雑誌「世界」5月号 田中康博

今日の県連理事会、2時間半の会議中ずっと考えていて、ようやく分かったことがある。青井未帆は何を主張しているのか。
現在の政治状況の中では、『戦争をする「国家」にするのかしないのか』の議論はほぼ決着がついてしまったというのが痛切な現状認識である。
国会無視・閣議決定のみで9条解釈と運用がまかり通る「国家」の論理が2013年以降実力で現実化されている。
そして「仮想敵国中国」の明示で具体的な軍拡が進行中だ。
従来どおりの「国家」安全保障を議論しようという土俵で挑む限り勝てないところまで私たちは追い込まれているのである。
では私達は、どこに自分の全体重をかける土俵の俵を求めるか。
それは「個人の自由」である。徴兵されない自由、戦争に生命や生活を侵されない自由など、まさに「私個人の自由のためにある9条」の意義を直視して、個人レベルで平和を準備することが、もはや後退するのりしろもない運動の枠組みとなる。そのとき9条はまさに徳俵になって私たちを支える。
つまり、「国家単位の安全保障」でなく「個人単位の安全保障」を求める反撃の運動を作り出す必要がある。
「戦争をしない国にしよう」ではなく「私を殺すな」というレベルで対峙しなければもはや血路を切り開くこともできないのではないか。
雑誌「世界」5月号 青井未帆『安保三文書改定と私たちの平和構想力」
新年度最初の県連理事会ですが、皆様ご苦労さまです。
史上最速で春が過ぎ去ろうとしています。新型コロナは弱い9波という予測はありながら、終息という期待も抱かせます。と同時に夏の猛暑や風雨災害への備えをもう考えなくてはならない時期になりました。宇部市の方ではここに来て宇部協立病院も協定を結んでいる「福祉避難所」の具体化が、私達の働きかけのせいもあって急展開しています。
今後の災害は必ず毎年前年を超えて激甚化してやってきますので、気持ちを引き締めて新年度を迎えましょう。
さて、今年も多数の新入職員が入職してきましたが、新入職員を受け入れると、こちらも気持ちが新しくなって、これまでの自分の在り様を見直したりします。新陳代謝は必要だと実感するところです。
その他にも新しいことがあります。
3月から、医療生協健文会の「山口市事務所」を開設しています。
私達の医療・介護活動の土台になるソーシャル・ワークと医療生協組合員活動を一体のものとして、事業所空白地域である山口市で展開しようという野心的な展望を持った活動拠点です。事務所自体は2階建ての貸事務所の中の一室で大きいものではありませんが、山口駅から道場門前のアーケード街に向かう道の途中という一等地にありますから、使い方は様々に工夫ができると考えています。
事業所空白地域が多数ある中で、なぜ山口市が最初に選択されたかというと、県庁所在地であり山口大学他の教育機関が多数あるからです。つまり、後継者探しの前線がここにあると考えています。
早速その事務所で23日日曜に青年団体の数人と懇談会をしました。そこで、人文学部の3年生だが、地元の養護老人ホーム(低所得の独居老人の入所施設)の「相談員」になって実際の介護もしながら視野を広げているという活発な青年に出会いました。大学で学んでいることと社会を知ることを結びつけたいという気持ちで 宇部リハグループの募集に応じて採用されたと言っていました。すぐに彼らがしている大学生への食材支援にこちらも協力するということになりました。
私達の働きかけとは無縁にそういう人がどこかにいて、いつか必然的であるかのようにつながってくるということに何か感銘を覚えました。目を医学部に向けるとここは見当がつかなくなるのですが、自分が学ぶことの意味を「地の塩」のように考えている医学生もどこかにいるに違いありません。奇跡のような存在に思えてきますが、民医連がそういう存在を教育で作り出すということは考えにくくても、出会うことはあるだろうと希望を持ちます。必要なのは出会うためのこちらの努力です。つまり、出会ったときにこちらに語るべきものがあるような努力と相手によって変わることのできる柔軟性を持つことだと思います。
そういう春らしい感想を述べて、情勢に関わる2点をご紹介して挨拶を終わります。1点目は2021年の入管法改悪が再び持ち出されて、今度は通されようとしていることです。もう一つは、統一地方選挙の中に見る希望の芽というものです。
今日は部会形式ですが、熱心なご討議をお願いします。
深夜に病棟から死亡の連絡があったので眠れなくて、台湾映画「藍色夏恋」2002年を見た。光がこもっているような高音多湿の空気感がとても懐かしい気がする。
1967年頃、あてもなく出歩いていた夏の広島の夜に似ている。
正義の倫理に基づくSDH への働きかけ(健康格差解消)と、ケアの倫理に基づく具体的な個人への支援(パーソン・センタード・ケア)を一体化すること。
たとえば非正規労働というSDHのために糖尿病治療が中断がちで症状悪化も明らかな人には対しては、非正規労働の持ついろんなレベルでの問題の解決に努める(それは通勤のための公共交通探しや雇い止め後の新たな就職先探しなど諸困難に対応してるだけと見えることも含まれる)と同時進行で、脆弱な存在の生存確保のための直接的支援(住宅や食料の確保から無料低額診療の提供、その上でその人に適合する療養スタイルの模索・選択など)が必要となるということである。
この一体化されたものの理念を「正義とケアの倫理」と呼べばどうだろうか。
よく「その人らしく最期まで」というが、
映画「ドライビング・マイ・カー」を見たせいで、村上春樹「女のいない男たち」とチェーホフ「ワーニャ伯父さん」を電子書籍で読むことに。後者は高校生のときに読んだが忘れている。
村上春樹の原作は割と面白く、死んだ人達に私達ができることはいつまでも彼らを記憶しておくこと、可能な限り思い出そうと努めることという話には共感する。
ただ、一つ気になるのは「ある日、思いついて女を買ったみた」というふうな記述がなされていること。フィクションだとしても、世に数多いる彼のファンはこういう主人公を許容できるのだろうか。この社会の日常だと思っているのだろうか
ローカル政治新聞連載の5月分の原稿を書いてみた。
これから推敲。
『今年も宇部協立病院に研修医2名が入職してきた。山口県で最小の研修病院で2年間のお付き合いが始まる。研修後も残る人がいないのが最大の悩みだが、ここで良い医師への第一歩を歩みださせるのは病院の社会的な義務でもある。
そこで思うのは、研修医こそ医師の特権意識の出発点だということ。先月までは学生だったのに突然「先生」になってしまう。
医師が特権的地位を持つのは単純な病気を治療する上では格別な支障とはならない。たとえば肺炎に使う抗菌剤の種類は医師が一人で決めるのが当然である。
しかし、人口減少が激しく社会資源も欠く中で、孤立、貧困、障害、老衰さらに女性差別が絡み合ったような複雑な事例に対処する上では医師の特権が最大の障害になる。必要なのは、多くの人の語りに耳を傾け、よく話し合って集団的な合意を一つの「物語」として形成することなのだが、特権に染まった医師には人の語りを聞くことができない。何一つ自分の考察を持たないのに影響力は絶大だから最大の障害になる。
特権を解体して再出発する。それが複雑事例の前に立った医師には求められる。将来のため、研修がスタートする時点でこれから自分に染み付く特権意識に目を向けてもらう必要がある。項目にすれば「地域医療と多職種協働」というありきたりなことだが、お互い痛みが伴う話である。
さて、複雑事例において皆が納得する共通の物語を求める流儀は、主として女性が男性優位の社会の片隅で育んできたものであり、「ケアの倫理」と名付けられている。21世紀の医師の学習の半分は「ケアの倫理」の習得にあるといってよい。
この連載の最初に触れたロールズの「正義論」は極めて精密であるが、基本的に自立した男性間の平等の枠内にとどまり、自立を妨げられた弱者、障害者、女性にまで視野を広げてはいない。これに対し目の前で苦しむ人にためらうことなく手を差し出し、必要であればどこまでも支援することによって実質的平等に迫っているのが「ケアの倫理」である。
前回は1980年代の哲学者 鈴木 茂さんがマルクスの中心的人間観を「生まれついての社会的共同性」だとしたことを紹介した。21世紀になってみると、それは「正義論とケアの倫理を統合」を予感し、両者の対抗しつつも相補的である関係をいち早く捉えた先駆性があった。
』
今朝の新入職員オリエンテーションで話したことの要旨
組織図は最低限の地図、地図が与えられない旅行は強制収容所への移動、日常は奴隷的監禁。
自分の頭で生きていこうとすれば組織図が必要、組織図を知ることは組織の民主主義の第一歩。
私の歴史を組織図の上でたどるとこんなふう、と話すのをオリエンテーションに出演する人全員にお願いした。
地図に現れないのが民医連。「民医連綱領で結ばれた魂の共同体」というべきか?そんな神秘的な魔物、共同幻想でもないことの種明かしを。
仮にジャイアンツ、カープ、ホークスという複数の野球チームを運営している一つの球団を考えてほしい。
球団が法人。チームが病院、診療所、介護事業所。それは監督以下がラインで動く世界。
それに対してチーム会+選手会が民医連。構成員は職員。全員平等が原則。
職員の健康と心理的安全を守るのが会長の第一の役割。第二は外部に向かって選手会の主張を代表すること。
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