9条、25条、14条いずれも憲法条文を超えた構想が求められている
割とスリルに満ちた臨時の日直をこなしながら、ローカル政治新聞の寄稿を書く。締め切りを忘れていて焦った。
私の勤務先の病院が所属する全日本民医連は2010年にその綱領を全面的に改め「日本国憲法の理念を高く掲げる」と日本国憲法を全面的に肯定した。これは相当に大きな変化だったが、振り返ってみると、やはり1990年前後のソ連崩壊、冷戦終結という世界情勢の影響だったように思える。ロシア、中国も含めてほぼ全世界を支配し害悪を流した新自由主義イデオロギーと闘うとき、1947年施行の日本国憲法こそが拠り所と判断されたのだと思う。
それから今日まで、その綱領路線が深められている。簡潔に言えば生活の現場で健康権、幸福権を全力挙げて追求しつつ、一国にとどまらない広い視野で平和的生存権を構想することである。
そのなかで前者の理論は一般的には「正義論」と呼ばれるもので、その代表であるロールズやセンの主張を私達も学んでいったのだが、新自由主義による貧困と格差のみならず、高齢化の進行、東日本大震災、気候災害の激甚化の中で「正義論」のみでは捉えきれない別の「倫理」を感じ始める。
私達が現実に遭遇する不正義は、貧困と病気の悪循環であり、それに由来する孤立である。しかし、不正義にさらされる結果として弱さに満ち、心を閉ざし、ときに共感をも拒む人々に結びつき、配慮し、支援するときに、そうする人はそれが正義だからと思ってしているわけではない。そうする以外にないからそうしているのである。依存は人間の本質だと思っている。
その心の働きが「ケアの倫理」と呼ばれる。ケアはこれまで女性によって担われ発展させられてきたものであり、そしてケアを担うこと自体がその人を脆弱な立場に追い込んで行ったことも明らかになった。介護労働者の賃金が不当に低いのはそれを直接に反映している。つまり改めて「ケアの倫理」を社会の普遍的な原理とすることは、女性の復権、つまりフェミニズムに等しい。
だから、いま民医連は30年間の憲法との合流過程をはるかに超えた大きな変化に臨んでいると言ってよいのだろう。「フェミニズムとの合流」である。それは日本国憲法14条が「人種、信条、性別、社会的身分又は門地により差別されない」と宣言しながら、なぜか実態として実現させられなかったどころか最近は明らかに悪化させてもいる「平等権」を取り戻すものでもある。9条、25条、14条いずれも憲法条文を超えた構想が求められているのである。
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