吉松広延先生
地方政治新聞連載の材料を書き溜めておこうと思って今日も一編書いてみた:
1972年の初夏、山口市の道場門前通りと、山口駅から旧国道9号への道の交差点から少し北にあった小さい古本屋で吉松広延先生に一年ぶりに出会った。そのころはどこにでも喫茶店があったのでそちらに移動した。
と、書き始めて僕の中では吉松先生と美濃部都知事の顔と声が混同されてしまって、その違いがわからないでいる。相貌失認が自分にあるのかとも思う。ともあれ60歳近い上品な痩身の男性であったと思ってもらえれば良い。
教授と名のつく人と個人的に話すのは初めてだったのでひどく緊張した。前年、教養部の生物学の教授室を訪問したのは何かの署名のお願いだった。
「僕も昔は社会民主党にだいぶ共感していたのです」と意外な言葉を聞いた。帰り道、友人が「あいつだめだね、やっぱり社民なんだ」と言ったが、年齢から言って共産党がそこから生まれる前のドイツやロシアの政党名ではなかったかと思ったので同意しなかった。
吉松先生から学んだことは多い。島根県の港から直送されたサメの氷頭から三半規管を削り出す実習は自分の不器用さのため苦手だったが、オパーリン「生命の起源」は1年生の課題図書だった。細胞の起源であるコアセルベートという用語をまだ覚えている。
「宇部での専門課程はいかがですか」と訊かれた。「教養の2年間ドイツ語に没頭したので切り替えが難しい」と答えると「そっちに行ったら良かったんじゃないですか。誰か中国文学の吉川幸次郎さんに憧れて京都に行きましたね」と言われた。僕には別世界の話のように思えて、専門4年生の自殺事件に話題を変えたが、先生の反応はなかった。その後会話が続かなかった。
したがってこのときのことはあまり良い思い出にはなっていないのだが、いま吉松先生の僅かな思い出を書いておこうと思ったのは、日本を何度も襲うカルトについて考えたからである。
1940-60年全ソ連の生物学を支配したカルトにルイセンコ学説というものがある。ダーウイン進化論を攻撃し獲得形質の遺伝を謳うトンデモ学説がスターリン、フルシチョフという共産党トップを取り込み反対派を追放して猛威を振るう。その影響は日本の戦後の民主主義科学者協会という左派にも及んだ。井尻正二など有名な人もルイセンコ派だったらしい。そういう中で、若い吉松広延の理性的な言説が際立っていたことを後で知った。
自民党の統一教会まみれの姿や学術会議の窮地に限らず、今の日本は様々な「左」右のカルトの渦に見舞われていると言ってよい。限度なしに多様性を重視し生物学も政治学も同等に社会的構造物にすぎないという相対主義自体がカルトに見える。
そういうとき僕がふと思い出したのは、最初に出会った本物の科学者といえる吉松先生の穏やかな姿だったのである。
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