« 2023年5月 | トップページ | 2023年7月 »

2023年6月28日 (水)

2023.6.28 山口民医連理事会 挨拶

 

                                 

蒸し暑い日が続いて熱中症の多発が警戒されます。

新型コロナも9波の入り口とされる中ですが、県連理事会への出席ご苦労さまです。

 

前回の県連理事会で松原幸恵山口大学教育学部准教授を招いて憲法問題について1時間以上のお話をお聞きしたのは時宜を得た企画だったと思います。

青井未帆学習院大学教授が、「もはや国家のみが安全保障問題のプレーヤーなのではない。市民が参画する新たな安全保障の枠組みづくりに可能性を見出したい」 「政府の憲法解釈が信頼性を失った今日、『憲法を超えた』平和構想が戦争を絶対に起こさせないために必要である」(雑誌「世界」20235月号 少し改変)と述べている本意はなんだろうと言う質問に「青井未帆さんに成り代わることはできないが、9条の条文にこう書かれているということを出発点にしないで、何の目的でそう書かれたかということを把握して、その目的を果たすように努めることではないか」と答えられたことが印象に残りました。

 その立場で、どうすれば戦争放棄、それを保証する戦力放棄を実現できるかと考えれば世界じゅうの市民レベルでの連帯をその突破口にしなければならない、日本で9条が実現するための市民交流が積み重ねられなければならない、政府首脳が集まるG7サミットでなく、9条をテーマにして普通の市民が集まる平和集会が積み重ねられなければならないということです。その意味でも8月の広島‥長崎の世界大会は重要です。

憲法の条文を超えて目的そのものを捉えていくことの大切さについては、私達はすでに憲法25条の議論でも経験済みです。御存知の通り25条は「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と書いてあるのですが、世界人権規約では「すべての者が到達可能な最高水準の健康を享受する権利を有する」としており、最低限度と最高水準という表現の間に大きな違いがあるのは明らかです。しかし、これは「生存権から健康権へ」という私達の議論のなかで実践的に乗り越えられています。

 

今日はもう一つ、私達が憲法の条文を超えて前進しなければならないことがあるということを述べたいと思います。

私達の所属する全日本民医連は2010年にその綱領を全面的に改め「日本国憲法の理念を高く掲げる」と日本国憲法を全面的に肯定しました。当たり前のことに見えますが、これは相当に大きな変化だったわけです。それまでは憲法の中の民主的な部分を抜き出してその発展、実現を目指すと考えてきましたが、これからは全面的に憲法と理念を合流させるという宣言だったことになります。

振り返ってみると、これはやはり1990年前後のソ連の崩壊、冷戦の終結という世界情勢の影響の現れだったように思えます。

最近のNHKの番組「100分で名著」では、ナオミ・クライン「ショック・ドクトリン」を取り上げています。

人々がある事件にショックを受け、打ちのめされることを利用して有無を言わせず社会保障などこれまでの権利を人々から取り上げ、権力のめざす政策をあっという間に実現してしまう、新自由主義の得意な手法をショック・ドクトリンといいます。

社会主義国を自称している中国の指導部を新自由主義の経済学者が洗脳して取り込み、その結果、1989年に改革を求めて天安門広場に集まっていた何万人という若者のなかに戦車を突入させて、何千人も殺すという天安門事件を起こします。これに中国の人々がショックで黙り込むなかで中国共産党の幹部とその子弟「太子党」の利権がものすごい勢いで広がっていき、中国の巨大な富裕層と格差ができあがります。ソ連の崩壊で生活保障がなくなり、平均余命が10年も短くなるほど国民が抵抗力を失ったロシアも同様で、経済マフィアの横行する最低の資本主義が出来上がります。

こうしてほぼ全世界を支配し害悪を流した新自由主義イデオロギーと闘うとき、民医連には1947年施行の日本国憲法こそが拠り所と判断されたのだと思えます。新自由主義の世界支配が始まる前、更に冷戦の始まる前、世界がまだ一つの希望で結ばれるかに見えたころに作られたものだったからです。

それから今日まで、その綱領路線が深められています。簡潔に言えば生活の現場で健康権、幸福権を全力挙げて追求しつつ、一国にとどまらない広い視野で平和的生存権を構想することです。

健康権、幸福権など社会の公平を保証する制度を求める理論は一般的には「正義論」「正義の倫理」と呼ばれます。

しかし、新自由主義の害悪としての貧困と格差のみならず、高齢化の進行、東日本大震災、気候災害の激甚化の中で、誰もがかならず弱い立場に陥って誰かの支援、ケアを求める時期が人生のなかに生じることがわかってくると、「制度で人を救う正義論」のみでは捉えきれない、もっと「人間的・直接的なケアで人を救う」にはどうしたいいのかを問題にした「倫理」のあることを私達は感じ始めます。ケアは制度に定めただけでは作り出せるものではないからです。制度という配達物で届ける、ケアという中身はどう作るのかということです。

つまり私達が現実に遭遇する不正義、不公平は、貧困と病気の悪循環であり、それに由来する孤立です。衰弱して、心を閉ざし、ときに共感もしにくい人々に結びつき、配慮し、支援するときに、支援する人は「正義がもたらす制度」を作ろうとしているわけではありません。自然に自分の手でケアする以外にないから支援しています。そのとき人間が相互に依存しあうのは人間の本質だと思っているはずです。そこから出発して、やがて制度化されるべきものの中身が作られていきます。

そういう心の働きが、「正義の倫理」に対比して「ケアの倫理」と呼ばれるものです。正義の倫理の前提になるものがケアの倫理だとも言えます。

しかし、ここで本当に大切なのは、ケアはこれまで女性によって担われ発展させられてきたものであり、そしてケアを担うこと自体が女性を弱い、劣った側の立場に追い込んで行ったということです。介護労働者の賃金が不当に低いのはそれを直接に反映しています。

またケアのなかの重大な対象である性犯罪やDVで多くは女性が被害者だということも女性が暴力を振るわれるものとして社会的に作られてきたことを気づかせます。
「ケアの倫理」を改めて社会をおおう普遍的な原理、全員がケアを担うべきだとすることは、女性が担い発展させてきたものを、人類全体のものにするだけでなく、女性への差別を全廃する、つまり、女性の復権、つまりフェミニズムだということになるだろうと思います。

話が大きくなりすぎて申し訳ありませんが、この1990-2020という30年間に進んだ日本国憲法との合流過程をはるかに超えた、「フェミニズムとの合流」という大きな変化に今の民医連は臨んでいるいのだと思います。

そこで、フェミニズムと日本憲法の関係ですが、憲法14条は「人種、信条、性別、社会的身分又は門地により差別されない」と「平等権」を宣言しています。

しかし日本社会全体はなぜかこれをすごく軽く見て、最近はさまざまなところで「世襲」特権が復活しています。例えば、親ガチャといいますが、生育環境の差によって生じる教育・能力差を固定・増幅して、それがあたかも自己責任による選別の結果だとして、新しい貴族層、特権身分の出現を当然であるかのように国民を騙そうとしています。「運も能力のうち」というわけです。

フェミニズムはこれらに深いところで対決して「平等」を取り戻すものなのです。これが9条、25条と同夜の憲法の条文の乗り越えを14条でもフェミニズムを念頭にやっていかなければならないということです。

 

さて、改めて言うまでもないことですが、後継者問題がいよいよ待ったなしになっています。最近山口大学その他で青年運動を活発にやっている人たちと2回話し合う機会があった中で思うことは、もっと直接的な青年層との触れ合いを頭を絞って仕事の中に取り込んでいかないといけないということです。高校生の病院体験、職業体験はもちろん大切な企画ですが、それはことの始まりに過ぎない。一回こっきりのイベントにしないで若い人たちと話し合うことをどう仕事の一部として組み込めるか真剣に考える時期に来ていると思います。

最後でテーマが分離してしまいましたが以上を今月の挨拶といたします。熱心な議論をよろしくお願いします。

| | コメント (0)

2023年6月27日 (火)

明日の山口をどう作るか


6月25日日曜日、市民連合@やまぐちの企画に参加するつもりでいたが、パートの日直医師の新型コロナ感染のため急遽日直を引き受けたので参加できなくなった。
今日、資料を届けてくれる人がいて、山口大学名誉教授で自衛隊論が専門の纐纈 厚さん作成のレジュメを読むと、だいたい僕が発言しようと思っていたところに呼応する部分があった。それが以下の2枚の写真。
出席しなくても良かったようだ。
ただ、労働者協同組合主体の地域循環経済構築(特に農業労働者協同組合による食糧自給)を目ざす地域政党というところまでには議論が届いていない模様。

それはともかく、この日の日直は、「断らない救急」という姿勢のために、忙しい上にスリルに満ち溢れたものだったが、翌月曜の医局朝会では、土日まとめての報告に埋没して、そのたくさんある教訓を全く語れなかった、
それに引き換え、まったく仕事がなかった昨夜の当直について、なぜか延々と当直医の語りが今朝はあったのだった。これも不条理。テキストのイラストのようです

テキストの画像のようです

| | コメント (0)

2023年6月25日 (日)

9条、25条、14条いずれも憲法条文を超えた構想が求められている

割とスリルに満ちた臨時の日直をこなしながら、ローカル政治新聞の寄稿を書く。締め切りを忘れていて焦った。

私の勤務先の病院が所属する全日本民医連は2010年にその綱領を全面的に改め「日本国憲法の理念を高く掲げる」と日本国憲法を全面的に肯定した。これは相当に大きな変化だったが、振り返ってみると、やはり1990年前後のソ連崩壊、冷戦終結という世界情勢の影響だったように思える。ロシア、中国も含めてほぼ全世界を支配し害悪を流した新自由主義イデオロギーと闘うとき、1947年施行の日本国憲法こそが拠り所と判断されたのだと思う。
それから今日まで、その綱領路線が深められている。簡潔に言えば生活の現場で健康権、幸福権を全力挙げて追求しつつ、一国にとどまらない広い視野で平和的生存権を構想することである。
そのなかで前者の理論は一般的には「正義論」と呼ばれるもので、その代表であるロールズやセンの主張を私達も学んでいったのだが、新自由主義による貧困と格差のみならず、高齢化の進行、東日本大震災、気候災害の激甚化の中で「正義論」のみでは捉えきれない別の「倫理」を感じ始める。
私達が現実に遭遇する不正義は、貧困と病気の悪循環であり、それに由来する孤立である。しかし、不正義にさらされる結果として弱さに満ち、心を閉ざし、ときに共感をも拒む人々に結びつき、配慮し、支援するときに、そうする人はそれが正義だからと思ってしているわけではない。そうする以外にないからそうしているのである。依存は人間の本質だと思っている。
その心の働きが「ケアの倫理」と呼ばれる。ケアはこれまで女性によって担われ発展させられてきたものであり、そしてケアを担うこと自体がその人を脆弱な立場に追い込んで行ったことも明らかになった。介護労働者の賃金が不当に低いのはそれを直接に反映している。つまり改めて「ケアの倫理」を社会の普遍的な原理とすることは、女性の復権、つまりフェミニズムに等しい。
だから、いま民医連は30年間の憲法との合流過程をはるかに超えた大きな変化に臨んでいると言ってよいのだろう。「フェミニズムとの合流」である。それは日本国憲法14条が「人種、信条、性別、社会的身分又は門地により差別されない」と宣言しながら、なぜか実態として実現させられなかったどころか最近は明らかに悪化させてもいる「平等権」を取り戻すものでもある。9条、25条、14条いずれも憲法条文を超えた構想が求められているのである。

| | コメント (0)

2023年6月20日 (火)

売春合法化、セックス・ワーク概念積極肯定を主張する人々

Colabo(コラボ)の仁藤夢乃さんの投稿にあった写真の一部。
少女写真撮影会中止に反対する右派のデモだろう。日の丸の横のプラカードは、売春合法化、セックス・ワーク概念積極肯定を主張するものと推測される。

不思議なのは、こういう主張は左派にもあることである。

新自由主義による貧困・格差の進行を奇貨として、グラビアが売り物のサラリーマン向け週刊誌といったジャーナリズムから覚醒剤・人身売買に至る幅広い性産業が巨大な利潤を上げ続けていくために右派も左派も買収され動員されているのである。

正気でいたい。

 

5人、群衆、、「TET 何を売る かはワタシ が決める 2」というテキストの画像のようです

| | コメント (0)

今朝は「仁義なき戦い」

主に診療所の医者の処方に見かけることだが、MRの勧める新薬が思慮なく採用され、それで副作用も多いので、それに対抗する薬が処方され、その副作用にまた別の薬が処方されていく、というふうに症状ごとに出される薬が、まるで冬に暖房のない部屋に住んでいる人が着膨れるような姿になっていることが多い。

やはり10枚以上着ると息苦しくもあり、着替えることも減ってくるーこれは僕の中学時代の貧しい下宿生活の経験である。

こういうのを処方カスケードというらしい。

そういう人が救急車で運ばれて、絶食となったついでに持参薬なるものをすべて中止しても何事も起こらないことが圧倒的に多い。
(ただ抗けいれん剤と向精神薬だけは突然の中断とならないようにと注意しているーこれも苦い経験による)

退院のとき持参薬を再開するかどうかだが、僕は心が冷たいのだろう、もとの主治医に僕の書いたこの手紙を見て決めてもらうようにと言って手ぶらで帰す事が多い。『韓非子』にある昭候の故事、あるいは木枯し紋次郎の教えに従っているのである。

しかし、腎障害があって低血糖が深刻なことになるからあなたの処方の経口血糖降下剤はやめるべきだとわざわざ手紙を書いたのに一ヶ月後再び重症の遷延性低血糖で運び込まれることもある。手紙を読まない医者がいるのも確かだ。こういう場合は自分のところに転医させる以外にない。

話がそれた。
実は昨夜は過労で、肩がまさに鉄板のようになって、仕方がないので手元にあったBZ剤を1錠服用して眠った。
起床時の体の痛みはなくなっていたようだが、出勤して例のごとく自分だけ新入院の担当患者が増えてくると、外来診療をしている中で異様に怒りっぽくなっている自分を発見する。いつもは我慢するのに、何故か今日はブレーキが効かない。広島出身者はこういうとき全員が「仁義なき戦い」ふうになってくる。「あんのう、わしにもたまは一発残っとるがのう」という感じ。
こんなことではもう1錠BZが必要かと思いながら、この易怒性が自分の場合BZの副作用だと思いあたった。おそらく血中濃度が低下してくるときに生じる。
つまりBZの副作用に対してBZを服用しようとしたわけである。

これは一人相撲的処方カスケードか?

| | コメント (0)

2023年6月19日 (月)

6月24日の医療生協健文会の山口市事務所の開所式

6月24日の医療生協健文会の山口市事務所の開所式の挨拶を書いている。

民医連空白都市への進出を病院・診療所でなくソーシャル・ワークの拠点から始めるという新しい試みなので、これまでしゃべってきたことの転用では語れない。

そういう種類の問題については、自分が考えていることを自分の話し言葉でそのまま書いていくということが多い。そして、第一回目には見事に失敗して思うことの1/4も伝わらない。それは目に見えているのだが、今回もそうするしかない。

原稿用紙で20枚程度の短い話だが起承転結の形式には遥かに遠い。

そのサワリだけここに公開してみる。

「公務員と大学関係者の街なので貧困は少ないと言われました。確かに生活保護利用者の1000人あたりの数を見てみると 山口県全体で10.3人、宇部市17.19人、下関市14.7人、周南8.25人、山口市7.14人と宇部の半分以下になります。(いずれも2020-2022の最新の数値)
圧倒的に生活保護利用者の少ない街なのです。
しかし、これが貧困度を素直に表現しているのだろうかと疑問になります。県庁所在地ということで行政の姿勢が厳しく、また市民の運動も抑え込まれているのではないかとも思えます。
逆に宇部市は工業都市で労働運動の力が強く、そのおかげで民医連である宇部協立病院ができたりするなどがあって、生活保護利用者率が高くなっているのではないか。
山口と宇部にそれほどの差はないのではないか、山口にも貧困と病気の悪循環により孤立して、支援すべき人は多くいるのではないか。今はそれが見えていないだけ、隠されているだけなのではないか。
ここは実践で証明するしかないと思います。」

| | コメント (0)

2023年6月12日 (月)

ハンナ・アレント「暗い時代の人々」のローザ・ルクセンブルクの章を再読

どんよりした6月11日日曜日の午後は
雑誌「世界」7月号(ChatGPT特集)、岩波ブックレット「史上最悪の介護保険改定?!」、雑誌「図書」6月号(無料)、NHK100分で名著「ヘーゲル 精神現象学」、「ナオミ・クライン ショック・ドクトリン」と新しいものを机に並べながら、

結局は古いハンナ・アレント「暗い時代の人々」のローザ・ルクセンブルクの章を再読するのに使ってしまった。斎藤幸平「Marx in the Anthropocene」で「Rosa Luxemburg's theory of metabolism and its oblivion」(「ローザ・ルクセンブルクの代謝論とその忘却」を読んだばかりだったからである。

いくつか二項対立で捉えられた面白い視点がある。

1:ローザ・ルクセンブルクと修正主義者ベルンシュタインの共通点は「現実に対して忠実であり、それによってマルクスを批判していた」こと。ベルンシュタインは先進国の労働者階級はマルクスが言うように窮乏化はせず祖国の利益に従属的になったことを重視し、その現実に適応しようとした。ローザ・ルクセンブルクはマルクスが言う歴史上一回きりの略奪による原始的資本蓄積を現実から否定して、植民地を代表とする略奪対象としての外部探しが資本主義の本質で、外部を発見できる限り資本主義は崩壊しないと主張した。
これほど違うのに、現実から考えるという一点で二人は通じるものがあった。

2:ローザ・ルクセンブルクとレーニンの共通した革命論は「組織から行動が生まれてくるのではなく、行動の中からしか役に立つ組織は生まれてこない」ということと「革命は誰かによって作り出されるものでなく、自然発生的に下から勃発するもの。行動の圧力も下から来る。その圧力を見逃すな」ということだった。

3:しかし、ローザ・ルクセンブルクとレーニンの違いは、レーニンが「行動には巨大組織はむしろ邪魔もので、少数精鋭が望ましい。革命を作り出す自然発生的圧力は、それが戦争であっても歓迎する」としたことにある。ローザ・ルクセンブルクは戦争で人間の生命が奪われていくことを受容できなかったし、共和制を否定する一党支配も許さなかった。

ただし、ローザ・ルクセンブルクを徹頭徹尾間違っていたと攻撃したのはレーニン死亡後のソ連の権力者であって、レーニン自体はルクセンブルクの全集出版を要求している。

| | コメント (0)

2023年6月 9日 (金)

私事がそのまま共有物になるという幸福

同じく古雑誌atプラス30号(2016年)に、こうの史代インタビュー「記憶の器として、日常を描きとめる」がある。
こうのが何も大上段に自らの社会的使命として「記憶の器」たる漫画を作成しているというわけではない。
漫画家はまさに自分の記憶の器として漫画を使う、しかしそれが漫画であるがゆえにそれはそのまま他の人との共有物になる、というだけのことである。
医師はまさに診断治療の手段として他人の生活のなかに入り込まざるをえない、しかしそれが苦しむ人間の生活であるがゆえに、そこでの見聞は他の人との共有物になるというのと同じである。
1人、、「おは? 漫 と 画 の 第 濃動く 記 人 憶 の 器 と し 回 はは 妹 四 日 常 を 描 で め 代 た こうの史代 が」というテキストの画像のようです

| | コメント (0)

あまりにだるい金曜日の午後外来

グレン・グールドが人前で演奏しなくなったのは、彼の特別な意志によるのではなく、「ゴルトベルク変奏曲」を鼻唄を歌いながら演奏するという彼のスタイルが聴衆から咎められたからだった。
グールドの超人的変わり者という説をエドワード・サイードはこのように否定した。
彼は歴史的文脈を駆使して小森陽一のように文学作品を読み、ついには文学批評の枠内に収まりきれなかった人だったのである。

あまりにだるい金曜日の午後外来、古雑誌atプラス30号(2016年)を読んでやり過ごそうと思っている僕が再発見したことである。なんでも忘れてしまう人にとって読書は2度美味しい。

テキストの画像のようです

| | コメント (0)

2023年6月 6日 (火)

フェイクとはなにかについて考える愚行権行使

なぜか日曜(2023.6.5)の早朝に目覚めて、冴えない気持ちの中
雑誌「現代思想」6月号の「無知学/アグノトロジーとはなにか」特集 隠岐さや香+塚原東吾対談 「無知の力と新しい啓蒙」から読み始める。
冷静であるべき科学史家が、ことトランスジェンダー問題となると自分が反対する言説を突然フェイクと決めつけるのが読み進めていく上で邪魔だったが、原子力、遺伝子操作、AIなど開発に留保が必要な技術をどう扱うかということと、ポスト構造主義の際限のない相対化の中で根拠のない放言がそのまま放置されてしまう状況をどう克服するかということがテーマだとはわかった。
数年前脚光を浴びたマルクス・ガブリエルは新しい権威が必要で、その権威に依存して(=新啓蒙主義)庶民は無知でも良いとする立場のようだ。

この雑誌を読む時間と経費は、自分にとって有益なのか浪費なのかいつもわからなくなるが、好奇心は満たしてくれるので、書かれていることに影響されない限り可としよう。自分にとっては、愚行権行使の一つ。

| | コメント (0)

2023年6月 1日 (木)

ローカル政治新聞 寄稿 6月分

以下は2016年に韓国の雑誌「医療と社会」に求められて私が書いた文章の冒頭である。韓国語に翻訳されて掲載された。民医連という日本の医療団体の理念史スケッチだったが、私的な文章だから、当時自分が副会長を勤めていた全日本民医連にも相談せず発表した。反響もなかったので忘れていたが、最近「民医連とフェミニズムの遭遇・合流」というテーマを考えていて思い出したのである。

「民医連運動は単に第2次大戦後に日本に起こって今日に続いている医療の民主化運動ではない。日本における民衆指向医療の歴史の総体を引き継ごうとするものである。それはおそらく日本の歴史の奥深いところまで根源を求めることができるだろう。13世紀鎌倉時代の僧 忍性による医療実践、17世紀(江戸時代前期)の貝原益軒の著書『養生訓』、18世紀(江戸時代中期)の安藤昌益の著書「『自然真営道』などはおそらくその一部となるものである。中でも忍性は鎌倉の極楽寺を拠点にハンセン病他の患者に対して幅広い医療活動を行なっていた」

書いた後、鎌倉にも極楽寺にも行ったことがないのを恥じ、東京への会議出張の空き時間を利用して見物に行った。江ノ電極楽寺駅は谷間の底にある変わった駅だがドラマや映画の舞台になりやすい。最近では映画「海街ダイアリー」。日本における民衆指向医療のルーツである極楽寺は駅から2分のところにある。

思うに、鎌倉時代は遣唐使中止以降の平安時代という鎖国が終わって宋との交流が拡大した時期で、医療も大きく変化した時代ではなかったのか。忍性の医学も宋の医学をいち早く取り入れ最先端だったようである。

お寺は小さく、「参拝以外の人は入ってはいけない、写真も撮ってはいけない」と掲示され、小さな潜り戸だけが開いている。広大な寺が縮んで残ったのだろう。忍性の業績を示すものはない。したがって、忍性の事績が現代の鎌倉市民、神奈川県民の常識である怖れはないだろう。

忍性の墓を見ようと稲村ヶ崎小学校のほうに歩くと、見知らぬ男を警戒する学校ガードマンのおじさんに声をかけられる。聞くと、極楽寺さんで鍵を借りないと墓所には入れないし、許可される可能性もないと。入口の写真だけ撮って帰った。

「民医連とフェミニズムの遭遇・合流」については次回。

 

| | コメント (0)

民医連理念の歴史  どこかで韓国語に訳されている

以下は2016年に韓国の雑誌に求められて私が書いたものである。韓国語に翻訳されて掲載された。
民医連理念史の概観とでも言うべきものだったが、全く私的な文章として全日本民医連に相談はせずに発表した。韓国で読者がどう読んだかも分からなかった。

この文章のことは忘れていたが、最近「民医連とフェミニズムの遭遇」ということを考えていて思い出した。

相当にオリジナルな部分を含むと思うが、その分実証的ではない。だれか専門家がこの視点で実証的なものを書いてくれないかと思う。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

民医連(min-i-ren)運動は単に第2次大戦後に日本に起こって今日に続いている医療の民主化運動ではない。

日本における民衆指向医療の歴史の総体を引き継ごうとするものである。それはおそらく日本の歴史の奥深いところまで根源を求めることができるだろう。

13世紀鎌倉(Kamakura)時代の仏教僧 忍性(Ninsho)による医療実践、17世紀(江戸Edo時代前期)の貝原益軒(Kaibara Ekiken)の著書「養生訓(Yojokun)」、18世紀(江戸Edo時代中期)の安藤昌益(Ando Shoeki)の著書「自然真営道(Shizensineido)」などはおそらくその一部となるものである。中でも忍性は鎌倉の極楽寺(Gokurakuji)を拠点にハンセン病他の患者に対して幅広い医療活動を行なっていた。また安藤昌益については徹底した平等論者で江戸時代の封建主義身分制の激しい批判者だったことが注目される。

ただし、これらのことについてはこれ以上触れることができない。

民医連の直接の先行者は、第二次大戦前の民衆指向医療とマルクス主義との合流の中で生まれたプロレタリア医療機関運動「無産者診療所(Musansya Sinryosyo)運動」である。暗殺された労農党代議士山本宣治(Yamamoto Senji)の葬儀を契機に労働者と農民の医療機関を作ろうという運動は瞬く間に全国に広がった。しかし、この運動は戦前の軍国主義日本により暴力的に壊滅させられた。

第二次大戦後、1953年に創設された民医連は戦前の無産者診療所運動を引き継ぎながら、マルクス主義との合流だけではない、さまざまな思想との合流を果たしながら、その理念的な発展を遂げようとしているのが、今日的な特徴となっている。

その中でも日本国憲法第25条「生存権」との合流、国連の世界人権宣言に代表される「健康権」との合流、WHOの健康戦略との合流が比較的短い期間に連続的に起きた。これにより最近の民医連運動の様相は歴史の前半とは大いに変わった。

そこで今回は、①生存権か健康権か、②健康権宣言か健康戦略かという論争的な二つの事柄について民医連の理念のこの間の変化をたどってみたい。

1 憲法25条「生存権」(right to life)の再発見と合流

日本国憲法25条第1項

「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」

日本国憲法は第2次大戦直後の連合国占領下で、占領軍総司令部GHQの強い指導力によって制定されたものである(1947)。平和的生存権、国民主権、戦力の放棄を謳う画期的なものだったが、一方で米日支配層の妥協により天皇が戦争責任を問われなかったことを反映して、天皇に関する条項が最初に掲げられている。しかも、憲法制定後まもなく激しくなった米ソ冷戦のもとで、日本を事実上の属国としたアメリカは日本に対し戦力放棄(9条)を変更させようと工作を始めた。結局、憲法を変えることはできず、違憲の軍隊である自衛隊 Self-Defence Forceが設立された。

そのような複雑な事態のなかで、日本の左翼は憲法を丸ごと肯定するという姿勢には長らく立たなかった。憲法前文、9条など選ばれた「民主的条項」のみの遵守と発展を目標としてきたのである。

しかし、1980年台の中曽根首相以来、次第に現実化を帯びてきた自民党の憲法改定策動は、左翼勢力による憲法の再検討を促した。

現在の天皇は国家元首でなく政治的権能をもたない「国民統合の象徴」の役割に徹しており、その意味で日本をイギリスやオランダのような君主制の国に数えるのは間違いだとされ、憲法の天皇条項も含んで、憲法全体が遵守の対象とされるようになった。

憲法25条への姿勢にも変化があった。1990年以降の研究により、憲法25条は実は占領軍GHQの憲法草案のなかには存在せず、社会党所属の国会議員 鈴木義男(Suzuki Yoshio)の提案で挿入され、「生存権」と名づけられたことが清野幾久子(Seino Kikuko)らにより明らかになった。鈴木義男はドイツのワイマール憲法(1919年)の第151条第1項を参照したといわれる。

ワイマール憲法第151条(経済生活の秩序、経済的自由)
1. 経済生活の秩序は、すべての人に、人たるに値する生存を保障することを目指す正義の諸原則に適合するものでなければならない。各人の経済的自由は、この限界内においてこれを確保するものとする

しかし正しくは鈴木義男の提案は戦前の厚生経済学者 福田徳三(Fukuda Tokuzo)が1900年ごろドイツに留学して日本に持ち帰った生存権思想を受け継ぐものだった。福田は1923年の関東大震災の際、一橋(Hitotsubashi)大学の学生を引き連れて被害状況を実地に調査し、生存権に基づいた「人間の復興」を唱えたことが有名である。「人間の復興」は約90年後、2011年3月11日の東日本大震災後の復興に当たっての私達の合言葉ともなった。

福田徳三は著作の中でドイツのアントン・メンガー Anton Menger(1841-1906)から生存権思想を受け継いだと語っている。アントン・メンガーはドイツの社会主義的な法学者だがイギリスのフェビアン社会主義から強く影響を受けていた。

このような日本独自の生存権に関する歴史が明らかになると同時に、より重要なこととして、日本の社会保障運動の発展によって生存権の意味も大きく変わりつつあった。25条の文言通り「最低限度の生活を保障する」という貧困線以下の人々の救済の根拠であることを超えて、貧困線以上の人も含め「全ての人に健康で文化的な生活を保障する」という福祉国家の原理に変わろうとしていた。

これと戦力放棄を謳った憲法9条とあわせ考えれば、国民の戦争協力と社会保障とを交換条件とする側面を持つ第二次大戦後のヨーロッパの福祉国家とは一段階違う画期的に新しい福祉国家像が憲法25条のもとに構想されるようになったことになる。それは絶えることのないアメリカによる戦争が前提となっている新自由主義的世界像と根本的に対決するという性格を持つ福祉国家像である。

こうして日本の左翼運動における憲法25条、生存権の位置づけは大きく変化し、より身近なものとして捉えられるようになった。民医連が2010年の新しい綱領で以下のように宣言したのも民医連の理念と憲法25条の合流の現れと考えることができる。

全日本民医連綱領から
「日本国憲法は、国民主権と平和的生存権を謳い、基本的人権を人類の多年にわたる自由獲得の成果であり永久に侵すことのできない普遍的権利と定めています。しかし、その権利はないがしろにされています。私たちは、この憲法の理念を高く掲げ、これまでの歩みをさらに発展させ、すべての人が等しく人間として尊重される社会をめざします。」

そうなると生存の最低線を保障するだけという意味にも受け取られる生存権という名称が私たちがめざす人権の名称としてふさわしいのかどうかという問題が生じた。そこで「健康権」という呼称が浮かび上がってくる。しかし、生存権の名前の元に闘われた運動、とりわけ朝日茂(Asahi Shigeru)という一人の勇敢な結核患者が憲法25条生存権を根拠に国家を相手に起こした訴訟は「人権裁判」と呼ばれて人々の記憶に強く残り、それを通じて作られた生存権という呼称への愛着は根強いものがあった。

「生存権か健康権か」という問題は単純に名称の問題に過ぎないようだが、健康権という名称の受容にはもう一つ別の理念の発見と合流が必要だった。それは次の章で述べる。


2 健康権宣言か健康戦略か

日本の憲法で言う生存権は世界的には健康権(right to health)と呼ばれる。

健康権は1948年のWHO憲章、世界人権宣言で文言としては確立した。その後も国際人権規約経済的社会的文化的権利に関する規約12条(1976)、国際規約人権委員会「経済的、社会的および文化的権利に関する国際規約」第12条「健康権に関する一般的意見第14」(2000)でくり返しほぼ同じ内容が宣言され続けている。

国際規約人権委員会「経済的、社会的および文化的権利に関する国際規約」第12条「健康権に関する一般的意見第14」(2000) 

健康は他の人権の行使にとって不可欠な基本的人権である。すべての人間は尊厳ある人生を送るために到達可能な最高水準の健康を享受する権利を有する。

実はこうした宣言が繰り返されるということ自体が、宣言のみでは現実は何も変わらなかったことを意味している。

それはアマルティア・センAmartya Senのジョン・ロールズJohn Rawlsに対する批判に似ている。センは正義に対するアプローチに二つあるとした。①理想的な制度や法律を作って完全な正義を実現しようとするもの(カント、ロールズ)。②まず現実の明白な不正義をこの世界から取り除こうとするもの(マルクス、セン)。

この批判どおり、健康権が実現するためには理想的な宣言を繰り返すことは無意味で、何らかの具体的な実践上の戦略が必要とされたのである。

健康戦略の開始は1978年のアルマ・アタAlma-Ata宣言で始まった。しかし第1段階の健康戦略であるプライマリ・ヘルス・ケアPrimary Health Careはアメリカとソ連の覇権争いの中で非政治的な枠内に閉じ込められ、部分的、選択的なものにしかならなかった。

1986年のオタワ憲章から始まった第2段階の健康戦略ヘルス・プロモーションHealth Promotionも新自由主義の猛威の中で、社会の改革よりも、自己責任を前提とする「個人のエンパワーメント empowerment」に重点を置くものとなった。日本では「健康日本21」という官製運動が厚生労働省を中心に展開されたが、ほとんど成果を挙げることができなかった。

健康戦略が「空想から科学に」なって、実際に世界の人々の健康を改善する展望を得たのは、マイケル・マーモットMichael Marmotによって健康の社会的決定要因SDHが確立し、SDHに基づくヘルス・プロモーションという第3段階の健康戦略が出現したときである。マーモットを委員長とするWHOーSDH委員会は2008年「一世代のうちに格差をなくそう」という最終報告を発表してその健康戦略を揺るがないものにした。

このとき健康権の各宣言もようやく実質的なものになったといえる。

民医連は日本のなかでは先駆けてこの第3の健康戦略を熱心に学び、民医連の理念とSDHに基づく新しいヘルス・プロモーションの合流が起こった。SDHを確かな事実だと呼ぶ意味合いの「ソリッド・ファクツSolid Facts」は民医連全体の合言葉となった。1960年代後半に民医連の特徴として自然発生的に成立していた「病気を労働と生活の視点で捉える」という姿勢はSDHを先駆的に意識したものと解釈された。

そのとき初めて、従来から愛着を持たれていた生存権という呼称を世界の潮流にあわせて健康権と呼びなおそうという姿勢が明らかになったのである。

民医連にとっての健康権は、SDHに基づく健康戦略によって達成される生存権に他ならないものである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

| | コメント (0)

« 2023年5月 | トップページ | 2023年7月 »