考えたい。

2:日本国憲法との合流
1953年創立された全日本民医連は2010年に3回目の綱領改定を行ない
「日本国憲法は、国民主権と平和的生存権を謳い、基本的人権を人類の多年にわたる自由獲得の成果であり永久に侵すことのできない普遍的権利と定めています。しかし、その権利はないがしろにされています。私たちは、この憲法の理念を高く掲げ、これまでの歩みをさらに発展させ、すべての人が等しく人間として尊重される社会をめざします」
と日本国憲法を全面的に肯定した。これは大きな変化だったが、振り返ってみると、やはり1990年前後のソ連圏崩壊・冷戦終結、その後新自由主義の全ロシア・中国を繰り込んでの席巻という世界情勢変化と、日増しに強まる自民党の9条改憲策動に対し、日本国憲法との合流が決意されたものと思える。それから今日まで、平和的生存権と基本的人権が民医連理念の中心に座っている。
なお憲法25条の生存権の由来については1990年以降の研究により興味深いことがわかっている。
憲法25条は実は占領軍GHQの憲法草案のなかには存在せず、社会党所属の国会議員 鈴木義男の提案で挿入され、「生存権」と名づけられたことが清野幾久子らにより明らかになった。鈴木義男は戦前の厚生経済学者 福田徳三から生存権思想を受け継ぎ、福田徳三はドイツのアントン・メンガー(1841-1906)からを影響受けた。アントン・メンガーはイギリスのフェビアン社会主義から強く影響を受けて生存権を唱えたのだった。つまり、民医連理念の重要部分に国家を支配の道具というより社会福祉の道具と考えるフェビアン社会主義の影響が受容されたことになる。

3:国連の健康戦略(リベラル平等主義、「公正としての正義論」)との合流

日本国憲法の合流と並行して、じつはより注目されるもう一つの合流があった。
それは国連の健康戦略との合流である。
日本の憲法で言う生存権は世界的には健康権(right to health)と呼ばれる。健康権は1948年のWHO憲章と世界人権宣言で文言としては確立した。その後も国際人権規約経済的社会的文化的権利に関する規約12条(1976)、国際規約人権委員会「経済的、社会的および文化的権利に関する国際規約」第12条「健康権に関する一般的意見第14」(2000)でくり返しほぼ同じ内容が宣言され続けている。
実はこうした宣言が繰り返されるということ自体が、宣言のみでは現実は何も変わらなかったことを意味している。
健康権が実現するためには理想的な宣言を繰り返すことは無意味で、何らかの具体的な実践上の戦略が必要とされたのである。

しかし、健康戦略の足取りも実際には容易でなかった。
宣言の失敗は戦略の失敗の表現でもある。
第一段階は1978年のアルマ・アタ宣言で始まった。プライマリ・ヘルス・ケアと呼ばれたこの戦略はアメリカとソ連の覇権争いの中で非政治的な枠内に閉じ込められ、部分的、選択的なものにしかならなかった。

1986年のオタワ憲章から始まった第2段階の健康戦略ヘルス・プロモーションも新自由主義の猛威の中で、社会の改革よりも自己責任を前提とする「個人のエンパワーメント 」に重点を置くものとなった。日本では「健康日本21」という官製健康運動が厚生労働省を中心に展開されたが、ほとんど成果を挙げることができなかった。

健康戦略が実際に世界の人々の健康を改善する展望を得たのは、マイケル・マーモットによって「健康の社会的決定要因」SDHが確立され、SDHの視点に基づくヘルス・プロモーションという第3段階の健康戦略が出現したときである。マイケル・マーモットを委員長とするWHOーSDH委員会は2008年「一世代のうちに格差をなくそう」という最終報告を発表してその健康戦略を、新自由主義に対抗するものとして揺るぎないものにした。このとき積み重ねられた健康権の各宣言もようやく実質的なものになったといえる。

民医連は日本のなかでは先駆けてこの第3の健康戦略を熱心に学び、民医連の理念とSDHに基づく新しいヘルス・プロモーションの合流が起こった。SDHを確かな事実だと呼ぶ意味合いの「ソリッド・ファクツSolid Facts」は民医連全体の合言葉となった。1960年代後半に民医連の特徴として自然発生的に成立していた「病気を労働と生活の視点で捉える」という姿勢はSDHを先駆的に体現したものと解釈された。
この健康戦略は政治倫理においては「リベラル平等主義」と呼ばれるもので、「健康格差の解消」、「公正としての正義」を目指すものである。
日本国憲法との合流後の民医連は、「健康格差の解消」、「公正としての正義」を自らのものにすることに精力を注いだ。J-HPHの設立もその一環である。

4:「ケアの倫理」の登場
新自由主義による貧困と格差の深刻化のみならず、高齢化の進行、東日本大震災、気候災害の激甚化の中で「健康格差の解消」、「公正としての正義」のみでは捉えきれない別のニーズが社会の中に強まってきた。
私達が現実に遭遇する不正義は、貧困と病気の悪循環のみならず、それに由来する孤立やそれを生んでいる差別や格差に広げて捉えなければならない。しかし、不正義にさらされる結果として弱さを抱え、心を閉ざし、ときに共感をも拒む人々に結びつき、配慮し、支援する実践の中では、「自律と社会参加」をめざす「正義の倫理」とは別の、「依存と支援」の「交換」を人間の本質だと考える倫理原則を必要とする。それが「ケアの倫理」と呼ばれる。
しかし、「ケアの倫理」が突如として現れたわけではなく、それに至る長い歴史がある。

振り返ると、ロールズやセンのでリベラル平等主義は互いを敵として争いあうことの調停を目指した社会契約論、その中の代表格である功利主義からのケアの倫理への接近だったとも言えるだろう。

それを証明するように、ケアの倫理の運動はWHOやその中心部にあるアマルティア・センの主張をみずからのを足早とみなしてある。


最も強調すべきことは「ケアの倫理」はフェミニズム運動のなかで結晶してきたものだということある。
ケアはこれまで女性によって担われ発展させられてきたものであり、そしてケアを担うこと自体がその人を脆弱な立場に追い込んで行ったことも明らかになった。介護労働者の賃金が不当に低いのはそれを直接に反映している。
改めて「ケアの倫理」を社会の普遍的な原理とすることは、女性の復権、つまりフェミニズムの実現に等しい。逆に言えばケアの倫理によってフェミニズムが普遍性を獲得すると述べることもできる。
いま民医連は30年間の憲法との合流過程をはるかに超えた大きな合流に臨んでいる。「フェミニズムとの合流」である。それは日本国憲法14条が「人種、信条、性別、社会的身分又は門地により差別されない」と宣言しながら、なぜか実態として実現させられなかったどころか最近は明らかに悪化させてもいる「平等権」をより深いところで取り戻すものでもある。
なお同じく世界の変革等の解放をめざす理論としてのフェミニズムとマルクス主義の関係については、互い独立したもの(二元論).一体であるとするもの(統一論).マルクス主義の中にフェミニズムを包含するものの3パターンの解釈がある。おそらく二元論が正しいと思えるが、ここでは3パターンの紹介に留める。
「ケアの倫理」は「健康格差の解消」、「公正としての正義」を乗り越えながら、それと相補的に今後の民医連運動の2軸をなすものである。
振り返れば民医連にとって「ケアの倫理」の実践は目新しいものでなく、古くは医療における「共同の営み」論(莇 昭三)、家庭医療学のなかの「患者中心の医療」(マクウィニー)や、ソーシャルワーク実践は「ケアの倫理」の表現の一つだったと捉えることができる。
さらに、かって国家を支配の道具でなく社会福祉の道具だと捉えたフェビアン社会主義も、これからの気候危機解決をめざす「地域主権主義(ミュニシパリズム)」「FEC自給圏をめざす地域循環経済運動」も「ケアの倫理」-フェミニズムとの密接な関連のなかにある。
「ケアの倫理」-フェミニズムに基づいて今後の民医連運動に要請される変化は
①「患者中心の医療」の実装
②ソーシャルワークを医療介護活動の土台にする構造づくり
③住民自治による地域循環経済確立への積極的参画が挙げられる。
③は切実な課題に一見見えないかもしれないが、ケアを地域社会の中心に置くことがケアの倫理の目標であり、そのためのケアの自給は、食糧やエネルギーの自給と同じ重み付けで地域循環経済の中に位置づけられるべきである。
医師、看護師、介護士ほかのケア・ワーカーを地域内で確保することを地域経済の中核的目標とすることもケアの倫理の帰結となる。
人口減少地域の県連においてはこのことが切実で、以上の3点を同時並行で進めない限り後継者獲得はありえず、消滅があるだけである。

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2023年9月 7日 (木)

すばる

双眼鏡が届いていたので早速すばるを見てみることにした。おぉ、これがそうかと思わず言ってしまう。圧倒的に面白い。

そして双眼鏡で一旦存在を確認すると、こんどは肉眼でも容易に分かるようになる。なんということはない。物事は万事そのようなものだろう。万事かどうかは知らないが、病気の診断はだいたいそうである。


そういえば、父親がすばるが見えないと兵隊になれなかったとか言っていた気がする。今の僕の年齢の半分にも行かない若い頃の父の話である。もちろんその時、子どもの僕はこの星団を認識しなかった。それで今日まで来たのである。


気がつくと東の地平あたりからオリオンの三つ星が昇って来ている。

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2023年9月 4日 (月)

晩年

僕の晩年も12年を経た。

2日前には大学に入学したくらいからの知人のおそらく最後の病気を診断した。

まさに走りながら倒れたという感じだった。

僕もそういう日が来るまで単色の日が続くのだろう。

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2023年9月 2日 (土)

昭和世代のチャブ台返し

僕が小学生になる頃の父親はまだ20歳台で、通信教育で代用教員から正規の教諭に移行する過程にいたと思うが、ちゃぶ台返しは日常茶飯時で、ある時などは酔って裏口から帰ってきたと思うと、台所のかまどや引き戸や重い火鉢を座敷で寝ていた僕と母に向かってどんどん投げつけて来て、二人は布団をかぶって恐怖に震えていたものである。
朝起きると、家の中の壊れ様はひどいもので、母屋からやって来た祖父が黙々と片付けていた。その時に親指に刺さったガラスの破片のせいで40歳くらいまで固いしこりが僕の指にはあった。
遊びに行って夕方家に帰って母親に最初に尋ねるのは父親の機嫌だったことも覚えている。
最近どこかで読んだのだが、この様な行動は第2次大戦帰りの男性に特有なもののようであった。
満州に行こうとして内原の訓練所にも行ったあと、海軍少年兵として呉市で終戦を迎え、その直前までには防空壕を開けてみると大量の焼死体、蒸し焼き死体が重なっていたり、8.6には原爆雲も目撃した、帰郷した後は、陸軍演兵場だった荒れ地の「開墾団」に入ったという話をしてくれる頃になると、ちゃぶ台返しには縁のない人になっていた。その代わり、学校の人間関係から強い抑うつ傾向が、長期続いたのであるが。

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2023年9月 1日 (金)

山口県社保協総会挨拶

毎年、暑さが記録更新されている、地球「沸騰」時代の猛暑のさなか、みなさま総会参加ご苦労さまです。

山口民医連の野田です。県社保協創立時からのメンバーですが、総会には久しぶりに参加します。なぜか開会の挨拶を承りました。どうぞよろしくお願いします。

 

県社保協を作った頃を考えていると、同じ頃にご縁のあった真田 是(なおし)先生のことを思い出します。

小川政亮(まさあき)先生と並び称された日本の社会福祉学の権威ですが、1994年に立命館大学を定年退職なさると同時に、同じ年にスタートした山口県立大学の社会福祉学部の教授として山口に赴任されました。できたばかりの山口県社保協にとってもそれは大変心強いことでありました。

僕はその頃社会保障の勉強に燃えていて、すぐに真田先生に会いに出かけ、山口民医連の「社会保障学校」という小さな集まりで連続講義をお願いしました。

セミナーパークの殺風景な部屋に小柄な先生がさっそうと現れて、まっすぐ本題に切り込む講義をなされたのを覚えています。

 

実はこの1週間は真田先生の「民間福祉論:社会福祉における公と民」という本を読み返していました。1996年の本です(かもがわ出版)。

「公」すなわち国や自治体に社会保障・社会福祉の充実を要求し続けることは当然必要だが、それだけで前進できるのだろうかという疑問に真田先生ならどう答えていただけるだろうかというのが僕の問題意識でした。

 

結論だけ言いますと、非営利・協同の民間セクターと公的セクターの労働者が固く団結して、市民が主人公となる社会保障・福祉の「実践」を作り出す以外に前進の道はないということです。そうすれば営利セクターに働く介護・福祉労働者もその後を続くと思います。

 

我田引水で申しわけありませんが、民医連のことを少しお話させていただくと、民医連は民間でありながら非営利・協同の立場で医療と介護を提供、実践する組織です。

民間福祉の牽引車であることは間違いないと思います。

しかしいつからか、医療と介護だけでは限界があると僕は感じ始めるようになりました。

医療や介護の提供の土台として、まずは生活支援とソーシャル・ワークがなければならない。それなしに、どんな治療も介護も成立しないのではないか。

ならば生活支援とソーシャル・ワークを医療・介護に次ぐ第3の事業として民医連は確立しないといけないと考えて、地域福祉室という患者の総合的な支援に専念する組織を作り、さらには民医連の病院や診療所のない山口市に生活支援とソーシャル・ワークの拠点を作りました。

すると、予想通り、これまでの我々から見ると圧倒的な数と質の市民の相談が集まり始め、市の福祉関係の部局と交渉することが急速に多くなりました。その分だけ市民から民医連への支持や信頼も増したと思います。

もちろん自治体の窓口と言っても、当人は非正規で全く裁量権もない担当者の心無い言葉に憤ることが多いわけですが、相談者と自治体担当者との三角形の話し合いを粘り強く積み重ねていく中で、新しい社会保障、社会福祉を作っていけるという実感が日に日に強まっていると言って過言ではありません。

 

そして、少し新しい話題ですが、その先に私が期待しているのは、全ての自治体が社会保障・社会福祉のためにこそあるのだという原点を示す「生活保障基本条例」の制定です。

これは、今日の記念講演をお願いしている二宮厚美先生が共同代表をなさっている「新福祉国家構想研究会」で具体化が検討されていると聞いています。

今、どの自治体に行っても「中小企業推進基本条例」が制定されていると思いますが、それと同じような社会保障のための基本条例が全部の自治体にできれば、住民自治、地域主権の確立がぐっと現実性を帯びて来るのだと考えます。

 

今日、その話をするのは飛躍しすぎるという誹りは避けられないかもしれませんが、実は「生活保障基本条例」制定を現場で推進していくのが、この県社保協のこれからの真の役割ではないかと密かに思っている次第です。

 

さて、それ過ぎた話を真田先生に戻しますと、真田先生に最後にお会いしたのは、先生が進行した食道癌の手術をされて、少しづつ講演活動も再開された、2000年代最初の頃です。

宇部協立病院での講演前に食事をということで空港に近い亀浦苑というレストランに寄りました。

僕に気を使っていただいたのだと思いますが、「手術の後だが、鰻なら食べることができるかもしれない」と言われて鰻重を注文されました。

それも少ししか食べることができなかったのを覚えています。

その後まもなく先生は亡くなられてしまうのですが、病気を押して最後まで社会保障論の真髄を伝えようとされた、病気で小さくなられた先生の姿を思いだすと、その志だけは県社保協という立場で継いでいかなければならないといつも思っています。

 

挨拶と言っても、年寄りくさいまとまりのない世間話になってしまいました、

以上で私の総会開会挨拶と致します。

熱心なご議論をお願い致します。

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