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2022年2月26日 (土)

2022.2・26 医療生協健文会理事会あいさつ 

                                                                                今日は少し暖かいようですが、東日本に豪雪をもたらしている寒波が繰り返し到来している冬の日々のなか真にご苦労さまです。

ご存知のように、224日早朝に、ロシアはミサイル、爆撃機、地上軍を用いてウクライナに総攻撃を開始しました。ウクライナは面積では60万平方キロ、日本の約1.5倍、人口は日本の1/34400万の国ですが、首都キエフにすでにロシア軍が入っているという状況のようです。キエフというとムソルグスキー作曲の組曲「展覧会の絵」のなかで「キエフの大きな門」というパートを思い出しますが、そのキエフです。

 

1965年から75年までのベトナム戦争以降、私達はいくつかの戦争を目にしてきました。1978年のソ連のアフガン侵攻、1990年の湾岸戦争、2003年のイラク戦争などの記憶がすぐに蘇りますが、今回の戦争はそのどれに比べても異質の恐ろしさを感じます。2003年のイラク戦争では、日本では作家の池澤夏樹さんをはじめ多くの人が「人間の盾」として開戦を防ごうとし、それが成功しなかったことは大きな失望でしたが、考えてみると今回のウクライナ戦争開戦ほどの虚無感や恐怖感には直面しませんでした。

 

振り返れば1991年のソ連崩壊後、先行して資本主義化していた中国と合わせて20億人近い東側の国が市場として開放され、「メガ・コンペティション 大競争時代」が始まり、新自由主義のグローバル化がすごい勢いで進行し、貧富の差もかってない水準に達しました。

その行き着く果てに、中国とロシアという新興の資本主義帝国主義大国が出現し、核爆弾使用をちらつかせて世界を脅迫しながらの今回の侵略行為です。

昨日25日の国連安保理事会はロシア非難決議が提案されながら、常任理事国のロシアの拒否権発動で採択はなりませんでした。

 

この事態を見ていて思い出されるのは、ドイツと日本という遅れてきた2つの新興資本主義帝国主義国が存在した1930年代です。1931年の柳条湖事件で満州侵略を開始した日本は1932年「満州国」をでっちあげ、1933年には国際連盟を脱退します。

同じ頃ドイツではヒトラーがヴェルサイユ条約(1919)の軍事制限条項を破棄し、ドイツの再軍備を密かに進めていました。

それから90年を経て、 まさに資本主義帝国主義国同士がむき出しの暴力で勢力圏争いを再開したというのが今、このときだと思います。凶暴な帝国主義国もあれば穏健を装う帝国主義国もあるというのは1930年代も同じです。

違うのは、世界が染まっている思想は新自由主義、武力の中心には核兵器があるということです。

話が変わるようですが、私はこの間民医連・医療生協運動の高齢化による停滞を観察しながら1960-70年代に民医連・医療生協が、なにもないようなところから今の職員8万、9万というところまで大発展したのはなぜだろうと考えてきました。まず思いついたのは反公害運動ですが、いまはそれだけが発展の理由ではなかったと思います。ベトナム反戦運動の影響も大きく、僕自身も民医連に近づいたのはむしろその経路でした。

反公害、反ベトナム戦争の2つこそが民医連・医療生協運動を成長させた背景だったのです。それに倣って言えば新自由主義のグローバル化の果てに出現した気候危機と、今の資本主義帝国主義戦争状態こそ、これからの民医連の進む方向と存在意義を示すものではないだろうか、と思います

この時刻、ちょうど全日本民医連では今後2年間の方針を討議する45回総会が開かれています。私としては「職員によるソーシャル・ワークと、共同組織つまり医療生協組合員の互助活動が一体となった『住民生活の徹底的支援』を土台にして、私達の医療・介護活動を全面的に組み立て直す」という意見を上げています。どういう形で採用されるかどうかはわかりませんが、気候危機と帝国主義戦争の時代への私達の陣形として間違いないと改めて確信している次第です。

それを申し上げて私の今月の挨拶といたします。(議長指名)

 

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2022年2月24日 (木)

NHKクローズアップ現代:買春している成人男性こそ罰せられるべき

歌舞伎町を舞台にした女子中学生の売買春を扱ったNHKクローズアップ現代に、東大特任教授になった湯浅 誠氏が出演して、ハルクと名乗る青年のスパゲッティを配りながら話を聞く活動が対策の出発点だと言っていた。
話が浅くて、最近のNHKであればやらせの可能性もあると考えた。あまりにも彼の意見に沿うキャラクターだった。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211221/amp/k10013397591000.html

そもそも少女の居場所を奪っているのは親達の凄まじいい貧困である。そこには言及なし。
また、買春している成人男性こそ罰せられるべきだがその視点もなし。

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2022年2月22日 (火)

朝食が無料の社会

221 
贅沢品は別として、通常の食糧は商品でなく共通財であるべきだ。
例として適切でないのは承知で言うのだが、ハバナでは市民は街のあちこちにある配給所に毎朝パンを取りに来るというふうに説明された。実際にはそこにパンがないので問題となるのだが。
朝食くらいは無料でどこででも食べられるという社会くらい簡単に作れると思う。
非都市部は青森県浅虫温泉の「浅めし食堂」の発想で。
都市部は名古屋のモーニングをモデルにして。
他の人の朝食を作るため、他の人より早起きしなければならない人ができてしまうが、労働時間を短くして全国一斉の就業時刻としなければ解決可能。

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2022年2月16日 (水)

任期末の日々

末端から確実にトロイの木馬になろうとしているのを日々感じる任期末である。
長年にわたってクリシェィ clichéを繰り返し硬直化してきたことの報いでもあるだろう。
憲法と日米安保廃棄を鮮明に高く掲げつつ、全く新しい枠組みで地域の人々は自らを組織し直さなくてはいけない。

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アルトゥロ・マルケスは生きていた

この時刻になってようやく柔らかい正気が戻ってくる。夕方、専務理事からの報告を聞いたのが良くなかった。生涯、組織に関わらなかった加藤周一さんは正しかった気がする。人間の悪いところや敵意を増幅する組織というものが確かに存在する。母親が日本人であるアン・アキコ・マイヤーズでも聞いてから寝よう。いかん、気持ちがカーニヴァル的になってきた。最後のところで登場するが、「ダンソン#2」 が特に有名な作曲家アルトゥロ・マルケスはまだ生きているだけでなく、僕よりたった2歳年上だけなのだった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/アルトゥロ・マルケス

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2022年2月 7日 (月)

日本映画「空白」2021

古田新太、松坂桃李、寺島しのぶが出演する映画「空白」をNetflixで最近見た。https://kuhaku-movie.com/
ネタバレにならない程度に書くと(全ての人には「空白」があるというのは当たり前すぎるわけで)四つの空白がある。
父と娘の間の大きな空白、密室の短い時間の小さな空白、目的を失った未来の空白、死んでいったものの永遠に続く空白。
最初の空白は通俗的にすべて回収される。商業的にはこうしないといけないだろう。僕のような年寄りはこういうところでつい泣いてしまう。
二番目の空白は謎を残しながら半分ほど解決する。サスペンス風。
三番目は二人の中年女性。印象を残さないが実は多くの人にとって深刻。
四番目も二人が該当するが、考えるにはあまりに材料不足。続作があるなら、この解明かなという感じ。
これくらいの仕掛けを作らないと映画は作れないのだなぁと思う。いや、別にこれから映画を作る側になりたいと思うことはないのでどうでもいいのだが。

 

ただ英語での題名はintolerance 不寛容 で、これは芸がなさすぎる。

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2022年2月 1日 (火)

ローカル政治新聞 山口民報に寄稿


🔷文学を学ばない効用は人生の責任から逃れられることである。1975年10月31日、記者会見で自己の戦争責任について尋ねられた昭和天皇は「戦争責任というような言葉のあやについては、私は文学方面についてはきちんと研究していないので、答えかねます」と言い逃れた。

このとき、自分の人生に責任を取ろうと思うなら文学を学ばなければならないと彼は全国民に向かって主張したのである。

 

🔷まさに同じことを加藤周一も言っている。「文学がなぜ必要かといえば、人生または社会の目的を定義するためです。文学は目的を決めるのに役立つというよりも、文学によって目的を決めるのです」と彼は語った。文学を読むことは人が自分の人生と格闘する場に立つことであり、実は文学がなければ人生の目的や意義を考えることはできないというのが20世紀を生きた彼の結論だった。

 

🔷ではどのように向かい合えば文学がそのようなものでありえるのか、という疑問は当然生じる。実際にはただ売れればいいというライト・ノヴェルズの氾濫するなかである。

夏目漱石は「文学書を読んで文学のいかなるものなるかを知らんとするは血をもって血を洗うがごとき」愚かなことだと言っている。少し難しいが、あるがままに読んで感じればいいというものでなく、いったん文学作品の外に出て文学に向かい合う技術や構えを身につける必要があるというのだろう。その手引きをする者が文学研究者のはずだ。

🔷実はこの役割を果たしつつあるのが、山口民報連載中の「じわじわ効いてくる近代文学」である。それを最初に気づいたのは連載第5回(2018.6.24)の矢本浩司さん執筆の『「高瀬舟」と権力批判』だった。「高瀬舟」は一般に安楽死を扱った先駆的作品のように言われ続け、今日でも安楽死を論じるとき引用されるが、本当の主題はそこにはなかった。安楽死は高級官僚だった鷗外が明治政府からの攻撃を避けるために意図的に装った「奴隷の言葉」としての額縁にすぎず、真意は、当時の大事件である幸徳秋水ら24人を無実の罪で死刑宣告した大逆事件への批判だったことが明快に論じられている。これは驚きだった。

◆その謎解きは二つある。一つは流罪を題材に選んだこと。当時トルストイ「復活」を原案とした芝居が「カチューシャ可愛や」の歌もあって大ヒットしていた。流罪になるヒロインの貧困と不幸、裁判の不当さが主題となった原作だったが、大逆事件に恐怖した脚本家の島村抱月は大幅に後退した。鴎外はそれをみながら流罪という同じ題材を選択し、人物配置も対照し合うものとして、抱月とは別の姿勢を示そうとした。もう一つは冒頭にわざわざ時代設定を書き込み、老中松平定信の執権時代と明示したこと。これは世の中のことはすべて権力の枠組みと対峙して存在すると言おうとしたのである。

 

🔷以来この連載はすべて私にとって精読すべきものとなった。連載を読んで「なぜこの小説のこの言葉がここでこのように使われているのか」をゆっくり考える姿勢になることは、「なぜこの患者はこの時、この訴えで、他ならぬ私の外来を受診したのか」を立ち止まって考える「患者中心の医療」と同じだということも最近気づかせられた。文学の読み方を教えられることは生き方を考えることに通じるのである。

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