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2023年6月28日 (水)

2023.6.28 山口民医連理事会 挨拶

 

                                 

蒸し暑い日が続いて熱中症の多発が警戒されます。

新型コロナも9波の入り口とされる中ですが、県連理事会への出席ご苦労さまです。

 

前回の県連理事会で松原幸恵山口大学教育学部准教授を招いて憲法問題について1時間以上のお話をお聞きしたのは時宜を得た企画だったと思います。

青井未帆学習院大学教授が、「もはや国家のみが安全保障問題のプレーヤーなのではない。市民が参画する新たな安全保障の枠組みづくりに可能性を見出したい」 「政府の憲法解釈が信頼性を失った今日、『憲法を超えた』平和構想が戦争を絶対に起こさせないために必要である」(雑誌「世界」20235月号 少し改変)と述べている本意はなんだろうと言う質問に「青井未帆さんに成り代わることはできないが、9条の条文にこう書かれているということを出発点にしないで、何の目的でそう書かれたかということを把握して、その目的を果たすように努めることではないか」と答えられたことが印象に残りました。

 その立場で、どうすれば戦争放棄、それを保証する戦力放棄を実現できるかと考えれば世界じゅうの市民レベルでの連帯をその突破口にしなければならない、日本で9条が実現するための市民交流が積み重ねられなければならない、政府首脳が集まるG7サミットでなく、9条をテーマにして普通の市民が集まる平和集会が積み重ねられなければならないということです。その意味でも8月の広島‥長崎の世界大会は重要です。

憲法の条文を超えて目的そのものを捉えていくことの大切さについては、私達はすでに憲法25条の議論でも経験済みです。御存知の通り25条は「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と書いてあるのですが、世界人権規約では「すべての者が到達可能な最高水準の健康を享受する権利を有する」としており、最低限度と最高水準という表現の間に大きな違いがあるのは明らかです。しかし、これは「生存権から健康権へ」という私達の議論のなかで実践的に乗り越えられています。

 

今日はもう一つ、私達が憲法の条文を超えて前進しなければならないことがあるということを述べたいと思います。

私達の所属する全日本民医連は2010年にその綱領を全面的に改め「日本国憲法の理念を高く掲げる」と日本国憲法を全面的に肯定しました。当たり前のことに見えますが、これは相当に大きな変化だったわけです。それまでは憲法の中の民主的な部分を抜き出してその発展、実現を目指すと考えてきましたが、これからは全面的に憲法と理念を合流させるという宣言だったことになります。

振り返ってみると、これはやはり1990年前後のソ連の崩壊、冷戦の終結という世界情勢の影響の現れだったように思えます。

最近のNHKの番組「100分で名著」では、ナオミ・クライン「ショック・ドクトリン」を取り上げています。

人々がある事件にショックを受け、打ちのめされることを利用して有無を言わせず社会保障などこれまでの権利を人々から取り上げ、権力のめざす政策をあっという間に実現してしまう、新自由主義の得意な手法をショック・ドクトリンといいます。

社会主義国を自称している中国の指導部を新自由主義の経済学者が洗脳して取り込み、その結果、1989年に改革を求めて天安門広場に集まっていた何万人という若者のなかに戦車を突入させて、何千人も殺すという天安門事件を起こします。これに中国の人々がショックで黙り込むなかで中国共産党の幹部とその子弟「太子党」の利権がものすごい勢いで広がっていき、中国の巨大な富裕層と格差ができあがります。ソ連の崩壊で生活保障がなくなり、平均余命が10年も短くなるほど国民が抵抗力を失ったロシアも同様で、経済マフィアの横行する最低の資本主義が出来上がります。

こうしてほぼ全世界を支配し害悪を流した新自由主義イデオロギーと闘うとき、民医連には1947年施行の日本国憲法こそが拠り所と判断されたのだと思えます。新自由主義の世界支配が始まる前、更に冷戦の始まる前、世界がまだ一つの希望で結ばれるかに見えたころに作られたものだったからです。

それから今日まで、その綱領路線が深められています。簡潔に言えば生活の現場で健康権、幸福権を全力挙げて追求しつつ、一国にとどまらない広い視野で平和的生存権を構想することです。

健康権、幸福権など社会の公平を保証する制度を求める理論は一般的には「正義論」「正義の倫理」と呼ばれます。

しかし、新自由主義の害悪としての貧困と格差のみならず、高齢化の進行、東日本大震災、気候災害の激甚化の中で、誰もがかならず弱い立場に陥って誰かの支援、ケアを求める時期が人生のなかに生じることがわかってくると、「制度で人を救う正義論」のみでは捉えきれない、もっと「人間的・直接的なケアで人を救う」にはどうしたいいのかを問題にした「倫理」のあることを私達は感じ始めます。ケアは制度に定めただけでは作り出せるものではないからです。制度という配達物で届ける、ケアという中身はどう作るのかということです。

つまり私達が現実に遭遇する不正義、不公平は、貧困と病気の悪循環であり、それに由来する孤立です。衰弱して、心を閉ざし、ときに共感もしにくい人々に結びつき、配慮し、支援するときに、支援する人は「正義がもたらす制度」を作ろうとしているわけではありません。自然に自分の手でケアする以外にないから支援しています。そのとき人間が相互に依存しあうのは人間の本質だと思っているはずです。そこから出発して、やがて制度化されるべきものの中身が作られていきます。

そういう心の働きが、「正義の倫理」に対比して「ケアの倫理」と呼ばれるものです。正義の倫理の前提になるものがケアの倫理だとも言えます。

しかし、ここで本当に大切なのは、ケアはこれまで女性によって担われ発展させられてきたものであり、そしてケアを担うこと自体が女性を弱い、劣った側の立場に追い込んで行ったということです。介護労働者の賃金が不当に低いのはそれを直接に反映しています。

またケアのなかの重大な対象である性犯罪やDVで多くは女性が被害者だということも女性が暴力を振るわれるものとして社会的に作られてきたことを気づかせます。
「ケアの倫理」を改めて社会をおおう普遍的な原理、全員がケアを担うべきだとすることは、女性が担い発展させてきたものを、人類全体のものにするだけでなく、女性への差別を全廃する、つまり、女性の復権、つまりフェミニズムだということになるだろうと思います。

話が大きくなりすぎて申し訳ありませんが、この1990-2020という30年間に進んだ日本国憲法との合流過程をはるかに超えた、「フェミニズムとの合流」という大きな変化に今の民医連は臨んでいるいのだと思います。

そこで、フェミニズムと日本憲法の関係ですが、憲法14条は「人種、信条、性別、社会的身分又は門地により差別されない」と「平等権」を宣言しています。

しかし日本社会全体はなぜかこれをすごく軽く見て、最近はさまざまなところで「世襲」特権が復活しています。例えば、親ガチャといいますが、生育環境の差によって生じる教育・能力差を固定・増幅して、それがあたかも自己責任による選別の結果だとして、新しい貴族層、特権身分の出現を当然であるかのように国民を騙そうとしています。「運も能力のうち」というわけです。

フェミニズムはこれらに深いところで対決して「平等」を取り戻すものなのです。これが9条、25条と同夜の憲法の条文の乗り越えを14条でもフェミニズムを念頭にやっていかなければならないということです。

 

さて、改めて言うまでもないことですが、後継者問題がいよいよ待ったなしになっています。最近山口大学その他で青年運動を活発にやっている人たちと2回話し合う機会があった中で思うことは、もっと直接的な青年層との触れ合いを頭を絞って仕事の中に取り込んでいかないといけないということです。高校生の病院体験、職業体験はもちろん大切な企画ですが、それはことの始まりに過ぎない。一回こっきりのイベントにしないで若い人たちと話し合うことをどう仕事の一部として組み込めるか真剣に考える時期に来ていると思います。

最後でテーマが分離してしまいましたが以上を今月の挨拶といたします。熱心な議論をよろしくお願いします。

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