トロツキー「レーニンの思い出から」
レーニンを一人の人間として描いたものでは妻クループスカヤの「レーニンの思い出」が圧倒的に有名である。
実はその他の記録がたくさんあるのだろうが、僕はごく少ししか知らない。
カザケーヴィチという人の「青いノート」という中編もよいが、メンシェビキのマルトフとの複雑な友情を描いた「敵」も良かった。しみじみする短編である。
昨年、古本屋で買って長く放置していたソルジェニツインの長編「チューリヒのレーニン」を読んだ。パルヴスというもう一人の革命家との確執の中のレーニンを描いて興味深いものだった。パルヴスは1905年の革命まではトロツキーの師だった人である。「パルヴス――生ける友への弔文」というトロツキーの文章もある。
今日は「ゴーリキーとレーニン」を検索していたらトロツキーの「レーニンの思い出から」にヒットした。
おそらく森田成也さんが訳したものだろう。これが実に面白い。
https://www.marxists.org/nihon/trotsky/1920-2/lenin-memory.htm
○レーニンは、自分にとって疎遠な聴衆の中で演説するのが大嫌いだった。商業的で優雅な演説家ではなかったからだ。
○(ある)大会の10分の9はメンシェヴィキとエスエルで構成されていた。レーニンが演説すると、会場はただちに「ハハハ」というエスエルとメンシェヴィキの嘲笑で包まれた。
○彼は興奮すると、声が出にくく、早口になり、語尾がつまった。
というあたりは、人前でうまく話せない僕を安心させるものがある。
レーニンの伝記的文学が必要だとことも強調されている。
○(レーニンの死にあたって)今こそ、彼の著作を注意深く真剣に学ばなければならない。しかし、それとともにしなければならないのは、人々がじかに見たことや思い出せることを集めて、彼の個人生活、彼の生涯における個々のエピソードをしっかりと定着させることである。ささやかなエピソードも意味がある。
○レーニンと結びついたすべてを、われわれは、ただ集団的にのみ再現することができる。
○未来の世代にとってはレーニンの人となりを知る著作以上にわくわくさせるような本はないだろう。そのためにはみんながを思い出を書いて持ちよらなければならない。
とはいえレーニン自身は自分に関するそんなものを読むと直ちに「あまりにも無駄口が多すぎる」と言い捨てる人だったのだが。
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