むき出しの支配から正義の倫理による支配の時代へ、さらにそこを超えてケアの倫理の時代へ
正義の倫理は救済にも統制にも使わわれるが、結局は政治や統治のためのものと言ってよい。
医師の役割はここまで、医療の役割はここまでと限界を定め、自らはその限界の遥かに遠く小さく縮こまり、超える他人は目ざとく攻撃するとき使用されるのも正義の倫理である。
「こういう限度をわきまえない困窮者支援に、法人は給料を払っているつもりはない、そのための残業も認めない」という言い草もその類(たぐい)だろう。
ケアの倫理はそれに抗(あらが)うためにあると言ってもよい。
簡単にいうと「能力に応じて与え、必要に応じて受け取る」のがケアなのだ。
今ここにあるコミュニズム。
哲学者 鈴木 茂が「巨視的に見れば人類史は、共同的社会性という人間の本性の成熟してゆく過程にほかならない」と言ったのは、ケアの倫理が正義の倫理に置き換わっていくということだったのかもしれない。
むき出しの支配から正義の倫理による支配の時代へ、さらにそこを超えて(この境界部分に後期マルクス、ロールズ、センやマーモットがいる)、ケアの倫理の時代へということ。
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