« 秋川雅弘さんのこと | トップページ | 患者中心の医療の今 »

2023年1月 4日 (水)

朝日健二さんのこと

宇部から萩に行く道の途中に長登銅山(美祢市)がある。奈良時代の東大寺大仏に使われた銅の産地として有名である。小林健二、後に朝日 茂さんの養子となって人権裁判・朝日訴訟を継承した朝日健二さんはそこで生まれた。
二〇一五年九月一八日の夜、東京都清瀬市の朝日さんの自宅で、ベッドの上にいる彼と三〇年ぶりの再会を果たした。地元の民医連診療所が患者の朝日さん自身の提案で在宅緩和医療を開始し、その担当となった友人の医師が取り計らってくれたのである。ビデオカメラが設置されていた。
 その診療所は常勤の医師もなく停滞していたが、朝日さんの突然の申し込みに困惑しながら受け入れることで、最期まで寄り添う在宅医療を自らの特徴とするよう大きく変わろうとしていた。
そういう「患者の力」について僕が語ると、「そんな特別のものではなくて、あの時も今も私が困っていたからお願いしただけで、全部先生方のおかげです」と恥ずかしそうに答えた。
 あの時というのは一九八六年のある日、宇部の病院に勤務しながら小野田診療所の所長も兼ねていた僕のところに颯爽とした朝日さんが急に現れて、旧山陽町渡場に住む母の訪問診療を申し込んだ時のことである。病院救急医療に没頭して診療所の在宅医療に関心を持てないでいた僕が渋ると、彼は「それは理解できます。しかし、今年から自力で通院できない患者への定期往診が訪問診療という名前で制度化されたのはご存知ですか」と東京保険医協会事務局次長らしい明晰さで説明した。つまり訪問診療を受けるのは患者の権利の問題であることが瞬時にわかって、僕は意向を撤回した。
 そのつもりで診療所周辺を見渡すと訪問診療の対象者がたくさんいた。それまでは支援を求めていた人が目の前にいても見えなかったのである。次第に増えた二十人以上の在宅患者さんを抱え、併せて訪問看護も始めるようになると、苦しかった経営も一気に改善した。朝日さんこそ東京と山口、二つの診療所の恩人だった。
 痰が絡んで息の苦しそうな中から、その日のまとめとして「地域包括ケアが憲法二五条に沿って大きく発展してほしい」という言葉を聴き取って僕の短い訪問は終わった。
 朝日健二さんが亡くなったのはちょうどその一ヶ月後、二〇一五年十月一七日だった。

|

« 秋川雅弘さんのこと | トップページ | 患者中心の医療の今 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 秋川雅弘さんのこと | トップページ | 患者中心の医療の今 »