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2022年4月21日 (木)

2022.4.23 医療生協健文会理事会 あいさつ

2022.4.23 医療生協健文会理事会 挨拶           

 

総代会が間近になり、新しい方針、新理事会選出や、さらにその後の役員体制についても考えなくてはならない気ぜわしい時期になりました。今日も熱心なご討議をお願いします。

 

2006年に理事長に就任して16年間毎月欠かさずこのような挨拶を続けてきましたが、今回で終わりにいたします。長い間、我慢して耳を傾けていただいたことにお礼を申し上げます。

 

2006年の最初の理事長挨拶では、レーニンを引用しました。ソ連は労働者と農民という相異なる二つの階級のごくごく脆い同盟の上に成り立っているものであり、その同盟が崩れるとソ連は簡単に崩壊するだろうというレーニンの予言でした。

医療生協は市民の一部である医療生協組合員と、医療の専門家である職員という立場の異なる二つの人々の相互のリスペクトの上に立つ「同盟」だという当時の私の認識の表現でしたが、その同盟関係が前進したかどうかいつか検証してみないといけないと思ってはいます。

 

ソ連について言えば、レーニン死後のスターリンによる労農同盟の破壊、農民からの過酷な略奪によって社会主義には無縁の強権的抑圧社会に変質していったのですが、1980年代ゴルバチョフの時代に社会主義に立ち戻る一瞬のチャンスがあったかに思います。もちろんそれは失敗して、現状維持どころかソ連まるごと消滅したのですが、もしもソ連が少しでも「人間の顔をした社会主義」の方向に再生できて、資本主義とは違う原理の労働者国家らしさを発揮していれば、その後の新自由主義の跋扈によるこれほど残酷な格差、さらに今回のウクライナ侵略もなかったかもしれないと思います。歴史のチャンスの窓は本当に狭い、それは気候危機にもよく当てはまると言うのが実感ですが、これについては、挨拶の最後にまた触れます。

 

ここで、ちょっとウクライナ問題から離れて、私が考えてきた医療観について、最後の機会ですから、ごく簡単にご紹介しておこうと思います。

来年度の方針にも幾分か関係して来るからです。

それが資料1です。模式的に言えば、マックウィニーさんという偉大な家庭医療の創始者がカナダで確立した「患者中心の医療」と、マーモットさんという世界医師会長も務めた偉大な疫学者の発見した「健康の社会的決定要因」SDHの組み合わせからそれは成り立っています。

自分たちの医療を「患者中心の医療」と言うには4つの要因を満たさないといけません。一方、SDHというのは、乱暴に言えば、健康や病気を決める原因の7割は貧困と孤独なのだという発見です。

ここで私が独自に加えたものは、「患者中心の医療」4要因のなかで、持続的に深めていくべきとされる「良好な医師―患者関係」をより深めて、「ソーシャルワークと医療生協組合員の互助の2つの要素からなる継続的な支援」つまり「伴走型の支援」として構想したということです。

つまり、すべての医療介護活動をこの「伴走型支援」の基礎の上に築くというのが、現在の私の医療観です。

 

それは「支援・相談活動」というものは、「地域福祉室」と「組合員活動委員会+支援部」の組み合わせで、一個の独立した事業に準じるものとして成立しうるという確信に繋がりました。

貧困や孤独に遭遇した人に、この組み合わせによって制度・制度外の境界を超えた支援をまんべんなく提供することで、山口県全域に医療生協活動を広げていけるのではないでしょうか。

その手始めに山口市事務所を作るという発想も「地域福祉室と組合員活動委員会+支援部の分室」がすなわち市事務所であるというものでした。

 

視点を変えると、この県内全域目指した展開は今どうしてもやらなければならないという別の側面があります。

ここで、資料2をご覧いただきたいと思います。4月20日の何ということはない朝日新聞の記事ですが、医師獲得がこの時代にいかに難しいかということが読み取れる記事になっています。

実は、私としては、このまま所属医師の高齢化だけが進行すれば、もはや医師や歯科医師がいない医療生協事業という「プランB」を準備しておかなければ行けないと真面目に思っています。しばらく前からそういう事態なのですが、そうだとしても「プランA」つまり若手医師を増やして県民に信頼される病院・診療所を広げていくは本当にできないのかということを力の限りやってみるのは当然のことです。

焦ることなく、患者中心の医療を地道に深めながら、土台になるソーシャルワークと住民間の互助を強化し、地域循環経済の一員としての自覚を深めていけば、私達の運動に加わる若手医師はたとえ遅々たる歩みに過ぎなくても必ず大きく育つと思います。

その働きかけは宇部だけに限っていては到底だめです。山口でも下関でも萩でも徳山でも岩国でもやっていかなければなりません。そのときまず拠点になるのが山口市事務所なのです。

 

最後にウクライナ問題に戻ります。

資料3にお示ししたのは今週の山口民報から連載してもらうことになった私のエッセイの第一回目です。

「健康のひろば」に書くことももう無くなるので山口民報さんにお願いしました。たった800字のものですから改めて解説はしませんが、じつはすでにひとつ間違いを犯したと思っています。

ロシアの侵略が始まったとき、1968年のソ連のチェコ侵略のさいに書かれた加藤周一さんの「言葉と戦車」という文章を思い出しながら、結局今回は役に立たなかったと書いてしまったことです。

しかし加藤さんはこう書いているのです。

「言葉は、どれほど鋭くても、またどれほど多くの人々の声となっても、一台の戦車さえ破壊することができない。戦車は、すべての声を沈黙させることができるし、プラハの全体を破壊することさえもできる。しかし、プラハ街頭における戦車の存在そのものをみずから正当化することだけはできないだろう。」

1968年の夏、小雨に濡れたプラハの街頭に相対していたのは、圧倒的で無力な戦車と、無力で圧倒的な言葉であった。」.

と加藤さんは書いています。まさに戦車と言葉が向き合って拮抗していた当時のチェコスラバキアの状態をよく表しているものと思えます。

しかし、いま、目をウクライナ一国内に留めず、世界的規模で考えれば、いまこそ、国連がロシアーウクライナ間の講和に向けて動かなければならない時ではないでしょうか。少なくともプーチンを失脚させろ、ウクライナ軍そこでミサイルを放て、と後ろから言っている場合でなく、ウクライナが不正急迫の侵略に対し勇敢に戦い善戦して凌いでいるいまこそ世界が講和に動く、その中心に国連の圧倒的多数を占める第三世界、旧植民地諸国が立つべきだと言うことができます。

その状況はやはり「言葉」と「戦車」が厳しく対峙しているしか言いようがない。50年以上前の加藤周一さんの言葉は今も輝いて生きているのだと改めて思います

同時に、旧植民地諸国が平和達成の中心的役割を果たすためには、日本を含む先進国からそれらの国への平和的支援を惜しまずやるべきだということにもなります。

そのようなウクライナ情勢の捉え方をご紹介して、私の最後の挨拶を終わります。重ねてお礼申し上げます。

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