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2023年6月 1日 (木)

民医連理念の歴史  どこかで韓国語に訳されている

以下は2016年に韓国の雑誌に求められて私が書いたものである。韓国語に翻訳されて掲載された。
民医連理念史の概観とでも言うべきものだったが、全く私的な文章として全日本民医連に相談はせずに発表した。韓国で読者がどう読んだかも分からなかった。

この文章のことは忘れていたが、最近「民医連とフェミニズムの遭遇」ということを考えていて思い出した。

相当にオリジナルな部分を含むと思うが、その分実証的ではない。だれか専門家がこの視点で実証的なものを書いてくれないかと思う。

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民医連(min-i-ren)運動は単に第2次大戦後に日本に起こって今日に続いている医療の民主化運動ではない。

日本における民衆指向医療の歴史の総体を引き継ごうとするものである。それはおそらく日本の歴史の奥深いところまで根源を求めることができるだろう。

13世紀鎌倉(Kamakura)時代の仏教僧 忍性(Ninsho)による医療実践、17世紀(江戸Edo時代前期)の貝原益軒(Kaibara Ekiken)の著書「養生訓(Yojokun)」、18世紀(江戸Edo時代中期)の安藤昌益(Ando Shoeki)の著書「自然真営道(Shizensineido)」などはおそらくその一部となるものである。中でも忍性は鎌倉の極楽寺(Gokurakuji)を拠点にハンセン病他の患者に対して幅広い医療活動を行なっていた。また安藤昌益については徹底した平等論者で江戸時代の封建主義身分制の激しい批判者だったことが注目される。

ただし、これらのことについてはこれ以上触れることができない。

民医連の直接の先行者は、第二次大戦前の民衆指向医療とマルクス主義との合流の中で生まれたプロレタリア医療機関運動「無産者診療所(Musansya Sinryosyo)運動」である。暗殺された労農党代議士山本宣治(Yamamoto Senji)の葬儀を契機に労働者と農民の医療機関を作ろうという運動は瞬く間に全国に広がった。しかし、この運動は戦前の軍国主義日本により暴力的に壊滅させられた。

第二次大戦後、1953年に創設された民医連は戦前の無産者診療所運動を引き継ぎながら、マルクス主義との合流だけではない、さまざまな思想との合流を果たしながら、その理念的な発展を遂げようとしているのが、今日的な特徴となっている。

その中でも日本国憲法第25条「生存権」との合流、国連の世界人権宣言に代表される「健康権」との合流、WHOの健康戦略との合流が比較的短い期間に連続的に起きた。これにより最近の民医連運動の様相は歴史の前半とは大いに変わった。

そこで今回は、①生存権か健康権か、②健康権宣言か健康戦略かという論争的な二つの事柄について民医連の理念のこの間の変化をたどってみたい。

1 憲法25条「生存権」(right to life)の再発見と合流

日本国憲法25条第1項

「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」

日本国憲法は第2次大戦直後の連合国占領下で、占領軍総司令部GHQの強い指導力によって制定されたものである(1947)。平和的生存権、国民主権、戦力の放棄を謳う画期的なものだったが、一方で米日支配層の妥協により天皇が戦争責任を問われなかったことを反映して、天皇に関する条項が最初に掲げられている。しかも、憲法制定後まもなく激しくなった米ソ冷戦のもとで、日本を事実上の属国としたアメリカは日本に対し戦力放棄(9条)を変更させようと工作を始めた。結局、憲法を変えることはできず、違憲の軍隊である自衛隊 Self-Defence Forceが設立された。

そのような複雑な事態のなかで、日本の左翼は憲法を丸ごと肯定するという姿勢には長らく立たなかった。憲法前文、9条など選ばれた「民主的条項」のみの遵守と発展を目標としてきたのである。

しかし、1980年台の中曽根首相以来、次第に現実化を帯びてきた自民党の憲法改定策動は、左翼勢力による憲法の再検討を促した。

現在の天皇は国家元首でなく政治的権能をもたない「国民統合の象徴」の役割に徹しており、その意味で日本をイギリスやオランダのような君主制の国に数えるのは間違いだとされ、憲法の天皇条項も含んで、憲法全体が遵守の対象とされるようになった。

憲法25条への姿勢にも変化があった。1990年以降の研究により、憲法25条は実は占領軍GHQの憲法草案のなかには存在せず、社会党所属の国会議員 鈴木義男(Suzuki Yoshio)の提案で挿入され、「生存権」と名づけられたことが清野幾久子(Seino Kikuko)らにより明らかになった。鈴木義男はドイツのワイマール憲法(1919年)の第151条第1項を参照したといわれる。

ワイマール憲法第151条(経済生活の秩序、経済的自由)
1. 経済生活の秩序は、すべての人に、人たるに値する生存を保障することを目指す正義の諸原則に適合するものでなければならない。各人の経済的自由は、この限界内においてこれを確保するものとする

しかし正しくは鈴木義男の提案は戦前の厚生経済学者 福田徳三(Fukuda Tokuzo)が1900年ごろドイツに留学して日本に持ち帰った生存権思想を受け継ぐものだった。福田は1923年の関東大震災の際、一橋(Hitotsubashi)大学の学生を引き連れて被害状況を実地に調査し、生存権に基づいた「人間の復興」を唱えたことが有名である。「人間の復興」は約90年後、2011年3月11日の東日本大震災後の復興に当たっての私達の合言葉ともなった。

福田徳三は著作の中でドイツのアントン・メンガー Anton Menger(1841-1906)から生存権思想を受け継いだと語っている。アントン・メンガーはドイツの社会主義的な法学者だがイギリスのフェビアン社会主義から強く影響を受けていた。

このような日本独自の生存権に関する歴史が明らかになると同時に、より重要なこととして、日本の社会保障運動の発展によって生存権の意味も大きく変わりつつあった。25条の文言通り「最低限度の生活を保障する」という貧困線以下の人々の救済の根拠であることを超えて、貧困線以上の人も含め「全ての人に健康で文化的な生活を保障する」という福祉国家の原理に変わろうとしていた。

これと戦力放棄を謳った憲法9条とあわせ考えれば、国民の戦争協力と社会保障とを交換条件とする側面を持つ第二次大戦後のヨーロッパの福祉国家とは一段階違う画期的に新しい福祉国家像が憲法25条のもとに構想されるようになったことになる。それは絶えることのないアメリカによる戦争が前提となっている新自由主義的世界像と根本的に対決するという性格を持つ福祉国家像である。

こうして日本の左翼運動における憲法25条、生存権の位置づけは大きく変化し、より身近なものとして捉えられるようになった。民医連が2010年の新しい綱領で以下のように宣言したのも民医連の理念と憲法25条の合流の現れと考えることができる。

全日本民医連綱領から
「日本国憲法は、国民主権と平和的生存権を謳い、基本的人権を人類の多年にわたる自由獲得の成果であり永久に侵すことのできない普遍的権利と定めています。しかし、その権利はないがしろにされています。私たちは、この憲法の理念を高く掲げ、これまでの歩みをさらに発展させ、すべての人が等しく人間として尊重される社会をめざします。」

そうなると生存の最低線を保障するだけという意味にも受け取られる生存権という名称が私たちがめざす人権の名称としてふさわしいのかどうかという問題が生じた。そこで「健康権」という呼称が浮かび上がってくる。しかし、生存権の名前の元に闘われた運動、とりわけ朝日茂(Asahi Shigeru)という一人の勇敢な結核患者が憲法25条生存権を根拠に国家を相手に起こした訴訟は「人権裁判」と呼ばれて人々の記憶に強く残り、それを通じて作られた生存権という呼称への愛着は根強いものがあった。

「生存権か健康権か」という問題は単純に名称の問題に過ぎないようだが、健康権という名称の受容にはもう一つ別の理念の発見と合流が必要だった。それは次の章で述べる。


2 健康権宣言か健康戦略か

日本の憲法で言う生存権は世界的には健康権(right to health)と呼ばれる。

健康権は1948年のWHO憲章、世界人権宣言で文言としては確立した。その後も国際人権規約経済的社会的文化的権利に関する規約12条(1976)、国際規約人権委員会「経済的、社会的および文化的権利に関する国際規約」第12条「健康権に関する一般的意見第14」(2000)でくり返しほぼ同じ内容が宣言され続けている。

国際規約人権委員会「経済的、社会的および文化的権利に関する国際規約」第12条「健康権に関する一般的意見第14」(2000) 

健康は他の人権の行使にとって不可欠な基本的人権である。すべての人間は尊厳ある人生を送るために到達可能な最高水準の健康を享受する権利を有する。

実はこうした宣言が繰り返されるということ自体が、宣言のみでは現実は何も変わらなかったことを意味している。

それはアマルティア・センAmartya Senのジョン・ロールズJohn Rawlsに対する批判に似ている。センは正義に対するアプローチに二つあるとした。①理想的な制度や法律を作って完全な正義を実現しようとするもの(カント、ロールズ)。②まず現実の明白な不正義をこの世界から取り除こうとするもの(マルクス、セン)。

この批判どおり、健康権が実現するためには理想的な宣言を繰り返すことは無意味で、何らかの具体的な実践上の戦略が必要とされたのである。

健康戦略の開始は1978年のアルマ・アタAlma-Ata宣言で始まった。しかし第1段階の健康戦略であるプライマリ・ヘルス・ケアPrimary Health Careはアメリカとソ連の覇権争いの中で非政治的な枠内に閉じ込められ、部分的、選択的なものにしかならなかった。

1986年のオタワ憲章から始まった第2段階の健康戦略ヘルス・プロモーションHealth Promotionも新自由主義の猛威の中で、社会の改革よりも、自己責任を前提とする「個人のエンパワーメント empowerment」に重点を置くものとなった。日本では「健康日本21」という官製運動が厚生労働省を中心に展開されたが、ほとんど成果を挙げることができなかった。

健康戦略が「空想から科学に」なって、実際に世界の人々の健康を改善する展望を得たのは、マイケル・マーモットMichael Marmotによって健康の社会的決定要因SDHが確立し、SDHに基づくヘルス・プロモーションという第3段階の健康戦略が出現したときである。マーモットを委員長とするWHOーSDH委員会は2008年「一世代のうちに格差をなくそう」という最終報告を発表してその健康戦略を揺るがないものにした。

このとき健康権の各宣言もようやく実質的なものになったといえる。

民医連は日本のなかでは先駆けてこの第3の健康戦略を熱心に学び、民医連の理念とSDHに基づく新しいヘルス・プロモーションの合流が起こった。SDHを確かな事実だと呼ぶ意味合いの「ソリッド・ファクツSolid Facts」は民医連全体の合言葉となった。1960年代後半に民医連の特徴として自然発生的に成立していた「病気を労働と生活の視点で捉える」という姿勢はSDHを先駆的に意識したものと解釈された。

そのとき初めて、従来から愛着を持たれていた生存権という呼称を世界の潮流にあわせて健康権と呼びなおそうという姿勢が明らかになったのである。

民医連にとっての健康権は、SDHに基づく健康戦略によって達成される生存権に他ならないものである。

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