今日は宮本常一になる
僕が少年だったころの広島の県北はおそろしく貧しい地域で、生活の彩りは夏の盆と秋の祭りの神楽だけだった。その祭りでも生魚に近いものはシイラの切り身の酢漬けだけだった。シイラは実の入っていない籾殻(もみがら)という意味もあり不吉なので「マンサク」と言いかえられていた。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%A4%E3%83%A9
「ブエンの魚」という表現に時々遭遇したが「無塩」=塩漬けしていないという意味だと知ったのは、中学に入って木曽義仲の物語を読んだときだった。木曽の山奥から出てきて無学な彼はブエン=美味と勘違いして京都人に嘲笑されたのである。つまり800年前とさして変わらぬ食生活だったわけだ。
一方、同じ広島県でも母の実家の大崎下島 大長(おおちょう)に春休み、夏休み、冬休みと行くと、そこも貧しい蜜柑農家ではあったが、旧正月、花見、旧の七夕、海水浴とにぎやかな行事が続く。土地が狭いので、あちこちのいくらか大きい農家の庭先で踊られる盆踊りもそれぞれ県北の10倍くらいの人の輪ができるのである。
朝は魚売りの押し車が来て様々な新鮮な魚種が路地裏で入手でき祖母がすぐに料理していた 。これは当時の大長が蜜柑景気に湧いて高額所得農家が全国一多かったことも影響しているが、瀬戸内の島嶼部の文化はやはり厚みがあったのだろう。しかし、人口密度の高い島は恐ろしいもので、小学校を卒業して中学入学まで母の実家で遊んでいると、集落の人みんなが「修道中学と広島学院中学に合格して愚かにも修道を選んだ」という僕の事情を知っている始末だった。進学熱も高かったのである。県北にいた僕が広島の私立中学に進んだのは母を通じて大長の風土の影響という気がする。
それでも、長く県北にいる母の作る料理は大学から帰省するころになると,なんだかまずいものに思えるようになった。
今の僕とあまり変わらない年齢で亡くなった母には申し訳ない感想を持ったものだと済まなく思っている。
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