« 2022年5月 | トップページ | 2022年7月 »

2022年6月28日 (火)

無低診の起源は大逆事件

「無料低額診療」はあまり知られていない。生活保護基準は超えるがなお低収入で医療から遠ざけられている人を対象に自己負担分を免除・減額できる制度である。
患者さんの自己負担分を請求しないでおきたいと思うことは臨床の場では多々ある。患者さんがお金に困っているのが伝わる時や、張り切って高額の検査を実施したものの異常所見がなかった時などなど。
しかし保険診療では許されない。「過不足なく徴収」という規則がある。だが「無料低額診療」を県に届け出ればそれが可能になる。いや、後者の場合は単純に医師が自分のヤブぶりを反省しないといけないのだが。
社会福祉法人ではない一般の医療機関ができる福祉事業(第2種事業)で、山口県でも12の病院・診療所が実施している。うち6箇所が民医連である。
ただし、費用は医療機関の持ち出しとなるので、免除の基準も規模も積極性も医療機関によって違う。12ヶ所が実施と言っても全県医療機関の0.6%にすぎず、住民全体をカバーするにはまだまだ遠い。
もとをたどれば大逆事件1911年である。明治天皇の下賜金で翌年に済生会が設立され、この一民間団体が地方行政に無料医療券の配布を委嘱するという奇妙な制度が始まった。戦後に社会保障が次第に整備されるなかでも無料低額診療として残った。とはいえ、なんども「役割を終えた」と言われ、そのくせ制度の隙間となるホームレスや外国人の診療では体よく利用される忘れられた制度だった。
潮目が変わったのは2008年に全日本民医連が格差と貧困の凄まじい拡大に対峙する窮余の一策としてこの制度に注目した時である。こぞって無低診に取り組もう。この方針を提示された当初、僕は患者側が決定に不満を言う権利もないことを危惧したが、実はもっと深い二つのことの始まりだったと、昨年「地域福祉室」を作ってから初めて気づいた。一つは「ソーシャルワークを基礎にした医療」に医療が変身する入り口、もう一つは「医療生協が『新たな基礎自治体』になる」という未来である。難しい話になったので続きは次回に。

| | コメント (0)

2022年6月21日 (火)

法人総務部が「職員支援部」と名前を変えれば


医療生協加入は誰にも強制出来ないので、職員雇用に当たっても生協加入を条件とすることはできない。

したがって医療生協職員が医療生協組合員になるのは自覚に基づくし、活発に活動してもらうためには、生協側にいくつかの努力が必要である。

 

よく言われる班会などの組合員の活動への積極的参加はもちろんその一つだろう。医療生協の理念の基礎的な教育も必要だ。しかし、それらが業務上の命令として行われる場合の効果は経験から言って極めて低い。

 

これは不可欠と僕が考えているのは二つのことである。

一つは職員の生協組合員としての権利保障を一般組合員と完全に同等にすることである。

僕が実行して来たことは、総代に職員組合員枠を作り自由な立候補を保障したこと。そういう経過で選ばれた職員が総代会に参加し、発言できるようになった。

実際は定数通りの立候補で無投票だったが。

その先、職員組合員の支部や班形成を保障することは出来なかった。

さらに職員支部を選挙区として、実態は役職者の上位の者を任命するに等しい職員理事選出とは別に、いわゆるヒラの職員が理事に立候補し選ばれる権利の保障については、まだまだ空想的と斥けられて来たのは残念だった。しかし、これは必要なことである。

 

もう一つは、医療生協が職員の抱える困難を積極的に支援することである。法人総務部はそもそも職員の労働と生活の支援を第一の任務と覚悟しなければならないし、できれば名称も「職員支援部」と変えたらいい。

法人のソーシャルワーク機能、組合員間の互助活動は職員のためにも惜しみなく動員される。

 

おそらくはこの二つを通じて、職員は自らが医療生協組合員であることの意義と必要性を認識するのである。

| | コメント (0)

2022年6月18日 (土)

医療生協総代会2022.6.19 挨拶

  今総代会の開会に当たり一言ごあいさつ申し上げます。
2月24日に始まったロシアによるウクライナ侵略は、ロシアの残虐行為が日々明らかになり、かつプーチン大統領による核使用の脅迫が繰り返される状況で継続しています。同時に日本国内では惨事便乗型の憲法9条改悪策動、実際の軍備増強が、「改憲翼賛議会」とも呼ばれる状況の中で強まり、すでに沖縄・奄美の南西諸島には対中国戦争を想定したミサイル配備が進んでいます。(具体的には陸上自衛隊がすでに奄美大島(鹿児島)、宮古島にミサイル部隊を配備済みで、2022年度末に石垣島、23年度に沖縄本島(うるま市)へ新設して沖縄本島の南北の海峡をカバーするミサイル網が完成する予定です。)
また2年来の新型コロナ・パンデミックは第6波がなかなか終息せず、経済的な被害も拡大の一途をたどり、コロナと戦争の影響による物価上昇が激しく国民生活の破壊が止まりません。
もちろん年々激しくなる自然災害がありながら、気候危機対策が一向に進まず、国連の政府間パネルIPCCが唱える「2025年をCO2排出のピークにし、2030年には50%に、 2050年には実質ゼロに」目標の達成にほど遠い状況で、21世紀末の気温上昇3度が確実とさえ言われています。
そしてジェンダー被害の根絶も掛け声ばかりで、女性の人権侵害が、(離党したとはいえ)まさに自民党議員などを先頭にして止むことがありません。

こういうとき私達としては、「ロシアは国連憲章を守れ」という世論を強めるとともに、ウクライナが不正・急迫の侵略に対し必死に抵抗しているいまこそ、国連の圧倒的多数を占める旧植民地諸国を中心に真の安全保障である「人間の安全保障」を打ち立てることが求められています。日本が核兵器禁止条約を批准することはその中でもきわめて大切なことです。
コロナと物価上昇、格差拡大のなかで国民のいのちと生活を守る上では直ちに消費税を減税し、同時に大企業の莫大な内部留保に課税することが喫緊の課題になっています。
 気候危機は、山口県を筆頭にして東京一極集中によって疲弊した地方を地域循環経済の確立によって生まれ変わらせることが、そのまま災害甚大化にも備えることとなり、回り道のようでも真の解決策に見えます。
 こうした中、6月22日告示、7月10日投開票の日程で参議院選挙が予定されています。
自民、公明、維新、国民が巨大与党を形成して悪政の限りを尽くしているなか、医療生協の要求を意気高く掲げて臨みたいと思います。皆様のご活躍を心からお願いするものです。

以上、ごく簡単に総代会のご挨拶を申し上げましたが、残りの時間を頂いて、すこし私自身のことを話すことをお許し頂きたいと思います。
医師である職員は70歳になると役員に選任されないという規定があり、私も今年70歳になりましたので、今期をもって退任致します。
今後は一医師として勤務を続ける予定ですが、このような場で皆様にご挨拶するのはこれが最後で、今後あまりお目にかかることもなくなりますので、ほんの短い時間ですが、いま私が発見しているものについてお話します。
振り返りますと、人格なき社団だった山口健康文化会の時代から、あいだに1990年の医療生協健文会の発足を挟んで合計44年間くらいは役員を務め、とくに2006年から16年間は理事長の職にありました。
そのなかで、おおよそ医療とはこういう構造で出来上がっているのだなあと思っているのがこの図です。基本は「患者中心の医療」ですが、それを形成する要素は中心に3つあります。
一つは患者さんの全体像を知るということです。正確に疾患の診断をするということ自体一生かかっても極められないことですが、それだけではなく患者さんがいま体験している主観的な「病(やま)い」の像を探ることが大切です。これがないと患者さんの全体像を把握することになりません。
そして次には病気や健康について患者さんとよく話し合って同じ目標を共有することです。それができれば、実際に利用できる最新の治療法や生活支援資源をリアルに探さなくてはなりません。科学的で安全な治療を実施できることも一生ものの課題ですが、ともかくこの3つの繰り返しが医療の日常なのです。
さらにその過程を通じて大事な視点が2つあります。一つは「健康の社会的決定要因」、つまり病気になったり病気が悪くなったりする最大の要因は患者さんの貧困と孤立にあるという視点です。
もう一つは病気の経過がどうであれ医師・医療機関と患者の関係をよくするということの常に努めるということです。
この合計5つの要因はいずれも重要ですが、最近私は最後の医師・医療機関との関係については、「関係が良い」という曖昧な表現でなくもっと踏み込んで表現するべきだと思うようになりました。つまりソーシャルワークと医療生協組合員間の互助(助け合い)を組織として「実装する」ことだと考えるようになりました。これはすなわち「伴走型の支援」というものであります。これこそが患者中心の医療の土台なのだと今は思っています。この間地域福祉室の創設を重視したのもそういう意味があります。

次に、視点をぐっと広げて医療生協の社会の中での位置づけに移ります。おそらく皆さん耳慣れないかと思いますが、私が考えているのは、医療生協は「基礎自治体」の一つにならないといけないということです。
これは私達が活動する舞台として地方自治体をもっと重視する発想でもあります。その地方自治体に意味のある影響を及ぼす有力な住民の組織を基礎自治体と呼べば、いくつか重要なものが浮かび上がります。
中でも重要なのは中小企業を結ぶ組織です。すでに中小企業振興基本条例というものが制定されており、中小企業の活躍を地方自治体の目標とすることは地方自治体の基本方針となっています。
同様に、今後「生活保障基本条例」の制定を私達が地方自治体に迫り、住民の生活保障を地方自治体の目標にするということをはっきりさせれば、それを担う組織として医療生協は地方自治体のなかの重要な要素、つまり基礎自治体になっていくだろう、そしてそういう道を目指すことで、地方自治体を変えていくことができ、地方自治体の新しいあり方も創造できるだろうと考えています。
話が長くなりましたので、地方自治体の新しいあり方についてのこのスライドの説明は省略します。
最後に医療生協を「基礎自治体」にしていくとき、やはり2つの大事なことがあります。一つは団体自治、つまり地方自治体の応援団ではなく、毅然として言いたいことは言う組織であること、もう一つ、住民自治 つまり内部の構成員の主権と民主主義が貫かれているということです。特に職員組織は企業特有のピラミッド型の権威勾配をどうしても伴う組織ですので、その中で構成員の主権と民主主義をどう貫くか、つまり自主管理という話になるのですが、相当に難しい難しい重要な課題になると思います。それでもそれを作り上げないと生きた組織にはなりません。
以上、私見を混じえたものですが、私の30年間の役員生活の振り返りを述べさせていただきました。
最後に長期にわたってご指導ご協力いただいたことを組合員の皆様、職員の皆様に心からお礼申し上げます。真にありがとうございました。

| | コメント (0)

2022年6月16日 (木)

重田園江さんとシン・アナキズム

シン・アナキズム について

なんでも「シン」とつけると映えるらしいので、これからは僕の立場も「シン・ミンイレン」と自称してみよう。

6月18日13時30分から非営利・協同総研「いのちと暮らし」の年次総会があるが、その記念講演が明治大学教授で、再読すればとんでもなく面白かった「社会契約論」(ちくま新書)の著者 重田園江さんである。

彼女がその講演の事前資料として示したのが「シン・アナキズム」という連載の「ポランニーとグレーバー」の連載の一部なのである。https://nhkbook-hiraku.com/n/n786bf6de0712?magazine_key=ma38c879b5d14

そのなかに
「ポランニーは六十歳を過ぎて新たな環境に身を置いたが、驚くべきはコロンビア大学での精力的な活動である。たしかに『大転換』には人類学、とくにトゥルンヴァルトとマリノフスキーというオーストリア=ハンガリー帝国出身の二人の人類学者の業績が十分に生かされている。だが、多様な時代や場所の非市場社会についての経済人類学研究と、古代以来のさまざまな社会についての考察から市場社会を相対化する試みは、やはりコロンビア大学での共同研究によって開花したものだ。ポランニーが経済人類学の創始者となり、いままさに必要とされ注目される新たな学問領域をひらいたのは、六十歳を過ぎて大西洋を渡り、妻はアメリカに移住できず、国境をまたいで大学と家とを往復する生活からだったのだ」とある。
70歳でも遅くない。オラ、日本のポランニーになる!

| | コメント (0)

2022年6月13日 (月)

レーニンよ、生き返らないと

唯物論者レーニンは今こそ生き返らないといけない。


消費税による貧困者の重い負担を「負担感」と感じの問題にして消費税引き下げを拒否し、

医師の誤診を「アンカーバイアス」、行政の決断遅れを「正常化バイアス」となんでも心理学用語で説明して医師不足や公務員不足に触れることを避け、

さらには生物学的性別を性自認で置き換えることで深刻な女性差別の解消を後回しにするような、

奇妙な観念論の時代がやって来ているのだから。

| | コメント (0)

2022年6月 8日 (水)

地方自治体と基礎自治体の関係

医療生協健文会は小さいとはいえ職員が400人、医療生協組合員は1万8千人、患者総数は絶えず変化しているから正確ではないが月平均の患者6000人、介護利用者1000人、合計7000人である。大半は人口25万人弱の宇部・山陽小野田圏域に限定されている。
これがもし意識的に一体となって地方自治体つまり宇部市・山陽小野田市のあり方に何らかの影響を与えているなら、健文会自体がこの地方自治体を構成する基礎自治体の一つだと言えるのだろう。
基礎自治体たりえていたら相当有力な自治体である。
基礎自治体と言うには、地方自治体との意識的で緊張感ある関係づくりと、その内部運営において画期的な民主主義の導入が必要である。
それとは別に、医師会や看護協会以外でも、中小企業団体、医療機関団体、介護法人団体、患者団体、利用者団体も地方自治体との関係が目的意識的なものであり、民主的な内部運営を徹底できるのであれば、それもまた別の階層における基礎自治体である。
*地方自治体の様々なステイクホルダーといったほうがわかりやすいかもしれないが、住民参加の内部の民主主義を考慮すると「基礎自治体」と言いたい。

| | コメント (0)

「病院で死ぬこと」に関する世間話

ほとんど世間話に類することだが、最近の医学書院「医学界新聞」によると、https://www.igaku-shoin.co.jp/paper/archive/y2022/3472_01
かって「病院で死ぬこと」で一斉を風靡し、その後ホスピス、さらに在宅緩和ケアに転じて「ケアタウン小平」構想を進めてきた元外科医山崎章郎(ふみお)さんは、
進行大腸癌罹患を契機に、首都圏と鹿児島・沖縄に在宅専門クリニックを手広く展開している佐々木 淳さんの「悠翔会」に事業継承を託したとのこと。
これは理念の共通性をもとに進められているから、営利的な巨大法人による中小病院買収とは違うようだ。

| | コメント (0)

僕も、君たちも殿将である

哲学者 真下信一が「戸坂 潤は立派な殿将だった」と書いていた。20歳の僕はさすがに戸坂は威風堂々たる人物だったのだなと思った。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E5%9D%82%E6%BD%A4
実は「殿将」を「しんがり」と読むのだということは少し経って知った。
殿様とも将軍とも違う意味だった。
敗走する軍の最後尾にいて、攻め来る敵と戦い続ける役だ。
つまり、戦前の軍国主義が強まって唯物論研究会が圧殺されるとき、最後まで旗を守ったのが戸坂だったのだ。

 

僕たち世代はもしかしたら民医連運動の殿将になるのかもしれない。
ただし、そうなったときは、いまの人類全体が何百万年という人類史の殿将になるのである。

| | コメント (0)

2022年6月 7日 (火)

地域福祉戦略部宣言


昨日発見された事態のために地域福祉室のソーシャルワーカーは朝一番に学校と児童相談所に向かった。

本格的なアウトリーチのできる部署として地域福祉室を作ったことは、地底にボーリングを始めたというか、地獄の釜の蓋を取り去ったというか、パンドラの箱を開いたというか、ともかく異次元の世界に僕らを連れて行った気がする。しかしその世界は僕らが気づく前にずっとそこにあったのである。

それは医療が社会福祉をマウントしたというより、医療がいよいよ社会福祉とケアに包含される時代の始まりという気がする。

 

医療生協総代会が終わると地域福祉室が所属する部として「地域福祉戦略部」が新設される。これも病院が「医療介護ケア門前町」を形成して地域経済の再生を主導しようなどというものでなく、まさにその逆で、気候危機のさなか変わらざるをえない地域に病院が巻き込まれて行く姿を象徴するものである。

| | コメント (0)

2022年6月 3日 (金)

大江健三郎「M/Tと森のフシギの物語」岩波文庫2014年

昨日の夕方は静かで大江健三郎「M/Tと森のフシギの物語」岩波文庫2014年を読み終えることができた。
この長編が岩波文庫に入ったときに買った記憶があるので8年くらいかかった。何度も途中で挫折し、一気に読み通せる機会がいまようやく来たということである。
一つの長編を読み終えるのにそれくらいかかることは僕にとっては稀なことでなく、フォークナー「八月の光」や同じく「アブサロム、アブサロム!」はどちらも購入して30-40年かかってしまった。
大江健三郎は自分が中学生の頃(1966年あたり)からずっと読んできた。「芽むしり仔撃ち」(1958年)から始まり「万延元年のフットボール」(1967年)でピークに達するのだが、「同時代ゲーム」(1979年)あたりで全くついていけなくなった。
10年くらい経って「人生の親戚」(1990年)でようやくまた読めるようになって、その後のものは出版されればすぐに買って苦もなく読んできた。
したがって今回「M/Tと森のフシギの物語」(1986年)に手こずったのは、やはりこれが「同時代ゲーム」の書き直しであり、解説を読むと、この頃大江自身が「小説とは何か」「書くとは何か」という疑問に長くぶつかっていたからなのだとわかった。
というわけで、この小説を読み終えたのは40年くらい前の宿題をやり遂げたという充実感がある。
 
じつに多彩な物語で、中国の文化大革命やアメリカにとってのベトナム戦争を想起させるところがあり、現在の「人新世」につながる問題も論じられている。
 
最後に現れる「森のフシギ」は「個を超えた、そして個を包みこむ」共有される魂のことだが、この主題は「僕が本当に若かった頃」(1991年)で伊東静雄の詩「鶯」の誤読から生まれたことが明かされている。
僕は大江の誤読を知って、むしろこの詩に惹かれた。ちょうど松山商科大学ー立命館大学の鈴木 茂が動物学者ローレンツ、言語学者チョムスキー、生態学者今西錦司らを引用しながら、マルクスが信じただろう人間の本質としての「生得的な社会的共同性」を主張するのに共感していた頃だからだったろう。
 
何のまとまりもない感想文になったが、「鶯」の冒頭を引用しておこう。誤読によればウグイスが共有される魂の象徴なのだが。
 
鶯(一老人の詩)
(私の魂)といふことは言へない
その証拠を私は君に語らう
――幼かつた遠い昔 私の友が
或る深い山の縁へりに住んでゐた
私は稀にその家を訪うた
すると 彼は山懐に向つて
奇妙に鋭い口笛を吹き鳴らし
きつと一羽の鶯を誘つた ・・・・

| | コメント (0)

5月までのまとめ 850字

285138646_5085151604900886_2804293055612
昨年11月に医療生協健文会に設置された「地域福祉室」の名称は「メロス」という。今のところ社会福祉士資格を取得した看護師1名、事務職1名、合計2名の小世帯であるが、開設以来舞い込む生活相談は深刻さも件数も驚くべきもので「大車輪」の状態となっている。まもなく労災と総合診療を専門とした医師1名も配置し、将来は社会福祉士を増員して2020年代の遅くない時期に山口県有数の医療・介護・生活相談所に育て上げていきたいと考えている。

さて、その名称だがご想像どおり太宰治の「走れメロス」にちなみ、被支援者のために走り続けるという「利他性」を象徴している。この小説は時期は違ってもすべての中学校の国語教科書に採用されてきたので国民の認知度は高い。しかし作家太宰治への好悪は別れやすく、本作にも「国語で道徳を押しつける」という批判があり、直ちに万人の賛意を得る名称ではなかっただろうと思う。私自身もその点が心配だったのだが、ロシアのウクライナ侵略が始まったあとの新聞記事の中に心励まされるものを見つけた。4月1日の朝日新聞に掲載された高橋源一郎『加害の国に生き、「敵」を読む意味』である。現在のロシアの文学者の反戦運動に触れながら、日本でも太宰治がまさに戦争のさなかの1945年に、「惜別」という中編において「敵国」中国の文学者魯迅が仙台の医学生だった頃に日本の解剖学者藤野厳九郎と結んだ交流を描いたと指摘している。未読だったのだが、これを機会に改めて青空文庫で「惜別」を読んでみると心温まる佳作であり、太宰治に持っていたネガティブな気持ちが消えるほどだった。それで「メロス」という名称へのためらいもなくなったのである。

ところで気づけば魯迅の「故郷」もすべての日本の国語教科書に採用されており、大半の日本人が読んでいる。近代中国文学が隣国の国民の知的共有遺産になり「もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」という結びの言葉を知らない日本人がいないことは今後の東アジアの平和の基礎に確実になるものだろう。

| | コメント (1)

« 2022年5月 | トップページ | 2022年7月 »