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2022年5月24日 (火)

『思想の言葉(『思想』2022年3月号)ロールズ・ヒロシマ・キルケゴール――偏愛的一読者の覚え書き川本隆史』

誰もロールズ「正義論」発刊50年について書いていないなどと言ってしまったが、実はそんなことはありえなくて、「正義論」の研究者で訳者川本隆史さんから、この文章が届けられた。
『思想の言葉(『思想』2022年3月号)
ロールズ・ヒロシマ・キルケゴール――偏愛的一読者の覚え書き
川本隆史』
https://www.iwanami.co.jp/news/n45945.html

 

僕の関心領域に合わせて少し書き換えると

 

「過ぐる2021年は倫理学者ジョン・ロールズの生誕100年、主著『正義論』刊行50年という節目にあたっており、本年11月24日には彼の逝去から丸20年を閲することになる。」

 

「1943年にアメリカ陸軍へ入隊したロールズは、ニューギニア、フィリピンと転戦したのち、占領軍の一員として日本の土を踏んでいる。」

 

「彼の部隊は九州に上陸して山口県南部へ進駐していた、その後1945年11月、任務を終えて日本を離れる途上軍用列車の窓から広島の焦土を目撃した。」

 

当時山口県にどれくらい進駐軍の基地があったかはわからないが宇部市の海軍病院・結核用サナトリウム「山陽荘」も接収されていたので、ここである可能性もある。(1946年2月に米軍から英連邦占領軍BCOF ビーコフに交代)
ここでは大陸から引き上げてきた山田洋次が排泄物処理のバイトをしていたので、もしかしたらロールズと山田洋次のすれ違いもあったかもしれない。

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これからのまちづくりの二本柱は 中小企業振興基本条例と 仮称「生活保障基本条例」

金曜の午後5時30分は日勤外来担当医としては魔の時間で、それまでいくら暇でも突然に紹介状を携えて発熱入院希望患者が現れる。この時刻からの入院の段取りは心理的にも抵抗が大きい。それにここでほやほやの新入院患者さんの主治医になると土日の自由が事実上なくなる。
5月20日もそうだったので、6時からの非営利協同総合研究所「いのちと暮らし」の理事会出席が億劫になった。
しかし、億劫な時ほど参加すると収穫があるというのは大事な経験則である。
恒例の理事の近況報告では、地域からの生活相談に応じひたすら支援することに特化した地域福祉室を創設し、医療生協組合員の互助活動と一体になって地域に切り込んだら信じられないほどの量と質の困窮事例を発見した、僕自身は理事長の任を降りたら新設の「地域福祉戦略部長」としてそれら事例の教訓を政策化して主として自治体と交渉する予定だという話をした。
すると後藤道夫先生が僕の発言を受けて
「前から言っていることだが、民医連は生活相談窓口を全ての病院で常設すべきだ。労働組合にしてもどんな組織にしても、これまでは別に相談活動をしなくても他に運動課題があって活動が回ったものだが、今は相談活動に熱心に取り組まないと運動体として成り立たなくなっている。
その先のことだが、これまで『新福祉国家構想』とか言っていたのだが、その前に地方自治体を動かすことの重要性を痛感している。つい先日、岡田知弘とも話しあったのだが、全自治体に『生活保障基本条例』を制定させて、たとえば生活支援の国の通知を市民に周知することなど義務づけることを運動にしたい」
と話された。
つまり、相談ー支援専従者と対自治体工作者の設置という僕の方針は後藤道夫先生の構想とほぼ軌を一にしているもので、僕の仕事も、地域循環経済の確立とぶっ飛ぶ前に、「生活保障基本条例」を提案して通すことだなと分かったのである。
やはり億劫な時ほど、外の人と話さなくてはならない。うちに縮こまるには口実には事欠かないのであるが。

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何が今の時代に公正であるかは、今の時代がどういう時代かによる

今朝、もう一回最近自分が考えたことをまとめてみた。

社会契約というのは、過去の歴史的事実ではなく、未来で成立することを期待され、今を生きる人の希望となる理念で、これが正義と呼ばれるものである。しかし、この理念が一旦発見されると、過去は解釈されなおし、歴史はこの理念の絶えることのない発展そのものと見えてくる。
これは正義は私達の外で神か何かが与えてくれるものでもなく、またそもそも正義なんかはないと言えるものでもなく、正義は私達が作り出すものだということでもある。
私たちが作り出すというところに注目すれば正義の「構成主義」だということになる。
つまり正義は社会を作って理性的に生きようと決意した人たちが、自らの考えで作り出すものである。
ごく平均的な人が理性的であることを保障するロールズの思考実験において、正義は「公正」(誰の不利にもならないこと)でしかありえないと証明される。
この「正義=公正」が、私達がよく遭遇する「公正としての正義」 rightness as fairness という表現になる。
何が今の時代に公正であるかは、今の時代がどういう時代かによる。
気候危機の時代には気候危機の時代の公正がある。気候危機に向かい合って誰にも不利でない状態が何かはそこで考えるしかない。つまり熟議してdeliberate 決めるのである。
私達が公正であることを目指して熟議し決めたことが、ルソーの言う「一般意志」というものである。

 

 

 

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2021年はロールズ「正義論」が出版されて記念すべき50周年

気づけば、昨年2021年はロールズ「正義論」が出版されて記念すべき50周年

4314010746 だった。
「正義論」出版後の半世紀の政治哲学はこの本を中心に回った感じなのだが、日本の雑誌も特集を組んだところはなかったように思う。
しかし、格差の増大や気候危機のみならず核兵器使用の危険性の高まりに直面して、新事態での正義の探求が切実になっている今、ロールズは僕たちの拠って立つところとして重要性が日に日に増している。それはホッブズ、ルソー以来の社会契約説の現代的復活でもある。
「正義論」を読むのは大変だが、全体のエッセンスとも言える「はじめに」だけでもコピーして読むことをおすすめする。

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2022年5月23日 (月)

島田雅彦「パンとサーカス」講談社

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9784065268742_w 島田雅彦「パンとサーカス」講談社を読み終えた。
憲法9条を掲げて米中の覇権から自由になる中立・日本への熱望が伝わってくる冒険小説としてどなたにもお勧めである。
僕の中では池澤夏樹「マシアス・ギリの失脚」、井上ひさし「吉里吉里人」と同じくらいの作品だろうか。
いや、本の厚さが。及び作品の質が。

ともかく細々と感想を述べたくなる本だった。支配のない政体「イソノミア」を取り上げたことと柄谷行人の本との関係とか。登場人物の名前の由来とか。

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2022年5月21日 (土)

帽子

今朝は日差しが強かったので親父の遺品の中から夏用の帽子を探し出して自転車に乗った。
 
そこでふと思いついた架空の映画。
 
死んだ父親がある日、息子に乗り移って、父親の目から息子の日常を眺める。
知らなかった生活を発見するのは新鮮だ。こんなふうに生きているのかと思ううちに俺の影響が随所に残っているのに気づく。
少年兵として原爆に遭遇した父親から戦後の少年だった息子に伝わったメッセージがそこでは浮かび上がってくる。
これが何かが一番重要だ。
さて、話が進むうちに、最後は実は息子も死んでいることがわかる。なぜ死んだのだろう?
 
主を失った診察机の上の帽子が映って終わる。
帽子が思い出していた話なのだ。282379721_5047069062042474_6104749449537

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ホッブズ、ルソー、ロールズ


ホッブズのいう人間は実存的な賭けに出る人間である。

 

お互い武器を持ち殺しあえるのに、自分が武器を捨てれば相手も捨てるだろうと武器を捨てるような、思い切った決断に飛び込んでいく人間。

 

投企 projetとかアンガージュマン engagement、コミットメントという言葉が自然に思い出されるし、日本国憲法9条にも似ている。

 

そこから社会契約が始まる。ホッブズほど人間を無条件に信じたものはいないというのはそのことである。

 

これに対し、ルソーやロールズのいう人間は、利己的な凡人である。

利己的な人間がどうして、社会の原理である正義に辿り着き、そこから社会を作っていくかを彼らは考えた。
発見してみれば「公正としての正義」という実に簡単なことだった。
 
しかし、それは近代社会という狭い範囲の中の正義であり、社会契約でしかない。
 
自然と人間の物質代謝の中での社会契約や正義は、また次元の違うものとして存在する。
 
ただ、それもまたロールズの考えた「ヴェールを被せられた状態」=原初状態という仕掛けで考える事ができるはずだ。

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長い間わからなかったこと(重田園江「社会契約論」ちくま新書を読みながら)


「公正としての正義」という言葉をこれまでごく曖昧に考えていた。

人間や社会にいろいろ大事なことがある中で「公正」を最も大事なこととして正義の代表とする、というような感じかな。

実はそうではなかった。種明かしをすれば本当に簡単なこと。

だが、ことは人間と正義のあいだの本質的関係である。

ルソーが人間が社会を作るときの原則にする「一般意志」を「正義」に置き換えて、正義をどう説明するかという問題である。

そのロールズによる解釈こそが「公正としての正義」だった。

自分の現状にヴェールを被せられた状態では、人は必ず最悪の不利を自分に押し付けられないために貧者にも富者にも公正なルールを選ぶ。自分が大金持ちだと考えるのはヴェールを取り去ったときのリスクが高いからである。その時の人間は別に道徳性に優れているわけでも賢いわけでもない、平凡な人である。

つまり一般的な人間は「誰もが不利にならない公正な状態」を正義として選択するようにできている。

だから正義は公正であることであり、そのような正義を「公正としての正義」と呼ぶのである。

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もう一つの正義の2原理


ロールズは社会生活に「無知のヴェール」をかけて有名な「正義の2(あるいは3)原理」を抽出したのだが、

同じように、地球上での人間生存に無知のヴェールをかけると、核兵器禁止と脱成長による脱気候危機の正義という、別の2原理が抽出されるはずだ。

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ヘイ・ジュード

https://lyriclist.mrshll129.com/beatles-hey-jude/

it’s a fool who plays it cool
By making his world a little colder
これは『「斜に構えていると世界はもっと冷淡になる」(島田雅彦)からつまらない』と訳すのだな。
山奥から広島市にようやく出て来たばかりのダサい中学生だった僕はビートルズにも夢中にならず、Hey Judeも最近までHey dude (おいお前)かと思っていた始末で、歌詞だって、「世界を背負い込むな」の部分を知っていただけだった。
検索すると、この歌はポールがレノンの第一子が両親の離婚や再婚で落ち込んでいるのを励ましたものだったのだ。早く知っていたら僕の少年時代も少しは慰めのあるものになっただろう。

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僕の功績を控えめに言うと

自分で言うのも変だが、僕の功績は(医療生協)法人理事会を実質的議論、時に緊張感のある論争の場にしていくことで、結果として権威を高めたことだと思う。もちろん自分の権威などでなく。
・・・このところ、事務幹部がやたら医師を職名で呼ぶのが耳につく。「院長」だとか「副院長」だとか。そのうち「理事長」も跋扈するだろう。
その点、僕は常に「野田先生」だった。実は「先生」も余計であるが。
今度は県連理事会の権威をそのような意味合いで高めるよう頑張るかな。

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医療生協理事長16年のかんたんな振り返り

5月18日夜は医療生協常務理事会だった。2006年から理事長を16年間務めたが、事実上最後の会議となった。
振り返ると、この16年間はいくつかの診療所リニューアルやグループホームの建設があったが、基本的には緩やかな縮小の時代だった。
経営的にはずっと好調で黒字が積み上がったが、それも少ない医師数で医師それぞれがベテランとしてよく働き経営効率が良かったということに尽きる。構造的に黒字を生むようにはなっていない。
今後は相当に困難な状況が待ち受けているが、しかし希望がないわけではない。
1970年台は公害反対闘争とベトナム反戦運動が民医連に参加する青年医師を飛躍的に増やした。
その原動力は次第に失われたように見えて、実はいま気候危機と核戦争の危機が1970年台に似たような作用を青年に及ぼす可能性も生まれている。
そういう意味では、希望は人類の滅亡と裏表になっているのである。
ただ二つの時代が大きく違うのは、1970年台は経済成長と人口増加が著しく経済格差も縮小していたことである。今は経済は停滞し人口減は目を覆うばかり、経済格差は信じられない規模になっている。
しかし、それも支え合いと平等への熱い気持ちを掻き立てる根拠になりうる。
それは運動にとって好機になりうることである。
ここでも希望と社会の崩壊が裏表になっているのである。

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社会契約論のお勉強(重田園江さんのちくま新書から)


社会統治について、社会契約論の始祖であるホッブズがいう「始まりの約束」など実はなかった。あたりまえのことで、奈良時代に日本を作るための集会が開かれてどこかの家系を天皇家に指名して従うことに決めたなど想像もできない。

反社会契約主義者ヒュームが言うように、強いものに従った方が自己の利益になると気付いて自発的に服従する人が増えて権力が成立したと考えるほうが妥当だ。

しかし、「始まりの約束」をあったことにして、その連続の上に築く新しい社会統治像があるのではないか。そう考えたのがルソーで、社会統治像の名は「人民主権」。その約束の名は「一般意志の成立」である。(ルソーを現代に生き返らせたのがロールズである。)

言い換えれば、過去を物語として創造しなければ築けない未来があるのではないか。

理念としての過去、理念としての「原点」とも呼べるだろう。

 

考えてみれば、古事記や日本書紀もそうやって「創造された過去」だったが、もっと真剣に「平和のために武器を捨てる」という約束をどこかでみんなが平等の立場で交わしたという虚構を自分たちの原点とすれば、その結果として、誰一人核兵器に脅かされない未来を持つ権利があり、核兵器禁止条約があるということになる。

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今日の生活相談の位置づけ

金曜の午後5時30分は日勤外来担当医としては魔の時間で、それまでいくら暇でも突然に紹介状を携えて発熱入院希望患者が現れる。この時刻からの入院の段取りは心理的にも抵抗が大きい。それにここでほやほやの新入院患者さんの主治医になると土日の自由が事実上なくなる。
今日もそうだったので、6時からの非営利協同総合研究所「いのちと暮らし」の理事会出席が億劫になった。
https://www.inhcc.org
しかし、億劫な時ほど参加すると収穫があるというのは大事な経験則である。

 

恒例の理事の近況報告では、地域からの生活相談に応じひたすら支援することに特化した地域福祉室を創設し、医療生協組合員の互助活動と一体になって地域に切り込んだら信じられないほどの量と質の困窮事例を発見した、僕自身は理事長の任を降りたら新設の「地域福祉戦略部長」としてそれら事例の教訓を政策化して主として自治体と交渉する予定だという話をした。

 

すると後藤道夫先生が僕の発言を受けて
「前から言っていることだが、民医連は生活相談窓口を全ての病院で常設すべきだ。労働組合にしてもどんな組織にしても、これまでは別に相談活動をしなくても他に運動課題があって活動が回ったものだが、今は相談活動に熱心に取り組まないと運動体として成り立たなくなっている。
その先のことだが、これまで『新福祉国家構想』とか言っていたのだが、その前に地方自治体を動かすことの重要性を痛感している。つい先日、岡田知弘とも話しあったのだが、全自治体に『生活保障基本条例』を制定させて、たとえば生活支援の国の通知を市民に周知することなど義務づけることを運動にしたい」
と話された。

 

つまり、相談ー支援専従者と対自治体工作者の設置という僕の方針は後藤道夫先生の構想とほぼ軌を一にしているもので、僕の仕事も、地域循環経済の確立とぶっ飛ぶ前に、「生活保障基本条例」を提案して通すことだなと分かったのである。

 

やはり億劫な時ほど、外の人と話さなくてはならない。うちに縮こまるには口実には事欠かないのであるが。

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2022年5月 9日 (月)

重田(おもだ)園江「社会契約論 ホッブズ、ヒューム、ルソー、ロールズ」ちくま新書2013年と國分功一郎「暇と退屈の倫理学」2022年新潮文庫


実を言うと重田(おもだ)園江「社会契約論 ホッブズ、ヒューム、ルソー、ロールズ」ちくま新書2013年はさっぱり分からないで本棚の奥に投げていた本だった。彼女が雑誌「民医連医療」に登場したとき一度探してみたがやはり理解できなかったのでもとに戻した。

それが103541_l_20220509202301 Bm2j7k0aikyzud2kfkni6g___20220509202301 國分功一郎「暇と退屈の倫理学」が2022年に新たに新潮文庫

に入って、ごく最近著者の期待通りに一気読みした後で、急に前者が面白くなった。

ただ後者にホッブズとルソーの比較がすごく分かりやすくなされていたというだけなのであるが。

社会契約論がいま大事だと思ったのは、もちろんウクライナ問題による。憲法学者の長谷川恭男さんが朝日新聞にルソーを引いて、戦争とはある社会契約が別の社会契約を滅ぼそうとしているものだと書いていたからでもある。

ところで重田さんと國分さんの立ち位置はどの程度に違うものなのだろう。

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若井晋先生のこと

5月8日日曜の9784065266687_w 夕方はこれを読んだ。
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000361046
東大医学部の国際保健学教授だった若井晋(わかいすすむ)先生の宇部市での講演会を僕が企画したのは、いまは県立病院こころの医療センターにいる角田(すみだ)医師2004年卒が僕のいる病院で僕と喧嘩しながら初期研修していた頃なので2005年だったはずだ。

 

講演前夜の打合を兼ねた夕食は宇部国際ホテルの和食屋、翌日の講演会後の学生との懇談は大島コーヒー店の奥の会議室を使った。研修医の角田君も熱心に若井先生と話し込んでいた。彼が若井先生に負けず、英単語の発音がいいことにちょっと驚いたが。

 

そんなことを全部覚えているが、この本によると若井先生の若年性アルツハイマーはその4年前に発病し、翌2006年には大学を退官している。

 

思い返すと、僕とのちょっとした会話の記憶のなかに「あぁそうだったのか」と納得することが多い。

 

昨年76歳で亡くなられたことは知っていたが、講演後の長い16年間がどういうものだったか、知ることができて良かった。

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社会契約論はいかにして成り立つか


社会契約論

そうすれば相手が武器を捨てるかどうかの確証のないときに、率先して武器を捨てるという人間の「決意」の中にしか、社会を作る駆動力はない。
つまり、解くことのできない不信のジレンマを超えて、もう帰ってくることはできないダイビングのように平和を選択するとき、社会は突然生まれてくる。宇宙が誕生するように。
あくまで社会が生まれるときを想像した思考実験のようなものだが。

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2022年5月 7日 (土)

伴走型支援と公正世界仮説

今日は短い文章を2つ書いた。

その中でも短い方。


健康のひろば 原稿  2021年5月


昨年11月に地域福祉室がスタートして早くも半年が経過した。日常診療のなかに「社会的処方」を差し挟むレベルを超えて、貧困と孤立に対する「伴走型支援」自体を業務とする部署を設置したことで私達が発見する法人周囲地域の印象はそれ以前とは全く異なる。

それまでは秋吉台のドリーネのように貧困が散在して口を開けているように思えていたが、今では貧困が空気のようにあらゆるところに存在することを肌で感じる。やはり、それなりの組織的な構えなしには目の前のことも脳の中に像を結ばないのだ。

しかし、その同じ脳のなかに別の厄介な仕組みがあることにも気付かされる。自己防衛的に被害者を攻撃する心理である。「自己責任論」とも名付けられるが、心理的に根深く、職員や組合員の伴走的支援の大きなブレーキになるものである。

別の勉強をしていて偶然知ったことだが、これは心理学では「公正世界仮説」と呼ばれる。貧窮に陥った人、暴力の被害者などに対して、自らの無力感や支援に必要な膨大なエネルギーの提供から逃げようとして「ひどい目に遭うのは遭う方も悪いのだ」と思い始めるメカニズムであり、善良な人がなぜ残酷になれるかを説明する有力な理論である。

公正世界仮説に通じるものとして「凡庸な悪」という言葉がある。600万人のユダヤ人虐殺の実行責任者アイヒマンを捕まえてみると、上司の命令に従順な平凡な小役人だったところからなづけられた。私達は決して「凡庸な悪」に陥ってはならない。つまり「伴走型支援」という私達の新たな試みは、この心理を克服する人類史的な挑戦でもある。

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2022年5月 6日 (金)

國分功一郎「暇と退屈の倫理学」

没落する日本で僕ら老人は退屈させられている。
高齢労働に頼らないと社会が回らないから働かされて暇ではない。
だが退屈だ。
忙しさの先に何も見えないからである。
そこで学会講演のアーカイブを見たり、医学雑誌を読んでノートを作ってみる。
だがそれも若い医師にとっては常識に属することである。膨大なノートを作ってみたところで常識程度のことを知っている老医師になれるだけでしかない。
出来ることはそういう存在である自分を外から眺めて面白がる事だけである。
それが僕らに許された唯一の気晴らし。
老人になって初めて得られる自由とは、結局自分に可笑しさを感じることだ。103541_l

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重田園江「社会契約論」「ホモ・エコノミクス」いずれもちくま新書


一国の憲法は社会契約の代表である。これによって国内の平和は約束される。

しかし国際的な平和つまり戦争防止には不足である。

戦争を防ぐには憲法を超えた社会契約が必要で、国連憲章がそれに当たる。ただし、その無力さが痛感されているのが現在である。

国連憲章に相当する最高の社会契約を結ぶにはどうしたらいいかが今問われているといえるだろう。

 

しかし、ここでは最初から難問があるのがわかっている。

「ホッブズ問題」と言われるものである。

平和を求めて武器を捨てるとき、誰が最初に捨てるか。

一方が武器を捨てれば他方も武器を捨てるだろうという予想は、一方と他方のどちらにも不確実性があるので実現され難い。

こういうのをダブル・コンティンジェンシーという。コンティンジェントは「状況依存性」と約されるが、つまりどちらに転ぶかが二重に不確実だということである。

16世紀の終わりに生まれ17世紀に活躍した社会契約論の創始者ホッブズという人の主張を20世紀の人パーソンズが吟味して名付けたのがこのホッブズ問題である。

それを実践的に解こうとしているのが、21世紀のウクライナ状況だということが言えるだろう。

少々回り道になるが、いま以下の2冊を読むことが必要な気がする。この難問をわかってもらおうと著者が必死の努力をしているのが伝わる本。
重田園江「社会契約論」 「ホモ・エコノミクス」 いずれもちくま新書。Bm2j7k0aikyzud2kfkni6g__ 41ftqpcsnll_sx304_bo1204203200_ 

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