ローカル政治新聞 寄稿 6月分
以下は2016年に韓国の雑誌「医療と社会」に求められて私が書いた文章の冒頭である。韓国語に翻訳されて掲載された。民医連という日本の医療団体の理念史スケッチだったが、私的な文章だから、当時自分が副会長を勤めていた全日本民医連にも相談せず発表した。反響もなかったので忘れていたが、最近「民医連とフェミニズムの遭遇・合流」というテーマを考えていて思い出したのである。
「民医連運動は単に第2次大戦後に日本に起こって今日に続いている医療の民主化運動ではない。日本における民衆指向医療の歴史の総体を引き継ごうとするものである。それはおそらく日本の歴史の奥深いところまで根源を求めることができるだろう。13世紀鎌倉時代の僧 忍性による医療実践、17世紀(江戸時代前期)の貝原益軒の著書『養生訓』、18世紀(江戸時代中期)の安藤昌益の著書「『自然真営道』などはおそらくその一部となるものである。中でも忍性は鎌倉の極楽寺を拠点にハンセン病他の患者に対して幅広い医療活動を行なっていた」
書いた後、鎌倉にも極楽寺にも行ったことがないのを恥じ、東京への会議出張の空き時間を利用して見物に行った。江ノ電極楽寺駅は谷間の底にある変わった駅だがドラマや映画の舞台になりやすい。最近では映画「海街ダイアリー」。日本における民衆指向医療のルーツである極楽寺は駅から2分のところにある。
思うに、鎌倉時代は遣唐使中止以降の平安時代という鎖国が終わって宋との交流が拡大した時期で、医療も大きく変化した時代ではなかったのか。忍性の医学も宋の医学をいち早く取り入れ最先端だったようである。
お寺は小さく、「参拝以外の人は入ってはいけない、写真も撮ってはいけない」と掲示され、小さな潜り戸だけが開いている。広大な寺が縮んで残ったのだろう。忍性の業績を示すものはない。したがって、忍性の事績が現代の鎌倉市民、神奈川県民の常識である怖れはないだろう。
忍性の墓を見ようと稲村ヶ崎小学校のほうに歩くと、見知らぬ男を警戒する学校ガードマンのおじさんに声をかけられる。聞くと、極楽寺さんで鍵を借りないと墓所には入れないし、許可される可能性もないと。入口の写真だけ撮って帰った。
「民医連とフェミニズムの遭遇・合流」については次回。
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