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2022年6月 3日 (金)

大江健三郎「M/Tと森のフシギの物語」岩波文庫2014年

昨日の夕方は静かで大江健三郎「M/Tと森のフシギの物語」岩波文庫2014年を読み終えることができた。
この長編が岩波文庫に入ったときに買った記憶があるので8年くらいかかった。何度も途中で挫折し、一気に読み通せる機会がいまようやく来たということである。
一つの長編を読み終えるのにそれくらいかかることは僕にとっては稀なことでなく、フォークナー「八月の光」や同じく「アブサロム、アブサロム!」はどちらも購入して30-40年かかってしまった。
大江健三郎は自分が中学生の頃(1966年あたり)からずっと読んできた。「芽むしり仔撃ち」(1958年)から始まり「万延元年のフットボール」(1967年)でピークに達するのだが、「同時代ゲーム」(1979年)あたりで全くついていけなくなった。
10年くらい経って「人生の親戚」(1990年)でようやくまた読めるようになって、その後のものは出版されればすぐに買って苦もなく読んできた。
したがって今回「M/Tと森のフシギの物語」(1986年)に手こずったのは、やはりこれが「同時代ゲーム」の書き直しであり、解説を読むと、この頃大江自身が「小説とは何か」「書くとは何か」という疑問に長くぶつかっていたからなのだとわかった。
というわけで、この小説を読み終えたのは40年くらい前の宿題をやり遂げたという充実感がある。
 
じつに多彩な物語で、中国の文化大革命やアメリカにとってのベトナム戦争を想起させるところがあり、現在の「人新世」につながる問題も論じられている。
 
最後に現れる「森のフシギ」は「個を超えた、そして個を包みこむ」共有される魂のことだが、この主題は「僕が本当に若かった頃」(1991年)で伊東静雄の詩「鶯」の誤読から生まれたことが明かされている。
僕は大江の誤読を知って、むしろこの詩に惹かれた。ちょうど松山商科大学ー立命館大学の鈴木 茂が動物学者ローレンツ、言語学者チョムスキー、生態学者今西錦司らを引用しながら、マルクスが信じただろう人間の本質としての「生得的な社会的共同性」を主張するのに共感していた頃だからだったろう。
 
何のまとまりもない感想文になったが、「鶯」の冒頭を引用しておこう。誤読によればウグイスが共有される魂の象徴なのだが。
 
鶯(一老人の詩)
(私の魂)といふことは言へない
その証拠を私は君に語らう
――幼かつた遠い昔 私の友が
或る深い山の縁へりに住んでゐた
私は稀にその家を訪うた
すると 彼は山懐に向つて
奇妙に鋭い口笛を吹き鳴らし
きつと一羽の鶯を誘つた ・・・・

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