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2022年2月 1日 (火)

ローカル政治新聞 山口民報に寄稿


🔷文学を学ばない効用は人生の責任から逃れられることである。1975年10月31日、記者会見で自己の戦争責任について尋ねられた昭和天皇は「戦争責任というような言葉のあやについては、私は文学方面についてはきちんと研究していないので、答えかねます」と言い逃れた。

このとき、自分の人生に責任を取ろうと思うなら文学を学ばなければならないと彼は全国民に向かって主張したのである。

 

🔷まさに同じことを加藤周一も言っている。「文学がなぜ必要かといえば、人生または社会の目的を定義するためです。文学は目的を決めるのに役立つというよりも、文学によって目的を決めるのです」と彼は語った。文学を読むことは人が自分の人生と格闘する場に立つことであり、実は文学がなければ人生の目的や意義を考えることはできないというのが20世紀を生きた彼の結論だった。

 

🔷ではどのように向かい合えば文学がそのようなものでありえるのか、という疑問は当然生じる。実際にはただ売れればいいというライト・ノヴェルズの氾濫するなかである。

夏目漱石は「文学書を読んで文学のいかなるものなるかを知らんとするは血をもって血を洗うがごとき」愚かなことだと言っている。少し難しいが、あるがままに読んで感じればいいというものでなく、いったん文学作品の外に出て文学に向かい合う技術や構えを身につける必要があるというのだろう。その手引きをする者が文学研究者のはずだ。

🔷実はこの役割を果たしつつあるのが、山口民報連載中の「じわじわ効いてくる近代文学」である。それを最初に気づいたのは連載第5回(2018.6.24)の矢本浩司さん執筆の『「高瀬舟」と権力批判』だった。「高瀬舟」は一般に安楽死を扱った先駆的作品のように言われ続け、今日でも安楽死を論じるとき引用されるが、本当の主題はそこにはなかった。安楽死は高級官僚だった鷗外が明治政府からの攻撃を避けるために意図的に装った「奴隷の言葉」としての額縁にすぎず、真意は、当時の大事件である幸徳秋水ら24人を無実の罪で死刑宣告した大逆事件への批判だったことが明快に論じられている。これは驚きだった。

◆その謎解きは二つある。一つは流罪を題材に選んだこと。当時トルストイ「復活」を原案とした芝居が「カチューシャ可愛や」の歌もあって大ヒットしていた。流罪になるヒロインの貧困と不幸、裁判の不当さが主題となった原作だったが、大逆事件に恐怖した脚本家の島村抱月は大幅に後退した。鴎外はそれをみながら流罪という同じ題材を選択し、人物配置も対照し合うものとして、抱月とは別の姿勢を示そうとした。もう一つは冒頭にわざわざ時代設定を書き込み、老中松平定信の執権時代と明示したこと。これは世の中のことはすべて権力の枠組みと対峙して存在すると言おうとしたのである。

 

🔷以来この連載はすべて私にとって精読すべきものとなった。連載を読んで「なぜこの小説のこの言葉がここでこのように使われているのか」をゆっくり考える姿勢になることは、「なぜこの患者はこの時、この訴えで、他ならぬ私の外来を受診したのか」を立ち止まって考える「患者中心の医療」と同じだということも最近気づかせられた。文学の読み方を教えられることは生き方を考えることに通じるのである。

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